追憶(4)
「……ルキフェル」
くちびるから細い糸がするする伸びるように、まっ白な吐息が流れていった。
呼びかける声は普段の彼からすると、ずいぶん弱々しく、そこに悪魔では理解しがたい葛藤があるのかもしれない。
さくっと小さな音を残して、短剣は雪に沈んだ。
「……俺にはこの子を、殺せない」
「……なぜです。命を救われたからですか」
その問いに、キリクは深い苦悩を眉間に刻んで首を振った。
「……こんなふうに笑うこの子を、殺すことはできない……!」
「では笑っていなければ殺せますか?」
「……いいや、そうじゃない」
「眠っていなければ殺せますか?」
「そうじゃないんだ……」
「どんな姿であっても、目の前にあるのはお前が憎みつづけてきた、黒竜王ですよ」
悪魔はふたたび人間の心の隙間をつついて、甘く囁いた。
――“殺すべきはいまだ”、と。
だが、目の前の人間はその隙間に入り込ませて――悪魔の甘言を受け入れて、それを一笑した。
「ハハッ、やっぱりおまえはまったく悪魔だよ……けど、残念だったな」
「……では、どうするのです」
あたりにしばしの無音の緊張、あるいは祈りの間の静寂に酷似したものが流れてゆく。
やがて、キリクはまどろみから目覚めるようにふっと目を見開いた。
彼の紫暗の双眸が、陽の光を浴びたようにキラキラと輝く――いや、ルキフェルにだけそう見えたのかもしれない。
「俺が、この子を育てようと思う」
それは、ゆるぎない決意そのものであった。
その決然とした視線が今度はルキフェルの足もとでぐったり横たわる鳥へと流れた。
「その鳥、吉鳥ファルケスなんだろう? おまえが殺したのか?」
予見していた質問に、「……いいえ」と、あらかじめ用意していた台詞を返してみる。
「国軍に気づかれては厄介なので、黒竜王の殻が壊れる前に捕まえて眠らせたのです」
「世界に五羽しか存在しない吉鳥にそんな真似をできるのは、ルキフェル、おまえくらいだよ」
力をほとんど失ったとは嘘ではないか、と訴えるような視線がルキフェルに突き刺さってきたけれど、それに応じることはしなかった。
キリクは苦笑し、頭を軽くふって、短く息をついた。それから彼らしい、超然とした語気できっぱりと言い放つ。
「ルキフェル、俺はこの子を連れて北国から出る。軍の魔術師に気づかれないところまで」
「おや、それはさびしいですね」
「おい、棒読みだぜ」
胡乱な視線を浴びて、ルキフェルは声高に笑った。
「他意はありません」
「まあいい、それまでファルケスを眠らせておいてくれるか?」
――巧い。
最善の策を弄する友へ、肯定の意味でほほえんでみせる。この国から出てしまえば、北国に竜王不在の間、吉鳥は鳴くことができない。そうなれば軍も黒竜王の存在には気づけないだろう。
――ならば。
「ひとつだけ」
ルキフェルが人さし指を立てた。
「お前の願いを叶える代わりに、ひとつだけ私の願いも聞いてもらえますか?」
キリクがうなずく。
「お前の名を私が貰いたい」
「なに?」
「悪魔“キリク・パーシヴァル”として、北国へ正式に入国したいのです」
紫暗の瞳が驚きでキュッと縮まった。
「名前をくれてやるのは構わないが、わざわざ軍に正体をばらしてまで北国にいる必要ねぇだろ。それに、軍の監視や誓約だってある」
「知っています」
「……まだ地獄に戻れないなら、貰った力は返すぜ」
「それはお前に渡したもの。返すのは契約に反します」
じゃあなぜだという無言の問いに、ルキフェルは胸の内で愚問だとつぶやく。
「ここでお前たちの帰りを待っていたいのですよ」
それは、まぎれもない本心だった。
嘘偽りでぬり固めた戯言などではなく、真の言葉。だが――
「……まあ、それは建前で、身を隠して待つより、名と姿をさらしたほうが優遇されますし。それに、国軍のコルイドはどうも苦手でして」
「そっちが本音かよ」
キリクが呆れて毒づいた。
ルキフェルもこの聡明な友に本心を悟られないよう、軽く笑って応じた。
「まあ、国軍に忠義を誓えば爵位や多くの権利がもらる法令があるから、誇りを捨てた悪魔にとっちゃ快適だろうけど」
その法令とは、悪魔が軍属の魔術師たちに「悪さをしません」と誓いをたてて北国で平穏に暮らすというものだった。万が一、悪魔が北国に不利益をもたらす場合には、名前を使って束縛するための、有り体に言えば一種の呪いである。
とはいえ、先代竜王が逝去して約百年、そんな奇特な悪魔はいなかったために、現在悪魔はもれなく入国を拒まれていた。
「偽名は見破られてしまいますし、かといって“ルキフェル”の名を縛られたくはありませんので」
たとえ上級魔術師であっても悪魔の帝王を縛ることなどできないだろうに――そんなふうに言いたげなキリクは「わかったわかった」と、うっとおしいハエでも払うみたいに、手をふった。
「おまえがキリク・パーシヴァルか……それもいいだろう」
「国立魔法学校に古い知り合いがいるので、私はそこに身を寄せます。時が来たら、その子と一緒に訪れなさい」
「俺は、北国に戻らないかもしれないぞ」
「おや、それは困りましたね」
キリクの皮肉っぽい笑みに応戦して、ルキフェルは嫌味なほど上品な微笑を切り返した。
「その子を人間と同じように育てたとしても、まったく同じにはなれません。この子は……彼は、国民や命ある生物達の頂点に立つ、北国の竜王ですからね」
わかっているさ、と友が肩をすくめる。
「だから、俺が育てるんだよ――この子が、優しい竜王になるように」
腕に抱く黒竜王の、桃のようなほっぺたを、ごつごつした指でそっとなでた。
「……北国にファルケスの鳴く日が、待ち遠しいよ」
「お前からそんな言葉を聞ける日が来るとは、思いもしませんでした」
「悪魔の帝王に見せてやる」
黒竜王を腕に抱く友が皮肉すらやわらかく抱きとめて、穏やかに告げる。
「吉鳥のノルディカ、そしてこの子が創る豊かな北国を……過去の黒竜王たちのときとは違う、美しい世界を」
いつの間にか訪れていた暗い夜を見上げる友の瞳に、瞬く星空が映っているように思えた。それは、彼が見つめるはるか未来の夜空だろうか、それとも、希望の輝きだろうか――。
ルキフェルはおもむろに人差し指をくるりと回した。
すると、キリクの胸から糸状のものがするりと抜けだし、チカチカと白光をきらめかせながら、それは生き物のように自らスーッとルキフェルの胸に吸い込まれていった。
「これで悪魔の“キリク・パーシヴァル”のできあがりです」
「おい、ルキ――」
「もう“パーシヴァル卿”と呼んでいただいて結構ですよ」
悪魔はいたずらっぽくチッチッチと指を軽くふって、おまけのウインクをぱちんと飛ばす。
「それより、この子にも何かしたのか?」
友の腕で眠る黒竜王の胸は、いつの間にかほんのり赤い光を帯びて、まるで炎が点ったようにくすぶっている。
「ええ、竜王の力を封じさせてもらいました。ふたたびお前たちがこの北国に戻るそのときまで――いえ、来るべき時が訪れたら、力は解放しましょう」
「ふうん、じゃあ、しばらくはただの子どもってわけか」
黒竜王をまじまじ見つめる友を横目に、パーシヴァル卿はコートの内側からあるものを取り出した。それを無造作にぽいと放る。
「別れのあいさつの代わりです」
「なんだ、この金色の……コンパスか?」
丸いフォルムの真鍮のふたを開ければ、北の文字だけしか打っておらず、針がくるくる回転している奇妙なコンパスだった。
「北国への道しるべです。それと――」
ピィと鳴った口笛を合図に、ふたりの前に出現した青い霧はどんどん密度を濃くして、ついには巨大な群青色の獣に変身した。
「バッケンボルヴァー……! おまえ、こんな珍しい魔獣を飼っていたのか?」
「ははは、彼はただの魔獣ではありません、私がもっとも信頼する配下の悪魔が、この魔獣の肉体に入っているのです」
「……相変わらずやることが突拍子もないな……」
「そういっていただけて光栄です。この魔獣なら一年以上かかる国境越えも、一日、二日でしょう」
そういって、白い嵐が渦巻くホロン山の山頂を見上げた。
ふたたび吹雪がやって来る――。
凍てつく国の終わりはまだ先である。
そうして友も、生まれたばかりの黒竜王も、吉鳥ファルケスも、悪魔の帝王の前から去った。
バッケンボルヴァーが戻ってくるのが待ち遠しかった。
うまく、無事に着いたと報告がほしい。
「黒竜王に祝福あれ」
吐く息がひどく冷たい。
狂暴な吹雪が再度猛威をふるってきた。
お前はどこからが私の仕業か、と聞いたな。
崖に落として怪我をさせたことは、いつか謝らないといけない。
お前は聡い人間だ。よもやすると、それも気づいていたのかもしれない。
炎の泉からたまごを持ちだして崖に引っ掛けたことも、いつか黒竜王に謝らないといけないな。
黒竜王の血が必要だったとはいえ、怪我をさせたことは、すこし悪かったと思っている。
だが、お前という人間にこの北国が変えられるのか、賭けてみたかったのだ。
「『北国への帰還』か。楽しみにしていますよ」
キリク・パーシヴァルは目を細めてはるか遠い東国を見つめる。それから北国国軍本部へ、踵を回した。
十六年前の、十二月一日のことである――。
キリクは懐かしい記憶の海から、現実の夜空に戻った。相変わらず薄ら寒い色の暗雲が空一面を埋め尽くし、ふたつの月はチラリとしか拝めない。
二十五年前とほとんど変わっていない世界を、時計塔からたった独りで眺めた。
「……お前が語ってくれた美しい世界を、本当は一緒に見たかった。なあ、キリク……」
隣に立っているべきはずの、いまは亡き友に語りかける。
胸の奥がしくしくとうずいた。
国境での彼の死を知っても痛みなど感じなかったというのに、どういうわけか、いまは心奥を細い針で刺されたような痛みがある。
胸にそっと手を置き、「ああ」とつぶやけば、心の中になにかがすとんと落ち着いた。
――寂しい、という感情はこれなのか。
キリク・パーシヴァル卿の横を、痛いほど寒々とした風がとおりすぎていった。




