追憶(3)
悪魔の帝王ルキフェルがキリクと出会ってから、月日は流れ――十年。
国民の暮らしは年を追うごとに、ますます貧困の色を濃くしていった。
キリクは相変わらずその日その日を食いつなぎ、狩人の目をあらゆる場所に光らせて、黒竜王を探す毎日を過ごしている。寒さと飢えに疲弊しきった表情の人々と違って、その紫暗の瞳に宿る強い光は十年前となんら遜色がない――。
――そう、悪魔の帝王の力は、十年のあいだで一度たりとも使われることがなかった。
「なあルキフェル。吹雪に混じって妙な気配があるように感じる……おまえにもわかるか?」
ホロン山から吹きすさぶ雪嵐に向かって、キリクは目を細めた。
真冬の身を切るような寒気が、麓に住まう者の命という命をことごとく奪っていったために、キリクとルキフェルの姿のほか、あたりにあるのは白ばかりである。
キリクの首に巻かれたぶ厚い布の端が、バタバタと音をたてた。
「ええ、おそらくそれは黒竜王の気配でしょう」
「……やはり黒竜王!」
狂気と歓喜にゆがんだ笑みを浮かべるキリクを、となりに立つルキフェルはまばたき少なに見つめた。
「ホロン山が炎の泉だったのか」
「そのようですね」
「……まだ復活はしていないな?」
「ええ、ファルケスはいまだ鳴いていないですからね」
「俺は行くぞ。国軍に先を越されちゃ二度と殺す機会がなくなる」
「たとえ軍の上級魔術師であろうとも、復活前の竜王の気配を感知することは困難です……お前と同じ力をもっていれば、別ですが」
「ハッ、だれかさんが軍の魔術師にもホイホイ魔力を渡してなきゃいいけどな」
皮肉をたっぷり込めて、キリクは鼻を鳴らした。
「黒竜王と出会うのは、お前が最初ですよ……キリク」
「あたりまえだ」
竜王の眠るホロン山をだけを見つめるキリクに、ルキフェルの姿は映らない。
おのれが悪魔と変わらぬ微笑を浮かべていることに、キリク・パーシヴァルは気づいていない。
「悪竜が目覚める前に俺が――殺す」
酷薄な、微笑だった。
どんなに雪山に慣れているキリクでも、この山の異常なまでの猛吹雪には体力が根こそぎ奪われていった。ひざがくじけそうになるたびにおのれを鼓舞し、あるいは叱咤する。
ホロン山は北国で最大の高さと面積を誇る未開の山、さらに、魔法や魔術は一切使用できない魔性の山として畏れられているため、自らの手と足で向かうしか方法がなかった。それなのに、ルキフェルときたら「さすがに寒いので私はここで待っています」と、にこやかに手をふってキリクを見送ったのだ。
「なにが友達になりたい、だ!」
そこはかとなく漂う友情のもろさ。
だが皮肉にも、それが雪山を踏みしめる下肢に活力を与えた。
「あいつ、腐っても悪魔か! 薄情者め!」
やっと山頂が視界に入ったというところで、あきらかに吹雪とは違う――まるで金切り声のような、泣き叫ぶ声のような――音が、ホロン山全体に響き渡った。
気をとられたその一瞬、右足がふんわり積もった雪の下でずるりと滑った。
「しま……」
激痛にうめく声も、雪山の風が理不尽にさらっていく。
滑落はひどくあっけなかった。
吹雪から遮られた岩肌にかろうじてしがみつき、手袋を失った片腕だけで全身を支える。絶壁に投げ出された体は重力によってミシミシ悲鳴をあげていた。
魔性の山では一切魔法が使えない。ならば、悪魔の帝王の力ならどうだ――そこまで考えたのだろう、キリクは犬が身震いするように頭をふった。
「……チッ、腕がもげそうだ……」
視点が定まらぬままに頭上を仰いだそのとき、ひたっ、としずくをほほに受けた。
「なんの、水だ……?」
視線の先には、岩場から生えた木の幹と幹にはさまるように、大きく、丸いものが引っかかっていた。暗くて鈍い色のそれは、コルイドの卵だろうか?
「魔獣の巣か……こりゃあ、生きて帰るのは、ねぇな……」
卵をぼんやり眺めていると、妙に白いものが目についた。どうやら、殻がすこし割れて、穴が開いているらしい。かすむ視界で、瞳を凝らす。
卵の穴からひょっこり飛び出た、ちいさな白いもの。
刹那、紫暗の双眸がぎくりと大きく見開かれた。
「こ、子どもの、手?」
ふたたび頭上から降ってきたしずくが、ひとつはキリクの額へ、そして今度は手の甲へ落ちた。
ものの数秒の間に全身をめぐっていた激痛がぴたりとやんで、身体に、指先に力がみなぎるようだった。それは、いともたやすく絶壁をのぼって行けるほどに――。
岩壁と木の幹にしっかり足をかけて、キリクはおおきく息をのんだ。
けっして太くはない幹に引っかかっていたものは、大人が両手でやっと抱えられるほどの、巨大なたまご。色は鈍く黒光りをしている。
割れた殻を指でさらに広げた。ぱきん、ぱきんと無機質めいた音が単調に響く。
胸をゆっくりと打つ不穏な鼓動。
緊張と、不安と、期待が入り混じる。
殻を半分剥がして、キリクの手と心臓が震えた。
生まれたばかりのような赤子が、たまごの中でこの世の喧騒を知ることもなく、眠っている。
髪の色は黒。
それは、禁色とよばれる、北国の王だけに許された色。――漆黒。
「そんな――」
そんなはずがない。
否定をしたくても、のどがカラカラに乾いてしまったように、声はぷっつり途切れた。
たまごの中で幸せそうに口を動かして眠るこの赤子こそ、捜し求めていた悪竜――。
「嘘だ……」
赤子の腕に見つけた一筋の傷をぼう然と眺めているうちに、それは徐々に薄くなって、最後にはとうとう塞がってしまった。
「ありえない、自分で傷を治すなんて……」
これほどまでに驚異的な自然治癒力を持っているからこそ、世に君臨した竜王を殺すことは不可能なのだろう。
けれど、いまなら腰に帯びる短剣をふり下ろすだけですべてが終わる。
――そう、すべてを終わらせることができる。
キリクのみならず、すべての人間は知らない。
竜王と称されるもっとも尊き生き物が、炎の泉と呼ばれる秘境でたまごから孵り、殻を破って復活することを。そのときすでに絶対的力を有する成体となっていて、自らの翼で王の居城へ神々しく舞い降りる。
だから、魔法博士や高位の魔術師でさえ、たまごの中で無垢な赤子が眠っているとは、知らないのだ。
本来、北国の国民がはじめて目にする黒竜王の姿はニ脚の青年の姿と、四脚の漆黒の竜の姿――。
愕然たる真実が、いままさに、キリクの眼前にあった。
ホロン山から無事に生還したキリクの腕には厚手のボロ布に包まれた赤子が抱かれていた。その赤子はたまごから孵ったことさえ知らずに、安寧の眠りに落ちている。
吹雪がおさまり、ひやりと冷たい空気だけが麓に滞っていた。
出迎えたルキフェルの足元に横たわる、真紅とも黄金色ともつかない一羽の鳥を一瞥して、キリクが口火を切った。
「……どこからがおまえの仕業だ? 悪魔の帝王」
「さすがは私の見込んだ人間、優れた炯眼をお持ちですね」
峨峨たる稜線にも似た面立ちを見とめて、悪魔はくちびるだけを優美に曲げる。
――その怒りは私に対するものか、それとも――。
「……竜王は特殊な力に守られた場所で生まれる」
「ええ、それを炎の泉、あるいはゆりかごと呼ぶのは、学者たちのあいだでは有名らしいですね」
「黒竜王は炎の泉で守られているはずだ。なのに、こいつは木の枝に引っかかっていた」
「おや、それは……じつに不思議です」
「ルキフェル、すべておまえが仕組んだことだろう」
その視線は、相手を焼き殺さんとするほどの苛烈な熱を帯びている。
「どうして俺とこの子を引き合わせた? 俺がこの国を、黒竜王を憎んでいると知っているだろう!」
「……家族の仇をとるのでしょう?」
キリクの問いかけに応じることなく、悪魔は冷徹でいて甘美なひと言を、氷菓子をひきたてるシロップのようにそっと垂らしてやった。
「私が渡した力を使えば、いや、使わなくともまだ赤ん坊の黒竜王を殺すのは、虫を殺すより簡単ですよ?」
悪魔の囁きに、キリクの瞳が揺れる。
「さあ、短剣を抜きなさいキリク・パーシヴァル」
キリクの手が何かに憑りつかれたように、腰のホルダーへゆっくり伸びていった。
「一瞬でカタがつくのです……きょう、やっとお前の悲願が達成されますよ」
そうだ、黒竜王こそが悪なのだ。俺はこの赤ん坊を殺し、悪を断つのだ。
身体の内で狂気をはらんだ憎悪が、そう囁く。
手が、古びた短剣の柄をつかんだ。
その、刹那。
「あう」
腕の中から小さな声が漏れる。
「あうぅ」
夢うつつの中で、ちいさな黒竜王がゆるゆると笑った。
善も悪もまだ知らない、無垢なる笑顔が、そこにあった。
揺れ動く瞳を抑え込むためにまぶたをかたく閉ざし、キリクは短剣をさらに強く、握りしめた。




