追憶(2)
自身の魔力のほとんどを、人間――キリク・パーシヴァルに譲渡したルキフェルは、崖を下る細道をのんびり歩いていた。キリクの後にぴったりついて、ゴキゲンな鼻歌まで歌っている。
「……おい、ルキフェル」
「なにか?」
「なんで俺のあとをくっついてくるんだよ。助けた礼はもらったし、これでチャラってことだからもういいだろ。魔界でも地獄でも、さっさと帰れよ。とゆうかなんで人間界なんかにいたんだ?」
「よくしゃべりますね」
「うるっせぇな!」
正面を向きながら怒鳴るキリクの仏頂面を想像して、ルキフェルはことさら愉快な気分になっていった。
どうやらキリクは悪魔の力を得ても、内外面にこれといった変化はないようだった。しいて言うならば、五感が過敏になったことと、悪魔特有の気配を感じ取れるようになったことくらいらしい。
怒りっぽいところは彼の元来の性質なのだろう。
「まあ、その通り貸し借りゼロになりました。ですが、私はお前にたいへん興味があります」
「ハァ? 俺にそっちの趣味はねぇからな」
「ははは! ご安心なさい、私は人間ごとき、相手になどしません。しかし……キリク、お前は人間のくせにじつにおもしろい!」
「ああそう」
喜々とするルキフェルに対し、キリクは腹立たしさ混ぜてため息をついた。あるいはこの陽気な悪魔に、一種のあきらめのようなものを抱いたのかもしれない。
「私は城へ帰るための車も呼べないほど無力になってしまいました」
ルキフェルは悲劇の主人公よろしく、この世の憂いを嘆いて軽くかぶりをふってみせた。
「お前にほとんど渡してしまったのですから、低級悪魔以下……下等な人間と大差ないのです。だから、こうして空も飛ばずに歩かなければならないのですよ」
すこしは残しておけよ、という合いの手をさらっと無視して、ルキフェルがつづける。
「ですが、お前は空くらい簡単に飛ぶ力を得たというのに、なぜ歩くのです?」
「悪魔の力はすこしでも残しておきたいんだよ」
さも当然だろうというように、キリクはあきれた口調でそういった。
ルキフェルは結んだままのくちびるにかすかな笑みをにじませる。
――悪魔の力は減るような代物ではないと、博識なお前が知らないはずはない。
「キリク、お前は賢いですね」
――悪魔の力を私利私欲に使えば堕落することを、この人間は知っているのだ。
「それはそうと、なぜ竜王を殺したいなどと? まだこの国に黒竜王は復活していないでしょう。いつ現れるとも知れない黒竜王を待っているのですか?」
「ホント、うるせえな」
背後から舌鋒鋭く襲撃され、ややうんざり気味にキリクは毒づいた。はああと本日二度目のため息をつく。
「悪魔が――それも悪魔の軍勢を支配する『帝王』が、こんなにも緊張感のないやつだと悪魔学博士の面々が知ったらショックでそのままポックリ逝っちまうな……」
効きもしない皮肉をルキフェルに浴びせてから、面倒くさそうに頭をガシガシ掻いて、
「ったく、たいした話じゃねぇからな」
そう口火を切った。
「俺の家族は、先代黒竜王が承認した法令に殺されたんだ」
「ほう」
「なにをやっても法に触れるくらいだ……収入の四割を軍に納める『軍部納付金制度』が施行されて、もともと貧しかった俺の家はさらに火の車ってわけだ」
悪魔の帝王には貧困がいかなるものなのか、完全に理解することはできなかった。しかし、青年の身なりを見れば、辛酸をなめるに等しいものだと容易に想像できる。
「俺がまだガキの頃、両親は立派な職業に就けるようにと、収入の一部をこっそりため込んでいた。俺を魔法学校へ入学させるために、自分たちが削れるものを……いや、おそらく、すべて削って」
「それは涙ぐましい」
絶妙のタイミングで出した合いの手は、ひとを嘲弄にするようにも聞こえるし、憐憫を込めた響きのようにも聞こえる。事実、ルキフェルにとって、キリク・パーシヴァル以外の人間は毛ほども関心がないから、そのどちらでもなかった。
「まあ、それがばれて両親は拷問の末に国軍に殺されたよ。おかげさまで俺は孤児ってわけだ」
「なるほど、どうりでひねくれているわけですね」
「……もうしゃべんねぇぞ」
「すみません、つい。さ、つづきをどうぞ」
いまのは謝罪だったのだろうか、と言いたげな表情でキリクはこめかみに指をあてる。
またしてもため息がこぼれた。
「……先代黒竜王が死んでも法だけはいつまでも残っているし、黒竜王に代わって国を支えるはずの国軍は、中下層の国民を食い物にしているしな」
「軍上層部の腐敗は根深いですからね」
「俺にすれば、黒竜王と北国国軍、どっちもクソだ。どのみち黒竜王は生まれながらに残虐な性質だろう」
それはルキフェルもじゅうぶん承知であった。
五竜の中でもっとも残忍で凶悪な性質をもつ、悪竜――それが黒竜王。
「黒竜王は人間を苦しめることしかしない。次の竜王が復活したとき、悪竜にこびへつらう軍ごと俺が始末する」
「それはご立派」
上品にほほえむその腹の内で、ルキフェルはふと別のことを考えた。
――お前が黒竜王を殺せば、北国は朽ちるだろう。竜王なくしては、人間は生きられないのだから。
「新たな黒竜王が生まれるのを、いつまでだって待ってやるさ」
その宝石のような美しい瞳に憎悪の炎が点ったことを、ルキフェルは感じとった。
抑圧された怨嗟の念。
平静を保たんとしていた心がジリジリ燃ゆるさまを、ルキフェルは静観する。
「悪の芽を、この手で摘んでやる……!」
悪。
はたして、どちらが悪であろう。
――苛烈なる憎しみがこの北国を滅ぼすのか。
いや、はたしてそうだろうか――と、悪魔の帝王はふっと顔をあげた。そして曇天を見つめる。
――お前にそれほどまでの意志があるのならば、それとは別の……もっと違った力がこの北国を、変えるのではないだろうか。
それから崖を降りきるまで、ふたりは無言のまま歩きつづけた。
「……おいルキフェル、俺は家に戻るから、ついてくるなよ」
「近くに町らしきものは見えませんが」
地上の険しい岩場で足を止めたキリクの背後で、ルキフェルは眼下に広がる荒地をざっと見まわした。そこに見えるものは切り立った崖に、岩石の転がる大地、そして、凍りついた野木――。
「第三セクターは、町っていえるようなところじゃねーよ」
自嘲を含ませた冷笑を浮かべ、キリクがこちらを向いた。
ひとつにくくった髪の毛が、冷たい風にびょうとたなびいた。
ルキフェルはキリクの姿が見えなくなると、いましがた降りてきた崖を仰ぎ見る。
この崖は人間が住むことのできない特区と呼ばれる魔獣の巣窟。魔獣を仕留めるハンターと呼ばれる職種、それも上級である上級ハンターが出入りするような場所のはずだ。
死をも恐れぬ屈強な勇士、あるいは一攫千金を狙う愚者が特区を訪れる。そんな場所にキリクが出入りする理由はひとつだろう。
黒竜王復活の兆しがないか、噂がないか、そして、竜王が生まれるという炎の泉を見つけるために。
危険を冒してでも探しているのだ。
黒竜王を、殺すために。
悪魔に憑りつかれたごとく――。
それから数日後、キリク・パーシヴァルの住処である第三セクターをあっさり探し出し、悪魔の帝王ルキフェルは、お気に入りの人間の前に現れた。
露骨に嫌な顔をされても、まったく堪える様子がないから性質が悪い。
ルキフェルはことあるごとにキリクについてまわり、そのたびに何度も追い払われた。
それでも悪魔はめげる気配がない。
土嚢をつめるアルバイトを手伝ってみたり、魔獣駆除の仕事についていってみたり、ときには落石で生き埋めになりかけたキリクの危機を助けもした。
そうしてひと月、ふた月経つと、キリクはもうルキフェルを追い払おうとはしなくなった。
完全に負けを認めたのか、ややあきれ気味の視線さえも、悪魔の帝王には華々しい賞賛のまなざしに思えた。
ここ最近の仕事場である、第二セクターの鉱石採掘場。その現場に、きょうもルキフェルは遊びに来ていた。
「なんで俺のまわりをうろちょろするんだ。おまえもいい加減、飽きてこないのか?」
キリクはカチカチに硬くなったパンをかじって、隣に座る物好きに声を掛けた。
その物好きの悪魔はチッチッチと人差し指をふってから、もったいぶった口調でキリクにぐっと顔を寄せた。
「いったでしょう、私はお前に興味があるのです。お前じつにはおもしろい人間だ」
「だから、なんで俺――」
「私はお前と友達になりたいのです」
キリクは面食らったように目を見開いた。ルキフェルの青い双眸をまじまじと見据える。
「は?」
「ですから、私と友達になってくださいませんか?」
「……そんなことストレートにいう人間、見たことねえよ。いや、人間じゃないにしろ、そんなふうにいわれたのははじめてだ」
「そうですか? 友達というのを作ったことがないので、知りませんでした」
ルキフェルは子どものようにまつげをパチパチ上下させて、紫暗の瞳を見つめ返す。
「……おまえも相当変わってるな。……ははっ! ヘンっつーか、おもしろい悪魔だよ!」
くすくす肩をゆらしたあとに、キリクは声をあげて破顔した。
「いいぜ、悪魔の帝王の友人とは光栄だ……よろしくな、ルキフェル」
いままでずっとしかめっ面ばかりだったのに、こんなふうに笑うのか。そんな些細な発見でも、ルキフェルにとっては新鮮で、驚きに彩られ、そしてなにより、それをよろこばしく感じている自分自身に驚いていた。
気づけば、いつの間にか半分に折られたパンが、手のひらに乗っている。
ルキフェルの心臓がなんともいえぬ、不思議な音をたてはじめた。
軽やかで、心地よい律動。
「笑うのは一体いつぶりだろう」
まるで自分に語りかけるように、キリクがぽつりとつぶやいた。
そうして、灰色の雲に覆われた空を見上げる。
「貧しくても家族がいたとき、こうやって笑っていたっけ……」
凍てついた夏の空を――。




