鳥小屋の仕掛
「ったく……」
養護教諭のアイゼン先生がいなくなったとたんに、ジンは行儀悪く脚を組んだ。
「お前になにかあったらパーシヴァルになにこそ言われるか、わかったもんじゃねえよ」
ぶつくさいちゃもんをつけてくるジンの視線が痛い。
「あいつ過保護すぎだっつーの」
どこかで聞いたようなセリフに、シキはベッドの上で仰向けのまま、乾いた笑みを貼りつけた。
「そういえば、ホランド……先生。あの術はみんなちがうものが見えてたんですか?」
「まあな」
悪態もなく、あっさり肯定。
「自分が恐れるものを具現化する、闇の魔術だ。ヴァグナー、お前はなにを見た?」
問われて、シキはまぶしいくらいにまっ白な天井を見つめた。そうしないと、思い出すだけでまたあの黒い世界に引き戻されてしまうような気がしたからだ。
もう、闇の魔術は解けたはずのに。
「……黒い竜が、いました」
「黒い、竜?」
ジンが眉をひそめて、オウム返しをする。
枕元にちょこんと座るリュゼの小さな耳が、ピクリとはねた。
「はい……それが恐いとは思ってなかったはずなんですけど……」
「お前が見たのは、その黒い竜だけか?」
「いえ――」
天井を見つめたまま、シキは言葉を探る。そうするうちに、白いはずの天井はべつの光景を映し出していた。
あの日の記憶を、鮮明に、残酷に――。
「干巌砂漠のもっと向こうにあるのが、ホロン山って山だ」
すっと腕を掲げて、指をさす。
白い空の下にそびえる、少しぼやけた急峻な山々のどれかを、父はそうやって見つめた。
干巌砂漠は少し冷たい風が吹く場所で、東国の尊き鳥である禽麗が鳴きながら去ってからというもの、ここはこんなふうに変わってしまったらしい。
父との旅はどこへ向かっているのかわからない。けれど、父はいつも子どもの僕が知らない遠くを見ていた。
父は僕の知らないことをたくさん知っている。
博識で、やさしくて、強くて格好良い、僕の自慢のお父さん。
幼い僕にとって、父がすべてだった。
でも、あれは一瞬だった。
リュックを下ろして、靴の中に入った砂を出そうとしゃがんだ、その一瞬の隙だった。
背後から聞こえた砂を踏む重たい音。
虎か、熊かもわからない、けむくじゃらの魔物。
飛び出しそうな目玉が、ふり返った僕の目を射る。
短剣はリュックの横のホルダーに差してある。抜き取る余裕なんて、ない。
父が、僕と魔物に気づいて顔をあげた。少し離れたところで、仙人掌から水を汲んでいるところだった。
シキ!
魔物のよだれまみれの口が開いたと、同時だったと思う。
父は瞬間移動したように、僕と魔物のあいだに割って現れた。
そんな危険な状況だったというのに、僕は父が魔法使いのように思えて、急にワクワクした。だって、魔法使いが現実の世界にいたら、だれだってそうなるはずだ。
愚かな十歳の、僕。
そうして僕はひとりになった。
ゆるく締めた蛇口のように、ポタポタ滴りつづける仙人掌のそばには、抜き身の剣が落ちていた。
父がいつも腰に帯びていた大きくて立派な剣だった。
一度抜いて、しかしそれを捨てて父は僕のもとへ来たらしい。
どうしてそんなことをしたのかは、わからない。
父は魔物なんて軽く倒してしまうくらい強いし、弱気なことばだって聞いたことがない。いつだってそばで笑ってくれる。
いつもそんな父の顔を見上げていた。
それなのに、どうしていま、僕は見下ろしているんだろう。
力なくひざをついて、光を失った暗紫色の目をのぞき込む。
血まみれで倒れる父は、もう、僕に笑いかけてくれることはない。
砂塵が、びゅうと強く、舞った。
スイッチがぱちんと切れたように、意識はふたたび白い天井に戻っていた。
「――父がいました。父の死の瞬間を……見たんです」
一番見たくない光景だった。
自分の恐れるもの。
あれこそが闇だった。
父の命と引き換えに、僕は生き延び、そして孤独という名の恐怖を手にした。
僕の心の中にある闇はきっと底なし沼だ。自分ひとりではい上がれるはずもない、深い、深い穴のような沼がある。
奈落だ。
そこには悲しみや絶望、怒りで満ち満ちていて、ふだんはぴったり蓋をしているだけ……。
「ホランド先生、僕の名前を呼んでくれて、ありがとうございました」
そんな奈落に手を差しのべてくれたのは、ジン・ホランドだった。
あの時「シキ」と呼んだ声は、彼女のものだった。
「僕はてっきり、先生に嫌われてるんだと……思ってました」
いや、これまでを思い返せば、確実にそうだといえる。
ジンのほうへ首を回すと、当の彼女はクッと皮肉を込めて笑った。
「あのムカつく悪魔が連れてきたガキだ。当然、キライだよ」
そう口にしたあと、でも、とつづけた。
「お前が無事でよかった」
直球で、嘘も偽りもない、澄んだ声――ジンの本質に、触れた気がした。
シキはふたたび黒い瞳を保健室の天井に向ける。染みひとつない、純白の天板と、鼻をつく消毒液のにおいが目にしみた。
「闇の力ってのは、自分自身を破滅に追い込みかねない」
袖のないジャケットから伸びる自分の腕を――左の二の腕に絡む二匹の蛇を指先でなぞりながら、ジンがいった。
「こいつは闇の魔術を増幅させる、ヤバイやつだ」
自身の目の色と同じ、深緑色の蛇が交差する刺青。
それを見るだけでシキの胸はざわざわする。むろん、ジンに対する苦手意識も含まれていないとは言い切れないが。
「オレは学生の頃、闇の力に惹かれてハマりかけたんだ。悪魔のような、強大な闇の力が欲しかった」
「悪魔……?」
「そうだ。もっともっと強くなりたくて、許されざる刺青を彫った。そして、この力を試したくなったんだ……それも、最悪な方法でな」
『自分の力を示すにはなにかを奪ったり、壊したり、殺したりするほうが、分かりやすいやろ』
いつかのユーリの言葉を思い出して、シキののどがごくりと鳴る。
「闇の魔術に堕ちかけたとき、手を差しのべてくれたのはガヴェイン先生だった。この刺青に制御をかけて、必要なときだけ発動するようにしてくれたんだ」
――そうか、校長先生のおかげでホランド先生は踏みとどまれたのか……。
「こいつはオレの命を食う。闇の魔術を使えば使うほど、命を食らって強くなるのさ」
「それって、寿命が――」
「制御をかけてもらわなかったら、すぐくたばってただろーなぁ」
なにがおかしいのか、ジンがケラケラ笑いだした。
しかしながら腕に絡む危険な蛇に驚くよりも、彼女がこうして子どもっぽく笑う姿を見て、シキは不意打ちを食らった気分だった。なにぶん、いつもだいたい眉間にしわを寄せるか、眉をつりあげるかのどちらかしかないのだから。
「でもそれだと、さっきの授業で闇の魔術を使ったから――」
「お前らを育てるためなら、サイッコーにイイ使い方じゃねーか!」
「先生は怖くないんですか? そんなのがいつまでも腕にあって」
もしかしたら、次に闇の力を使えば死んでしまうかもしれないのに、という言葉は飲み込んだ。
「授業で教えただろ」
「えっ、授業? えっと……」
「勇気だよ」
ふっと口もとをゆるめるジン。
シキにとって、はじめて教師らしく見えた瞬間だった。
「ま、少しゆっくり休め。補習はそれからだ」
シキの頭をべしっと叩いてから、ジンは鰐皮ブーツをゴツゴツ鳴らして保健室を悠々退室した。
補習。
たったこの二文字で、目の前にふたたび奈落の蓋がぱっかりと開く。
そこへ、いままでずっと沈黙していたリュゼが気遣わしげにのぞき込んできた。
「疲れただろう、あの人間が言ったとおり、いまはゆっくりやすむといい」
「ありがとう、リュゼ」
上半身を起こして、壁に背中をあずけると、リュゼを抱き上げた。そうして小さな友をぎゅっと胸にうずめる。
「リュゼがあの時ガードしてくれなかったら、きっと本当にやられてたよ」
「……なんのことだ?」
「え?」
「おれは……なにもしていないぞ」
「えっ、だって、あのとき……」
黒い目を何度もしばたかせて、リュゼのゆらゆら揺れる炎のような瞳を、見る。
「授業がはじまって……シキが倒れるまで、おれはずっとそばにいた。ほかの生徒や使役獣のように、闇の魔術をどうこうしたわけじゃない……おれはあの場ではしゃべれないから、いきなり動かなくなったシキになにもしてやれなかった」
「でも、ちゃんと会話も……」
「シキ、なにを、見ていたんだ……?」
リュゼの声は、すぐにそれとわかるほどの不安と疑念が混じっていた。
一体どういうことだろう?
パートナーの使役獣も同じものを見て、戦うはずなのに――。
「……リュゼが魔法で黒竜王から――」
そう言いさしたとき、保健室の扉が騒々しく開いた。
どうやらここは、あらかじめ授業終了のチャイムが鳴らないようにしてあったらしい。
やさしいアイゼン先生の、やさしい配慮だった。
*
夜半、眠りに落ちたシキに内緒でリュゼを借りて東塔にやってきたキリクは、風よけも屋根もなにもない最上階で、白い息を吐いた。
肩にちょこんと乗る魔獣リムリットもまた、白い息を吐く。
「あなたがシキに甘い、といったことは訂正しましょう……まさかあそこまでするとは」
「ホランド先生の闇の魔術はシキに効きませんから……いや、魔法や魔術は一切通用しませんからね。あの場で彼女に気づかれるのは、うまくない」
肩をすくめて困った仕草をしてみせる。もちろん、本当に困ってなどいなかったが。
リュゼはそんな主をアーモンド形の目をめいっぱいつり上げて、ぎろりとねめつけた。
「おれにも内緒にするとは、さすがに腹が立ちます」
「過保護はあの子のためになりませんからね」
いけしゃあしゃあと、と言いたげな部下の視線をさらりと流して、キリクは先をつづける。
「私とてあの子のことを思っての配慮です。どうです、本当に闇の魔術にかかったように見えたでしょう?」
「だからといって……北国の秘宝を使うとは!」
「秘宝? まさか!」
キリクが声をあげて笑う。
やおら、まだわずかに残る黒いしずくの入った小瓶を、顔の横で軽くふってみせた。
「こんなもの、ないほうがいいのです。闇の魔術よりもはるかに恐ろしい――精神を惑わし、壊しかねない。それがこの黒竜王の血」
「……どのようにあの子に飲ませたのです?」
「朝、シロガージョに耳をつつかれとき、痛み止めとしてカプセルに入れて渡したのです」
「あのときの……?」
「はじめに渡したカプセルは本物の痛み止め薬、昼食のとき飲むようにと渡したものの中には、前竜王の血を入れました。小さなカプセルにしては、効きが遅かったので、内心ヒヤヒヤしていましたよ」
「まさかそのために、鳥の餌をあげる手伝いをさせたのですか?」
「いまごろ気づくとは、おまえもまだまだですね……」
キリクが口もとに指をあてがった。もはや悪魔の笑みを隠すことはできそうもない。
「卿……! たったの一液であの子が破滅してしまうかもしれなかったのに! 古い竜王の血は、新たな竜王にとって毒なのですよ!」
「ははは、もちろん知っていますとも。ですが、万事解決したでしょう?」
「卿はあの子がどうなろうともよかったのか!」
小さな魔獣が激昂した。肩から飛び降り、塔のへり――のこぎり状の狭間の上にぴょんと降り立つ。真紅の瞳に、怒りの炎が宿っていた。
「はじめはあの子の護衛をあれほど嫌がっていたおまえが、こうまで変わるとはね」
くすくす笑うキリクに、魔獣はさらに毛を逆立てた。
「ルキフェル卿!」
突然、キリクがふっと感情を消した。そこにはあらゆる情を排除した、完全なる無が存在するように。
「……安心なさい。すべては承知のうえです。ただ、万が一あの子を死なせたとあらば、私が責任を持って、この北国を、跡形もなく消滅させるつもりでしたから……」
ただただ静かに、そう告げた。
肌に感じる夜気が、さらに温度を下げたようにも感じるほどに。
「まあ、最後に私があいつのところへ謝りにいきますよ」
少年のように歯を見せるキリクを、リュゼは愕然とした顔ではたと見つめる。
「それは……ご冗談でしょう?」
腹心の部下は目を見開いたまま、ぼう然とつぶやいた。
そんなふざけたことをおっしゃるなんて、あなたは三大悪魔のひとり、帝王ルキフェルではありませんか――。
あなたのいう、“あいつ”はもうこの世にいない。
死をもって償うなど。
あなたはわれら悪魔が崇拝する、冷徹で偉大な帝王――。
キリク・パーシヴァル。
貴殿がわが主を変えたのか?
それとも、貴殿が愛情とやらを注いで育てた、“息子”が、わが主を変えたのか――。
「顔に出ていますよ、リュシフュージェ」
チッチッチと鼻先で指をふるキリク・パーシヴァルはなんでもお見通しである。
リュゼが深く息を吸い、吐き出した。
「ルキフェル卿――いえ、パーシヴァル卿、そのあかつきにはこのリュシフュージェ、お供いたします」
魔獣リムリットの肉体に宿る悪魔は、冷たい石畳にぴったりぬかづいた。
この忠誠から、およそ一時間前――。
空は墨を撒いたように、どっぷり暗く、木々のざわめきもすべてが沈黙していた。
そんなおり、だれもが寝静まった学校の廊下を歩く人物がひとり。ごつんごつん、と重たい靴音が響く。それで体重がひじょうに重たいことがすぐにわかった。
「おや、ロエッタ。こんな時間にめずらしいですね」
ランタンを手にしたキリクは眠たそうにあくびを噛み殺し、深夜に出会った同僚に声をかけた。
ロエッタ・バショカフ教諭は驚いた様子もなくああ、とうなずく。
「ちょいっと研究室でやることがあってな。お前さんこそめずらしいじゃねえか。見回りかい?」
「ええ、ちょっと不審な気配がありましてね。あ、ロエッタのことをいっているわけじゃありませんよ!」
あわてて首をふるキリクに、バショカフは「そりゃそうだ」と豪快に腹を叩いた。
「では、あまり根つめぬよう」
キリクは優雅にマントをつまんで会釈をすると、バショカフに背を向け、歩き出す。そして彼もまた、キリクと真逆へ深緑色のマントを翻した。
しばらくごつんごつんと靴音が薄闇に響いていたかとおもうと、とある部屋の前でぴたりとそれが止まった。
そこは「古代文字研究室」と真鍮製のプレートが掲げられた一室。
扉の取っ手にへばりついていたイモリを太い指で弾き、ノブをひねった。扉のすき間に大きな体をするりと滑り込ませる。
バショカフは古色蒼然とした壁掛け鏡を前にして、ゆっくりひざを折り、頭を垂れた。静寂の中、ぱたんと扉の閉まる音だけがやけに大きくに響いた。
彼は胸に手をあて、主の登場を待った。ややもすると、なんの前ぶれもなく、鏡が渋みのある声でしゃべりだした。
『バショカフよ、なにかわかったか?』
「……提督、やはりキリク・パーシヴァルとシキ・ヴァグナーはなにやらよからぬ企てをしている様子。パーシヴァル卿は強力な魔法薬らしき物をヴァグナーに与えたようですぜ」
『ううむ……あの低級悪魔め、小賢しいまねを……!』
「パーシヴァル卿はなかなか尻尾を出しません……いかがいたしますか?」
『機を見て小僧を始末しろ。バショカフ、お前に任そう』
「はっ、仰せのままに」
『この北国は私のものだ……! だれにも、邪魔はさせん』
バショカフが顔をあげる。
その赤銅色の瞳は、硬く、冷えあがった銅そのものだった。
ものの数分で研究室から出ると、バショカフはいたってふだんどおりにドスドス廊下を歩き出した。
すぐに夜の闇がバショカフの姿を飲み込んでしまう。
ネズミの姿から変身を解いたキリクはまず、急いで天井を這っていくイモリ――に変身したモリスへ視線を投げた。
あれは放っておこう。
そんなふうに考えてから、古代文字研究室のプレートを見つめた。




