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箱庭の安寧

 冬休みからめっきり姿を見せなかったリジルが、五月も半ばの週末、やっとキ魔法学教務室の扉を叩いてやって来た。

「リジル! 久しぶり……ずっと来なかったから、なにかあったのかと思って心配したんだよ」

「ああ……うん」

「首の調子とか、悪かったの?」

「いや、ちょっと、用事が立て込んでいて……パーシヴァル卿には伝えていたんだが」

 濃紫色のマントをシキに手渡すリジルは、気まずそうに手もとだけを見ている。それに、いつもと違ってなにやら歯切れが悪い。

 心配になってシキがのぞき込むと、リジルはあわててサッと視線をそらした。

「それなら、いいんだけど――あっ」

 壁のフックにマントを引っ掛けようとした、まさにその時だった。

「キリク先生! またあいつ――」

「ははっ、リジルが帰るときに返してもらいましょう」

 フックをすべり台にして遊んでいた小人と、たまたま運悪く目があってしまった。あっと気づいたときにはもう遅い。すでにマントはゲラゲラ笑う小人の手に落ちていた。

 リジルの胃がムカムカしているのが、はた目にも見てとれた。

 この教務室にはあちこち魔法がかけられていたり、不思議な物がゴチャゴチャ置いてあったり、しかもこうしてちょっと意地悪な小人が住んでいたりする。それはつまり、キリク・パーシヴァル教諭の嗜好しこうがぎゅっと詰めこまれた部屋、ということだ。

――ただでさえリジルは悪魔拒絶者なのに……。

 短く息を吐いたシキは、薬草学のメメリコーレ先生からもらってきた小瓶を、おもむろにポケットから取り出した。ドロリとした気味の悪い液体の中に葉っぱが一枚沈んでいる。この中に指を突っこむのは気が引けてならないが、それでもやるしかない。

 なんといっても、リジルのためだ。

「貼ってもらって悪いな、シキ」

「ぜんぜん気にしないで、僕が好きでやってることだし」

「ありがとう、だれかさんじゃなく、シキがやってくれて、とても助かるよ」

「ははは! シキはとっても優秀な助手ですからね」

「ああ、パーシヴァル卿の助手では役不足なくらいだ」

「そうでしょう」

 リジルのまばゆい笑顔が嫌みだと知っているのは、おそらくこの場においてシキだけだろう。なにせ、キリクはそのままの意味で受け取っているらしく、満面の笑みでうんうんうなずいているのだから……。


 リジルの首筋にある赤い痣は、本人から呪いだとシキは聞いている。そして、呪いはかけた本人にしか解くことができない。一年生のときに、光の魔術と闇の魔術学でそう学んだ。

――つまりこの「治療」はただの気休めにすぎない。

 それはおそらく、リジル本人がよく理解しているだろう。

 それでも、ほんの少しでもいいから彼女の助けになりたい。そう想うことくらい、許されていいはずだ。


 薬草を剥がすまでの二十分間、たあいのない話ですらシキの胸をときめかせた。

 もっと気の利いた楽しい話ができればいいのに。リジルと会うたび、そんな自分のユーモアの少なさにひどくガッカリする。そのガッカリしている時間さえ惜しいというのに、至福の時間はあっさり終わりを迎えてしまった。

「リジル、終わったよ」

「ありがとう、シキ。来月また頼む」

「もちろん!」

 カラカラになった薬草は、ゴミ箱に「くれてやる」決まりになっている。シキが薬草を放ると、すぐにクチャクチャ音をたてて、ごくんと飲み込む。

 ゲフーッと空気を吐き出したゴミ箱に、リジルのこめかみがピクピク痙攣けいれんした。

 これには恥ずかしさと申し訳なさで、シキも頭を抱えるほかない。


――さすがにそれはだめだろ。


 魔法学教務室にあるものは大概やっかいだったり、なかなか下品だったりするのだ――。



 シキが悪戦苦闘の末に取り返したマントをリジルに手渡したとき、

「なあ、シキ」

 ぽつりとそう呼びかけられた。

「今年の寒波は去年よりももっと厳しいそうだ。授業では野外に出ることが多くなるんだろう? じゅうぶん気をつけたほうがいい」

「うん……わかった、ありがとうリジル」

――いったいどこからの情報だろう。

 それに、いまでさえじゅうぶんすぎるほど寒いのに、その上をゆく寒さとはどれほどだろうか。

――校内でもコートが必要になったり?

「でも、きっとだいじょうぶ、僕にはリュゼがいるから」

「リュゼ?」

 リジルが首をかしげると、窓際に腰をおろして本を読みふけっていたキリクが、すべてを見透かしているかのように、ふっと笑う。

「特別に許可します」

 主語がなくても、シキにはそれがどういった意味か知っている――。



「ではそろそろ失礼する」


 ついさきほどワントーン高い声で、「かわいい、かわいい!」と連呼していた人物とは思えないほど、機械的な声でリジルがいった。それは対悪魔用の態度だと、シキもキリクも理解している。だから、リュゼの正体が悪魔などとまちがってもいえるはずがなかった。

「お気をつけて、お嬢さん」

 ふんと鼻を鳴らして濃紫のマントをひるがえしたリジルに、シキは勇気をふりしぼって一歩前に出た。

「玄関まで送るよ!」

 彼女の、花がほころぶような笑顔が見たいがための、一大決心だった。


 階段を降りる途中、数人の生徒が騒々しく通り過ぎてゆくと、あたりは突然しんと静まり返って、シキは高鳴る鼓動がリジルに聞こえてしまうんじゃないかと、一瞬ヒヤリと肝を冷やした。もちろんそれはただの杞憂にすぎないのだが――。

「北国はどんどん傾いていっている。天候は悪くなる一方だ」

「……黒竜王がいないと、天気が乱れるんだっけ」

「そう……きっと今年はたくさんの人が亡くなるだろう」

 すぐさま、ハリスの落ち込んだ姿が脳裏に浮かんだ。

「第二、第三セクターに知りあいがいるなら、じゅうぶん暖をとれるように、今から準備をしておいたほうがいい……そう、伝えてくれ。きっと、とても大変な年になるだろうから」

 まるで、リジルにはそうなることが分かっているような口ぶりは、まさしく預言者のそれだ。

 シキはリジルのことをよく知らない。それは女の子に根掘り葉掘り聞くのも気が引けるし、なにより恥ずかしい気がして、これまで聞くに聞けないでいる。

 だから、もしかしたら彼女にはそういった力があって、この国では魔法や魔術を使える人がいるのだから、予知ができても不思議ではない――そんなふうに結論づけた。

「……友達はほとんど二セクと三セク出身だから、伝えておくよ」

「シキも、気をつけて」

 玄関ホールに降り立つと、リジルがシキの手を包むようにぎゅっと握りしめた。

 シキも、気をつけて――。

 その言葉に、心臓は勝手に爆音をとどろかせ、激しく暴れだす。首から上が熱くてたまらない。

「あっ、あ、あ、ありがと……!」

 しかもリジルは上目づかいで(もちろん他意はないのだろうが)まじろぎもせず見つめてくる。だが、その深い海の色に不安が映りこんでいることまでは、頭に血がのぼったシキには読み取れなかった。


 ああ、なんていい日だ。


 いまにも心臓が爆発しそうなシキは、意外と小さな手をぼんやり見つめて、心の中でそうつぶやいた。



 *


「私の部下たちも早々に撤退させなければ、被害が出るな。提督が撤退を許すとは思えないが……」

 チッと短く舌を打つ。

 校舎を出たリジルは、背後にそびえるホロン山をその青い瞳で射るようにふり返った。

 雪と岩肌だけの、北国でもっとも過酷で残酷な山。

「彼は黒竜王探しに躍起やっきですからね。ですが、貴女のおっしゃるとおり、早く撤退命令を出したほうが賢明でしょう。死者が出る前に――」

 シロクック鳥の姿でひらりと門柱に舞い降りたキリク・パーシヴァルは、まったく他人事のようにうんうんとうなずいてみせた。

「あなたにいわれるまでもない」

 一刀両断。

「おや、つれないですね」

「悪趣味なマネは、よしてはいかがか?」

「あ、悪趣味……!」

 今度の攻撃はそれなりに効いた。

「……まあ……尽力なさるのが貴女の務めですしね、トリスタン大佐――いえ、リジル」

 お返しとばかりに、嫌みをたっぷり含ませてクルクルのどを鳴らせば、リジルの険はさらに濃くなる。

「軍の冬季演習でしばらく来れなかった、とシキにいってさしあげればよかったのです。そうすれば、もう偽名など使わずに――」

 いい終わらぬうちに真正面から炎の矢が飛んできて、あわや焼き鳥になる寸前でシロクック鳥は空に舞い上がった。

 石造りの門柱が派手な破壊音をたてて火だるまになる。

「黙らないと丸焼きにするぞ」

 リジルは人さし指を宙に――キリクに狙いを定めたまま、冷たく言い放った。これは確実に左胸を狙っている。

「だから『氷の女王』などと揶揄されるのです」

 はーっと息をついて、ふたたび壊れた門柱に再び羽を休めれば、リジルはふんと鼻をひとつ鳴らした。二本足の巨大な鳥にまたがって、たづなをピシャッと打ち鳴らして去ってゆく。

 彼女の拒絶ぶりは、いっそ見事にすがすがしいくらいだった。


 白い鳥は、まるくつぶらな瞳をリジルから背後に向けた。学校の背部には軍、そのさらに後ろに、今はからの王城とホロン山が座している。山頂は密度の濃い、真っ白な雲に覆われてまるで見えなかった。

 軍は黒竜王を探してありとあらゆる場所へ部隊を送り込んでいる。死の山と恐れられるホロン山に、リジルの――リントヴルム・トリスタン大佐の部下たちが派遣されていた。

 竜王不在の脅威はもはや足もとに迫りつつある。

 飛び立つ間際、門柱に復元魔法を唱えた。

「まったく。ガヴェインに怒られるのは私だというのに」


 *



 突然の豪風雪に混じって、氷のつぶてがびしびし全身を叩いた。

 校舎裏の、ザワザワの森で行っていた一時間目、幻魔獣学のさなか、とつじょとして天候が荒れだしたのだ。

 ベルガモットの険しい表情がさらに色濃くなる。

「校外での授業はこれでしまいにする。諸君、使役獣への号令はすべて覚えたな?」

 覚えていません、などといえる雰囲気ではない。

「これより室内で簡単なテストをおこなう。呼び出した使役獣は指輪リングに戻して速やかに教室へ移動するように」

 吹雪よりも厳しい声でベルガモットがぴしゃりというと、四十名の生徒はしぶしぶパートナーをリングに収めて、急ぎ足で校舎に駆け込んだ。


 その日、校外で予定されていた授業はすべて室内に変更され、楽しい楽しい座学――強烈に寒い地下教室での卜占学ぼくせんがく、シキの大嫌いな光の魔術と闇の魔術学、きわめつけは眠気を誘う悪魔学――が連続する事態となった。

 キャメロット生はもれなくクタクタになって、崩れ落ちるように食堂の椅子へ腰を下ろした。


「チックショー! せっかく魔獣の使役実践ってことろだったのにさ! こんなに早い時期から雪が降るなんて、どうかしてるぜ!」

 東国露県産とうこくろけんさんこつぶナットウを、これでもかとまぜながら、ウルトがぼやいた。

「まだ六月じゃんかぁ」

「北国もいよいよあかんようになってきたな……このままやと、冬には……」

 ユーリの表情が、食堂の窓に目をやったとたんに険しくなる。

 それから先、何を言おうとしたのかシキには分からなかったが、以前リジルから聞いた言葉を思い出していた。北国は傾いてきている。第二、三セクターに家族がいるならじゅうぶん注意しろ、と。

 チキンスープをすくったまま、ぴたりと手が止まった。

 このままだと、冬には――『たくさんの人が亡くなるだろう』。

 窓に顔を向ける。そこではあまりにも大きな氷のつぶてが、魔法のかかった窓を叩き割ろうとしていた。

 ガツンガツンと響く音が生徒たちの手を止めた。

 外は白いうねりとなった雪が猛り狂っている。


 キリク先生と出会う前、道を教えてくれた店の主人はどうなるだろう。

 ド・モルガンのおじいさんは大丈夫だろうか。

 レディ・カラマンシカの手鏡で見たおばあさんは……第二、第三セクターに住む人たちは無事だろうか……。


「父ちゃんたち、大丈夫かな……」

 ウルトもみなと同じように窓の外を見る。

「大丈夫や、連絡ないゆうことは、無事ゆうことやろ」

「……ああ」


 スプーンに目を落とす。あたたかなチキンスープに映る自分は、そんな脅威ともっとも無縁の場所にいた――。



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