古代文字研究室の陰謀
「おい、オレの授業で寝てんじゃねーよ!」
ばしん、と軽快な音が昼下がりの教室内に響く。
それでシキは強制的に夢から現実に呼び戻されることになったのだが、どうやら二つとなりの席のウルトが頭を叩かれた音だったらしい。ジンが丸めた教科書片手に鬼の形相を浮かべる横で、後頭部をさする友を犠牲に、シキは板書のふりをする――。
始業式から一週間も経てば当然ワクワクも薄れてしまうし、座学は(光の魔術と闇の魔術学であっても)決まって睡魔と闘わなければならなかった。
友人のハリスもあれから少しずつ元気を取り戻して――もちろん周囲に心配させないようにしているだけであるとは思う――、一学年キャメロットは通常運転といったところだ。
「んじゃヴァグナー、三百七十六ページ、『第二章 闇の魔術における呪の種類』を読んでみろ」
まったく軽い口調でジンがいうのものだから、シキは間抜けに「えっ?」と聞き返した。どうやら居眠りはとうにばれていたらしい。
ふだんは教科書なんか使わないくせに、と腹の内で毒づいて、しぶしぶ席を立った。
いわれたとおりのページをしどろもどろで読み上げれば、教壇から意地の悪い視線をチリチリ感じる。
――光の魔術と闇の魔術学もそうだけど、やっぱりホランドが一番苦手だ。
けれど、キリクから聞かされた彼女の「学校と生徒を守る」という使命と行動が、頭ごなしに嫌ってはいけない、と思わせるようになったのも事実だった。
「――闇の魔術には、許されざる呪があり、それは、ふく、ふく……」
「服従魔法、だ」
まったく優しさを感じない棘のある助言が教壇から飛んできた。
「……服従魔法である」
屈辱を圧しての、復唱。
「おーし、きょうはここまで! いいか、お前ら一年の授業は次でおしまいだ。いままで勉強した分は二年ですべて実践につながる。セルカークの光集めなんて生ぬるい課外授業があると思うなよ! いいな、オレの授業で寝やがったら後悔するからな! んじゃ解散」
生徒がもれなく教室から出払ったタイミングで、シキは気合いを込めてジンの前に進み出た。
――キリク先生の頼みじゃなきゃ、この陰険教師に絶対声なんかかけないのに。
「あの、ホランド先生」
「なんだ、ヴァグナー。お前まだいたのか」
じろりと睨みつけられ、「いちゃ悪いか」と腹の内で毅然と反論する。――口に出せない小心さがなんとも惜しい。そのかわり対抗意識を燃やすように、まっすぐダークグリーンの瞳を見据えた。
「授業が終わったら魔法学教務室に来てほしいと、パーシヴァル先生からの伝言です」
「ハァ? なんの用だよ、オレはあいつとしゃべることなんて――」
「ふたりっきりで会いたいと言っていました。僕、ちゃんと伝えましたから!」
矢継ぎ早に言い放って、ジンの返事も聞かずにシキは足早に教室を立ち去った。その心中では、強敵と互角に渡り合ったような昂揚感であふれている。
――あのホランドにビシッと言ってやった!
だが実際、世間一般ではこれを格好悪い「言い逃げ」というものであると、シキは知らないのだ。
*
「校長からの信頼の厚い貴女だから、早めにいっておかねばと思いましてね」
見るからに不機嫌な様子で魔法学教務室に乗り込んできたジンを前に、キリクはあくまで紳士的なふるまいをしてみせた。
彼女のためにひいた椅子も、用意したミント・ティーも無駄になると知っていながら。
「何をだ」
「竜王不在の北国における政治の第一権限は、魔法学校校長とされています」
「んなこと知ってる」
「校長が国軍の武力行使を一切禁じると発令し、国立魔法学校自体は軍の介入を受けないと宣言したことは、ご存じですね?」
これにジンはあからさまな憎悪を込めて、舌を打った。そんな彼女の態度を見るのが楽しくて、キリクは笑いをかみ殺しながらつづける。
「第二権限は魔法省大臣、第三権限は軍……まあ、実質、いまこの国を支配しているのは、国軍といっても過言ではありません」
「北国国軍提督、ソーナ・ペンドラゴンか」
「……彼は第一権限を奪うべくガヴェインの排除を狙っています」
そう言い切って、一瞬目を見開いた彼女の反応を楽しんだ。
わずかに流れた沈黙をジンが看破する。
「……なぜ、そういえる?」
「来たる日に向けて、軍が飼いならす魔獣や魔術師の動きが活発なのは、貴女も気づいておいででしょう。それに、この学校にスパイを送り込んだのですよ、事は明白です」
ふっとくちびるの端を持ち上げれば、まさしく悪魔の微笑にふさわしいだろう。
「第一権限は竜王に次ぐ力。提督であるペンドラゴンが是といっても、ガヴェインが否といえば否……竜王不在の中、絶対的権力は彼女が持っています」
「じゃあ、なんでいまさらになって先生に牙を剥く?」
「機が熟すまで、じっと待っていたのです。闇の力がもっとも強くなる、二つの月が重なる刻――、百年に一度のその日のために動き出しました」
「双蝕のことか?」
すかさずジンの眉がぴくりと動いた。
「そのとおり」
キリクはいつもの品のあるほほえみにパッと切り替えて、ジンに深慮するいとまを与えずさらにつづける。
「まあ、軍の動きが慌ただしくなったのは、悪魔である私がシキという不穏分子を連れてきたせいもあるでしょうね」
まるで他人事のように笑ってみせれば、予想どおりジンは狂暴な形相でキリクに食いかかった。
「それはオレたちにとっても同じだ! あいつはなんなんだよ、魔力もなけりゃ、読み書きも微妙だし、マジで悪魔の子分か?」
「そう思いますか?」
「わかんねーから聞いてんだろうが!」
ぐわっと噛みついてきた山猫――いや、麗しい同僚の手を取り、キリクはその手の甲に軽い音をたててキスをしてみせる。
「ホランド先生、なんなら私のベッドで朝までゆっくり聞かせてさしあげましょうか?」
至極真面目な口調でにこりと口もとをゆるめれば、一拍おいて、ジンの頬と耳が急速に赤く染まりだした。もちろん、半分は怒りによって、だ。
「――こっの、クソ悪魔!」
電光石火の拳がキリクの顔面をとらえた。
バシンと響いた軽快な音は、間違いなく鼻っ柱を折ろうという強い意志を感じる。だが、直前でそれは未遂に終わってしまった。
キリクは受け止めた拳をそのまま引き寄せ、くちびるとくちびるが触れる寸前でぴたりと止めた。
「あの男は」
一切の“遊び”を排除した声音で、キリクが言う。
「この北国の新たな王にならんとしています。世界の理に反して北国を奪おうとしているのです。そんなことをすれば北国は急速に崩壊していくでしょう。いまはガヴェインがギリギリの線で維持させているだけのこと。しかし状況は悪化している……ホランド先生、いずれ貴女も戦いに身を投じることになります。その時は、迷わず鞭を振り下ろしてください」
ジンの深い緑の瞳には、悪魔、キリク・パーシヴァル卿のいつになく真摯な姿が映っていた。
*
一方、ジンの授業でほかの生徒よりも宿題を多く出されたシキは、部屋でウンウン呻きながら頭を悩ませていた。もちろん、ウルトはシキの倍の量に苦しんでいたが、頼みの綱であるユーリは「せいぜい頑張り」と鼻で笑って早々に図書室へ向かってしまった。
見事なまでの冷徹ぶりはいっそ清々しい。
「オレもうやだあ!」
夜十時をまわったところで、ウルトがノートを放り投げた。
「ホランドの授業は明後日までないし、オレ、明日やる! いちぬーけた!」
なかば怒りながら立ち上がって、声をかける暇もなく部屋を出て行った友人の潔さに、なぜか尊敬の念さえ覚える。
残ったシキは山積みになったプリントの束とノートに目をやり、うんざりしながら頭を抱えた。
「僕も休憩しよ……」
ベッドの上で仰向け、それも大の字になって眠るリュゼにちらっと視線を投じる。起こしてしまうのは可哀相かな、などと考えてはみたものの、やはりいますぐこのすさまじい重圧から逃れたかった。
シキは眠たげなリュゼを肩に乗せ、ぶらぶら廊下を歩き、階段をただ降りていく。本当は五.五階でみんなと一緒におしゃべりの輪に加わりたかったけれど、フェイメルから「宿題は終わったんですか?」と聞かれれば、きっと苦しい弁明しかできないとわかっていた。
ウルトならきっと上手くごまかせるだろう。
シキは気分転換も兼ねて、あてどなく夜の学校を歩くことに決めた。
ふと、二階まで降りたときだった。
夜の静寂に、だれかのささやき声が耳を撫でた。普段は行くことのない「古代文字研究室」という部屋から漏れているらしかった。
「だれだろう?」
こんな時間にだれが話をしているのかと、興味本位で研究室に足を向ける。
「やめとこう、シキ。夜も遅いし、戻ろう」
「大丈夫、ばれないように近づくから」
シィ、と人差し指を立てて、シキはリュゼにそれ以上の助言を拒んだ。研究室の扉の前で息を殺す。
こんな夜の十時に誰がひそひそ話をするというのだ。
耳をそばだてた。
閉めきった扉からかすかに声が聞こえる。――女の声。
だが、特定するには情報が圧倒的に足りない。
「……あの方は魔法学校のヘマを待ち望んでおいでよ。さっさとパーシヴァルを追い払ってくれないと。ジン・ホランドが嗅ぎまわっているっていうのに……それに、ヴァグナーの始末くらい、簡単でしょ――」
「黙れ!」
女の声にかぶって、落雷のような怒号が飛んだ。ワッと叫びそうになって即座に口を手で押さえつける。まるで自分が避雷針になったかのように、体がビリビリと痺れた。
「俺はおめえのような女狐の部下になった覚えはねえ! 俺は提督閣下から命令を受けたんだ! よく聞けよ……二度と! この俺に! 指図してくるんじゃあ、ねえ!」
雷鳴のような怒声が研究室の扉さえも震わせた。
シキは本能のままに扉から退いた。背中に、脇の下に、冷たい汗がじっとりにじんでいた。
――リュゼのいうとおり、聞くべきじゃなった。
女の声は判然としなかったのに、彼女が発した言葉はくっきりと脳裏に焼き付いている。
力任せに叩くような拍動が、左胸を通じて指先までに伝わった。
『ヴァグナーの始末くらい簡単』
シキはリュゼと言葉を交わさず全力で寮へ駆け出した。
――だれか僕のことを殺そうとしている?
――いや、あの腹に響くような男の声は知っている……一緒にいた女の人がだれかはわからないけど、あの怒鳴り声の主はロエッタ・バショカフ先生だ……。
警鐘を鳴らすように、鼓動が加速する。
ヒゲナットウ――ブラッド教頭の悪魔嫌いや、ホランド先生の嫌がらせの比ではない。
バショカフと何者かがキリクを排除し、あまつさえシキの命を狙っているのだ。
613号室へ向かう途中、窓の向こう側では、まっ暗な空から湿った雪が降りだしていた。




