生徒たちの帰校
シキにとって長い長い二ヶ月がようやく過ぎ去ろうとしていた。
「シキ、シキ、朝になったぞ」
幼い男の子が耳もとでささやく。心地よい眠りから無理やり起こそうとするなんて、ひどい夢だ。
無意識に布団を頭まで覆ったその直後、なにかがモゾモゾと動く気配があった。
突然、耳の穴になにかがベロリと入り込む――。
「ひっ!」
バチッとまぶたが開いたと同時にベッドから飛び起きると、枕もとには子犬のような姿の魔獣――リュゼがちょこんとオスワリをしていた。ところがリュゼはいかにも不機嫌といった面持ちで、シキを白い目で見ている。
「目が覚めたか?」
「リュゼ、耳の穴は反則だよ……」
「ユーリやウルトたちが帰ってくる日だから、早く起こしてくれといったのはシキだろう!」
何度も呼んだのに、と友が憮然とする。
「もー……わかったよ、たしかに僕がいいましたー」
もちろん反省なんてしてはいなかったけれど、ふりくらいはすべきだろう。
軽い音をたててカーテンを開ければ、朝日のかわりに薄明るい曇天が視界いっぱいに広がった。
霜の張った窓から湯気のような冷気が立ち昇ったのを見て、それに触れてみる。もしこれが本当にほかほかの湯気だったとしたら、様々な杞憂はいっぺんに晴れるというのに。
「いつもどおりだ」
ただ、きょうは待ちに待った冬休み明け――クラスメイトたちの帰校の日であり、このルームメイトのいないがらんどうの部屋とも、やっとおさらばだった。
「ね、リュゼ」
「なんだ」
足もとからきょとんと見上げてくる愛らしいまなざしに、思わずほほがゆるむ。
「リュゼがいてくれたおかげで、二ヶ月あんまり寂しくなかったよ。……ありがとう」
そうか、と言って照れくさそうに目を伏せたリュゼを抱き上げると、寝間着越しに、規則正しい心音の潮流が伝わってきた。
確かに存在するぬくもりが心地よい。
その鼓動に呼応するように、シキの心臓も軽やかな音を奏でていた。
「シキ! こっちこっち!」
一年生でごった返す校舎前で、聞き慣れた声がシキを呼んだ。生徒の波をかきわけて、声が逆走してくる。
屋外の痺れるような寒さも、活気と熱気あふれる広場を前にして、このときばかりは勢力が弱まっているようだった。
「ウルト! ユーリ!」
「ヨッ、元気にしてたかよ?」
もちろん、と言いさしたとき、ウルトが有無を言わせぬ力でシキをがばっと抱きしめてきた。いや、もちろん恋人同士のそれとはまるで違うにしても、人間の友人からのそういったスキンシップに慣れていないシキはあぐあぐ言いながら硬直するしかない。
「あっはっは、オレらがいなくてさびしかったんじゃねぇの?」
「そりゃ、否定はしないけど……」
「やっぱり? だと思ったんだよなぁ!」
「シキ、アホがよけいに調子に乗るやろ。そこは否定しときや」
すかさずユーリの手きびしいつっこみが入る。
「ちょい待て、アホってオレか? アホってオレのことか!」
猛然と噛みつくウルトを完璧に無視して、ユーリはぞろぞろ移動する生徒の波にさっと乗って行ってしまった。それを追いかけるウルトの姿も、すぐに飲み込まれて見えなくなった。
「シキ! 久しぶり」
トン、と背中を叩かれてふり向いた先に、ぱっと明るく照らす太陽のような笑顔――アリアである。
「アリア! 元気そうでよかった!」
もちろん手紙のやり取りがあったから、息災であることは知っていたけれど、やはり彼女の笑顔を直に見て、心の底から安堵がこみあげてきた。だが、アリアの一歩後を歩いているフェイメルは数秒遅れてシキの存在に気がついたようだ。
はっと上げた顔には、いつもの彼女らしい涼しげな色がない。
「フェイメル、久しぶり。どこか具合でも悪い……?」
シキがそっと声をかけると、フェイメルに血の気が戻ったようだった。まったくの違和感もなく、ごく自然にやわらかい微笑を浮かべた。
「お久しぶりです、シキ君。どうやら馬車に酔ってしまったようですわ」
「そう? 荷物を置いたら、保健室に行ったほうがいいよ? アイゼン先生ならすぐに治してくれるし」
「フェイメル、具合悪かったの? やだもう! 荷物はあたしが持っていくから早く保健室に――」
あわてるアリアに、感謝の気持ちと申し訳ない気持ちを混ぜたような表情で、フェイメルが首をふった。
「もう大丈夫ですわ、シキ君やアリアがお薬ですもの」
フェイメルが目を細めてほほえむ。
シキとアリアは互いに顔を見合わせてから、くすくす笑いをこぼした。
「お帰り、アリア、フェイメル」
「ただいま!」
その言葉が返ってくるうれしさをかみしめて、シキはにぎわいを取り戻した魔法学校の校舎へと、足を向ける。
久方ぶりの日常が、シキの目の前に戻ってきた。
十一時からはじまる最終学期の始業式に向けて、一年生に次いで二年生も馬車で(ウルトから聞いた話では十頭のレプラホーンという一角馬が、ものすごく長い馬車を牽いて空路を駆けるらしい)帰校の途についた。
きょうから半月の間――つまり終業式までは通常通りの授業で、うらやましいことに三年生は三月上旬の卒業式まで自宅、あるいは寮での待機である。そのため、校内の密度はぐんと減っているはずなのに、廊下はびっくりするほど密度が高かった。
男子寮のお目付け役のゴースト、ファット卿がいつもより豪勢なフリルをあしらった服をヒラヒラさせて、生徒からの「おはよう」に、中空を歩きながら威厳たっぷりにあいさつを返している。
二ヶ月間の静寂を埋めるように、学校は明るい声で満ちていった。
「一学年キャメロットの諸君、有意義な冬休みを過ごせましたか?」
アリーナ式の教室のまん中で、担任のキリク・パーシヴァル教諭が教え子たちに向かって、朗らかな笑みをまいた。
「きょうからおよそ半月、また楽しい授業がはじまります。最後の短い学期だからと、気をゆるめてはいけませんよ」
「えーっ」とあがった不満の声に、キリクは四十名の生徒一人ひとりの顔を確認して、可笑しそうに目を細めた。
シキが周囲を見回せば、不満をこぼすわりに、そんなに嫌じゃないといった友人たちの顔がある。その中に、キャメロットのリーダー的存在であるハリスの、どことなく浮かない様子を目にした。
いつだってさわやかで明るい彼が見せる、沈鬱な表情。いつどんなときもあごが上を向いているというのに、きょうは首の支えが利かないのではないかと思うほどのうつむき具合だった。
シキの胸の内に、妙な不安が芽生えた。なにかが変で、なにか気味が悪い……。
まるで、ささくれ立った指で皮膚をゆっくりなでていくような――。
――キリク先生は、ハリスの様子が変だって気づいていないんだろうか?
キリクの生徒を見つめる穏やかな瞳には、さしたる変化は見あたらない。
その穏やかなまま、キリクが朝のホームルームをこう締めくくった。
「四月から、きみたちは二年生です、なにも心配することはありません。この素晴らしい環境で、おおいに学生生活を謳歌してください」
「やっぱ学校のほうが気兼ねしなくていいなぁ。オレ、来年の冬休みは一週間だけ実家に戻って、あとは学校で過ごそっかな」
大講堂でおこなわれた始業式を終えて寮へ向かう途中、ウルトが大きな伸びをしながら、そんなことをつぶやいた。
「そうやな」
ユーリが珍しくウルトに賛同する。そこにアリアも加わった。
「あたしも来年はここに残ろうと思ってたの。きっとそのほうがパパとママも……安心だと思うし」
「ホント? みんな一緒だったら、学校に残るのも楽しいよ!」
シキの弾んだ声につられて、フェイメルのやや硬かった表情がふわっとほぐれた。
ユーリたちが一緒なら、きっと冬休みなんてあっという間に過ぎ去ってしまうだろう。むしろ二ヶ月では足りないくらいかもしれない。
「おう」と、笑顔で返すウルトの真意を、シキはまだ知らなかった。
「そういえば、ハリスってもう寮に戻ったのかな? 朝からしゃべってないから……」
一緒に学校へ戻ってきたユーリたちなら、なにか知っているんじゃないだろうかと、なんの気なしに尋ねたシキの眉がぴくりと緊張した。それは、友人たちの顔色がさっと変わったことに気づいたからだった。
「ハリスは……」アリアが言葉につまったのを見、ユーリが気遣ってか、その先を引き取った。
「あいつは第三セクター出身で……二日前、母親が亡くなったそうや」
「え……」
「冬の寒さのせいだけやない」
ユーリが見せる、奥歯でなにかを噛みしめたような表情は、肉体的ではなく、精神的な苦痛をこらえるものだと、シキは刹那のうちに悟った。
魔法学校のほとんどの生徒の背後に、それはいつのまにかぴったりと張りついているのだ。
「飢えで亡くなったそうや……」
淘汰という、絶対的な節理が。
ユーリが奥歯で噛んだ『なにか』は、おそらく、『理不尽』だ。
ゆっくりと、しかし確実に日常の崩壊が、近づいていた。




