はじめての文字方陣学
まもなく四時間目の予鈴が鳴ろうかというときだった。
「そういえば」
魔法学の教室の扉に手をかける直前で、アリアがはたと一瞬動きを止めてから、勢いよくふり返った。
「シキはだれか好きな人いないの?」
「えっ?」
好奇心が暮れゆく太陽と同じ色の瞳に浮かんでいる。女子の多くがこんなふうに目をかがやかせて語らう姿を、シキは休み時間によくよく目にしていた。
好きな人。
そう問われてすぐに鮮やかな金髪、凛と前を見つめる深い青、花がほころぶような――リジルの笑った顔がサッと脳裏をよぎった。
「いやっ、うっ、えーと……」
「いるんだ!」
「ちが……! そういうんじゃ――」
「ねっ、どんな子? 同じクラスの子?」
これは言うまでもなく、失態だった。
飢えた猛獣に、無条件でエサをくれてやるも同然ではないか。
「どこで知りあったの? いつから好きなの? ねぇねぇ!」
「アリア、ちょ、静かにして……!」
顔をまっ赤にしてアリアの口を無理やりふさいだとき、絶妙のタイミングで助け舟となるチャイムが鳴った。
ところが授業が始まって数分もしないうちに、シキは助けどころか、逃げ場をなくしたことに気づかされた。
キリクの目を盗んで、アリアは丸めた紙切れを前の席のシキに何度も、何度も何度も投げてよこすのだ。ちなみに三発中、一発は確実に頭にあてにきている。
『さっさといいなよ!』
『エクスカリバーの子?』
『まさかアバロンじゃないよね』
『かわいい?』
などと、機関銃よろしく撃ちまくる。
こんなときはだんまり――なんてアリアには通用しない。
シキがかたくなに無視をきめ込んでいると、今度は椅子の背もたれにすさまじい衝撃が走った。せり上がったアリーナ席。どうやら後ろから足蹴にされたらしい。
ゆっくりふり返った先には、鬼の形相、いや、まさしく鬼そのものが三白眼をシキに向けていた。
――うわあ……。
自白するまでには、あまり時間はかからなかった。
キリク先生が「今日はここまで」と教鞭をしまったとき、シキはすでに精魂尽き果て、抜けがらのようにただ席についているだけだった。
なんといっても、リジルのことをそこまで知っているわけでもないし、むしろ、彼女について知っていることのほうが少ない。
名前と、家族を失ったことと、体が呪いに蝕まれていることと、ハンサムな恋人がいること。つまり、ほとんど知らないといっても過言ではない。
『あたし、応援してあげる! いつでも相談に乗るからね!』
最後に飛んできた紙が、限りなくゼロに近い可能性を、ほんの少し引っ張り上げてくれるような気分にさせた。
アリアのまっ直ぐさに、このときばかりはいままでの疲れも忘れて、ほほがゆるむ――。
授業のおわりを知らせるベルが鳴って、おもむろにキリク先生がプリントの束を教卓から取り出した。その山のように積みあがった紙に、四方八方からブーイングやら、うめき声があがる。
「先生、勘弁してよ、そりゃ多すぎだろー」
キャメロットを代表して、ハリスが声高に告げた。同じぼやくにしても、ウルトと比べるとまったく嫌味が感じられないし、まずなによりさわやかだ。
それに対して、キリクがチッチッチと、軽く指をふる。
「ハリス、優れた魔法使いになるためにはそれなりの代償がいるのですよ」
だがシキは知っている。
じつはその大量のプリントのほとんどが、垂直魔法を使って堂々と寝ていたウルト(ほかでもないシキが目玉を描く手伝いをした)や、授業そっちのけで手紙を書いていたアリア、それに巻き込まれたシキらに配られるということを――。
「サイアクだぁー、今回こそはパーシヴァルにバレない魔法だと思ったんだけどなぁ」
「まばたき一回もしなかったら、そりゃバレるよ」とシキ。
「そのサボりにかける情熱をちょっとは勉強に向けたらええとおもうけどな」
はん、と鼻で笑ったユーリがいう。
「あーん、もう! ウルトと同じだけ宿題出されるなんて、サイアク!」
アリアが、カエルよろしくプクッとほほをふくらませた。
「宿題、がんばってくださいね、ウルト君、アリア、シキ君」
「フェイメルちゃん、なんてやさしいんだ……!」
バックに花びらを散らせて、夢見心地のウルトがフェイメルの手をとった。残念ながら『がんばって』の裏にひそむ皮肉に気づくよしもない――フェイメルはこういうとき、絶対に手を貸してはくれないのだ。
一度寮に戻って、プリントの山を置いたシキたちは五人そろって一階へ向かっていた。
大きな両開き扉のすき間から、できたての兎肉シチューの香りが細い糸のように伸びてくる。
ここをくぐれば、疲れも憂いも、なにもかもがいっぺんに吹き飛ぶだろう――。
日々の授業は一年の頃と比べて勉強量も多く、あっという間に四月も終わりに近づいていた。
十二教科中、キャメロット生のなかでもっとも人気を博するのは、文字方陣学だった。
ひげもじゃの大男、ロエッタ・バショカフ教諭が教える実践方式の授業は、ただ座ってばかりで退屈だった生徒たちの心をいっぺんにつかんだ。といっても、シキだけは難しい文字や図を描くだけで、ユーリのようにわた雪が出たり、水しぶきがあがる魔方陣が完成するわけではない。
そもそも、代理で一度だけ歴史Ⅰの授業にやってきて北国のタブーを公然と語ったバショカフのことは、ほとんどのクラスメイトがあまりいい印象をもたなかった。
けれど、この見るからに豪快な先生は教科書をまったく使わないし、しかも根が気さくで明るいものだから、はじめての授業が終わる頃にはみんなの態度が百八十度変わっていた。もっとも、正しくはユーリとウルト、シキの三人を抜いたみんな、である。
シキにとって、その日の記憶はまるで粘り気のあるもののように、胸のなかにこびりついていた。
始業式から三日後の、四月八日――。
一時間目の悪魔学が終わり、シキとユーリ、ウルトが気を張るなかで、ついに文字方陣学の授業がはじまった。
ほかのキャメロット生は、なにかまずい物を口に含んだような顔をしている。
「いいかおめえら、幻魔獣学や光の魔術と闇の魔術学とちがってシケた授業だ、なんて思っちゃいかんぞ。上級魔術師や魔法使いに近づく第一歩が、この授業なんだからな!」
だだっ広い教室にバショカフの声がびりびり響いた。
「山男のヤロウ、すぐに化けの皮をはいでやるぜ」
「でもウルトまでバショカフに目をつけられたら――」
「あんなやつ、オレがひとひねりにしてやらぁ」
ウルトとひそひそ話しあっていたとき、バショカフの小さな目がちらりと動いた。
「ほおう、威勢のいいガキンチョがいるもんだ。俺の話を聞かないっちゅうのは、ずいぶん勇気があるな」
教鞭をウルトに向かって構えると、目にもとまらぬ速さで不思議な図形を宙に描いた。丸のなかに三角形や十字、奇妙な目のマーク。それが金色に発光したかと思ったときに、突然ウルトが口を押えて立ち上がった。
「んー、んんーっ!」
「……口封じの魔方陣」
ユーリがいままさに消えゆく図形を見つめながら、感心したようにつぶやいた。
そこは友を心配するべきところだろう。
「んっんー!」
のどの奥から叫び声をあげても、ぴったりくっついた口はいっこうに開かなかった。
教室内に笑いが起こる。だが、シキは笑うどころではない。いったいなにが起こったのかさえわからないし、苦悶するウルトを助けることもできずに、ただうろたえることしかできなかった。
「見たかい、これが魔方陣の威力だ。なんつったって、言霊が使えねえときにはこれに限らぁ! おめえさんたちにはこれから一年間、俺がみっちり叩き込んでやるからな! 立派な魔法使い、魔術師になってくれよ!」
がはは、とバショカフが豪快に腹をゆする。
シキやユーリ、それから当然ウルトを除くクラスメイトたちは、一気にこの破天荒な教師を好きになった。
やっとウルトのくちびるが解放されたのは、「また来週!」と手を上げながらバショカフが教室を出てからである。
「くっそォ! バショカフのヤロウ、次覚えてろよ! オレ様の魔法で鼻の穴から『レインボーミルク』が止まらなくなる呪いをかけてやる……!」
三時間目、魔法学の教室のいちばんうしろを陣取ったウルトは、ありったけの恨みを込めて机をこぶしで叩いた。ゴキッとにぶい音が鳴る。
「アホ。授業中にしゃべるからや」
「くっそぉ……いだだだ……つーか、オレぜんぜん悪くねぇーし!」
「まあええけど。あれだけ高精度の魔方陣はそうそうお目にかかれへんし、ええもの見せてもらったわ」
「呪文もなかったし、いきなりでびっくりしたよ」
「おまえらもっとオレを心配しろよ!」
ウルトの癇癪が爆発した。
「頭の中はさておき、実力は相当のもんやな……」
そうやって三人が話し合っていると、シキからすこし離れた席に、見なれぬ男子生徒が腰をかけた。
ファッションに疎いシキには、彼がブロンドの髪をなんらかの力で格好良く立たせているのか、それとも寝相が悪くてそうなっているのか、判断に迷った。
友人三人とおしゃべりしていたその彼は、切れ長の目をちらりとシキへ向ける。
氷の塊のような薄青色の目に、冷気を感じた。それはほんの数瞬の交錯だった。
男子生徒はすぐに友人たちに視線を戻したし、シキもユーリたちのほうへと顔を向けた。ただ、胃は鉛が落ちたようにずっしり重たく、胸はしばらくぶりにざわめきを覚えた――。
――いまの目、あれは、嫌悪だ。
広々とした教室が次第に二年生で埋まってゆく。どうやらキャメロット、エクスカリバー、アバロンの二年生全員がこの魔法学の教室に集まってきているらしかった。
「きょうは三クラス合同の、魔法学の授業です。キャメロット、アバロン、エクスカリバーの生徒諸君、それでは本日最後の授業ですので、気をゆるめぬように」
マントをひらりと揺らして現れたキリクが、教壇にのぼる。
優雅に一礼したちょうどそのき、本鈴が甲高い音を奏でた。




