宣戦布告
二年生全員にとって初となる合同授業が、ふだんと様子の違う魔法学の教室でついにはじまった。
いつもは広すぎてガラガラの席が、きょうは空席を探すほうが難しかった。それに、目の前にいるのは担当教諭のキリク・パーシヴァルだというのに、なぜだかきょうに限って、厳しい授業で有名な幻魔獣学の先生を前にしているようだった。
「いいですか、魔法や魔術を使用するとき、神経の集まるひとさし指を意識します。それから、術をかける対象に指をさし示すのですが……これだけは覚えておいてください」
キリクは自身を見下ろす視線をひとつずつ確認するように、ずらりと座席が並ぶ円形の教室を見渡した。
おもむろに上がった腕は、どこに狙いを定めるでもなく、漠然と生徒たちに向けられている。
ひとさし指と親指だけを残して、ほかの指をにぎりしめた。
「ただし、他者の左胸に指を向けてはなりません」
シキがそれを見たとき、いままで記憶の片すみにあった幼い頃の記憶が、ふと鮮やかに色をつけた。
拳銃という武器をまねた、東国ではそれなりに知れたポーズをとる男の子。
――通りがかった民家の前で、子どもたちがそうやって遊んでいたっけ。
キリクは拳銃を掲げたまま、反対の手に持つ教鞭で宙に複雑な図形を描き、バショカフとまったく同じことをしてみせた。
声を必要としない術――魔方陣。
ただし、それは金色ではなく、目を奪うような赤い光を放った。まさにその瞬間、「エングリルだ!」と、だれかが声を裏返して叫んだ。
魔方陣から躍り出た狐のような魔獣、エングリルは、目に見えない地面を踏むかのように、軽やかに空中を跳ねまわった。
いつだったか、シキには見覚えのある――あれは、課外授業でユーリが崖に落ちかけたときの……。
パチパチはじける火花が頭上に降ってきて、三クラスの生徒のだれもがエングリルの姿を無意識に追っていた。
幻想的な光の乱舞。
この時、キリクだけが冷徹なまなざしで魔獣を見ていることに、偶然にもシキだけが目にした。
「いいですか、左胸に指をさしてはなりません。こうやって、うっかり――」
そう言葉をとぎったキリクが、鋭く、それでいて正確に魔獣の左胸に指を向ける。
いましがた釘を刺したばかりではないか。
だれもが疑問をもった、そのとき。
「ヴァクト・ヴィエン・ディアッダ」
シキの知らない、すこし気味の悪い響きの呪文が、空気に波を立てた。
次の瞬間、魔獣からすべて力が抜けてしまったように、くにゃっと体が折れ曲がるや、ひと声もあげることなく、それは目を見開いたまま、ドサッと教卓に落下した。
火花の残滓が、まだ宙にチカチカ散っていた。
キリクがいったいどんな魔法を――あるいは呪いをかけたのかを知る生徒はいない。だが、その呪文が死につながるものだったことだけが、たしかな事実だった。
叫び声も怯える声も飲み込んだ教室は、いっぺんに静まり返る。
「――こうやって、うっかり、殺してしまうかもしれないのです」
掲げた腕をゆっくりおろしてから、キリクはもう二度と宙を駆けることのない獣の亡骸に目を落とした。
「左胸をさす、ということは、命を奪う宣告と同じなのです」
シキには命の略奪がどんなに残酷でどんなに無慈悲なものか、よく理解している。
命が失われる瞬間は、こんなふうに、あっけない。
「魔法や魔術は、正しく使わなければなりません」
そういったキリクがパチンと指を打つ。すると、音もなく魔獣の体が燃え上がり、魂を失った肉体はあっという間に骨も、灰も残さず消滅していった。
生きた証はどこにも、なくなったのだ。
「本当に、コワイ悪魔やな……」
シキのとなりで、だれにともなくユーリがつぶやいた。それが言葉のままの意味なのか、それともべつな意味をもつのか、シキの知るところではない。
はじめにキリクが注意したように、気のゆるみなど絶対に許さぬといった、一分の隙もない授業がつづいた。いつも奔放で楽しげなキリクの授業とは、あまりにもかけ離れた――。
やっとのことで、息苦しい四十五分間から解放されたシキらは、いままでずっと息を止めていたかのように、長く、深く息を吐いた。廊下にはそんなため息があちらこちらから聞こえる。
「キリク先生がああいう授業するとは思わなかったな……」
「そうか?」
ユーリがにべもなくいう。
「ずっとピリピリしてたし、やっぱ僕たちが二年生になったから厳しくするってことかな?」
「あーあ、パーシヴァルの授業はベルガモットみたいじゃなくて、ラクだったのになー」
「たぶん違うな。きょうはアバロンとエクスカリバーのやつらがいてたからやろ」
「ほかのクラスがいると、いつもどおりじゃダメなの?」
「アバロンなんかは、授業の中身に親がしゃしゃり出てくるからや。いつもどおりに、ユルくはやれへんよ」
「二年から合同授業が増えるっつーのは聞いてたけど、選択科目だけでじゅうぶんだっつーの」
ウルトが後ろ手に腕を組んで、不満を大にすれば、ユーリが鼻でふっと笑う。
「魔法学らしい内容やったし、俺は大歓迎やけどな」
「オレはやっぱさ、ほかのクラスの連中といっしょに受けんの、嫌だね。アバロンのやつらはどいつもこいつも高飛車だしよ。オレらを鼻で笑ってんだぜ」
鼻で笑うのはアバロンの生徒だけとはかぎらないのではないか。げんに、となりのクールな親友も、いままさに鼻で笑っていたはずだ。
――そこはあえていわないであげよう。
シキが心中でそんなことを考えて歩ていたとき、四人の男子生徒が壁ぎわに背を預け、なにやらひそひそ小声で話し合っていた。その目という目は、シキらを――いや、シキを追っている。
「さっきの……」
見覚えのある男子生徒。魔法学の席ですぐそばに座ったあの生徒だ。ウルトのいうとおり、高飛車という言葉がぴったりあてはまる印象の少年である。
「あいつ、親の七光りで有名な、ヴァンブガー・ファクローだ」
ウルト曰く、毎朝一時間かけて髪をスタイリングしているらしい。
彼の自慢のブロンドはどこか威圧的に見えるし、同じ色の細い眉は汚らわしいものを見るように、迫害を是正するしわが刻まれていた。
ユーリのやや高慢な雰囲気とも、ウルトの飛びぬけて派手な雰囲気とも違うその少年は、シキの黒い瞳をじっとり見据えている。
シキと同様、ふたりも不快な視線を察しているのだろう、ユーリが無言で歩を早めた。ウルトにいたっては、いまにも噛みつきそうな気配を放っている。しかし、ここでもめては分が悪いことくらい、ウルトだって分からないわけではない。だから、シキはその腕を引っ張るだけにした。
そのときだ。
「マジで気味ワリィよな。おれ、てっきり悪竜かと思ったぜ、ハハッ」
あからさまなひとり言が、トゲを含んだ浮遊物としてその場に充満する。
ファクローの友人たちが下品に笑う。
それはあまりにも卑劣で、陰湿な。
だれに向けられたものかはわかっていた。だが、罠と知っていてまんまとかかるほどまぬけではない。シキはぐっとくちびるを噛んで、四人の前を通り過ぎようとした――刹那。
強くはね上がった心臓が、足を止めさせた。
いや、止めざるを得なかった。
ファクローが、シキにひとさし指を向けている。
それも左胸――心臓を。
薄氷色の瞳と、漆黒の瞳が真正面からぶつかった。
宣戦布告――。
色素の薄い、ひとを貶めることになんらためらいを感じさせない、冷酷な色の目が語る。
『くたばれよそ者』
急に、指先がヒヤリと冷たくなったように思えた。
「テメェ!」
シキの手をふりほどいて、ウルトが飛び出す。
「ウルト!」
強く制止する声は、ユーリだった。
ファクローに掴みかかろうとしたその手首を、ユーリがつかんだのだ。
「ウルト、手ぇ出しなや。シキはこんなクソ野郎の言うことなんか気にせんでええ」
ユーリはまったくいつもと変わらない調子で、しいていうなら、機械的にそうきっぱりといった。シキとウルトの腕を引いて、薄ら笑いを浮かべる四人の脇をすり抜ける。
しかし、言葉とは裏腹に、シキの腕をつかむ力は痛いほどで、床を打ち鳴らす音も、ふだんのユーリにしては大きく響いた。
シキがはじめて直面する、真の敵意だった――。
四月八日の宣戦布告を胸に焼きつけたまま、シキは否応なく勉強に追われる日常に戻っていった。




