追憶(1)
もっぱら朝の食堂は、昼間以上の閑古鳥が鳴いていた。
ふだんの朝七時半といえば生徒がテーブルからあふれているというのに、冬休みが始まってからというもの、両手で足りる人数しか見かけていない。あれほど優美でぬくもりのあふれる食堂も、使う生徒が少なければ、必ずしも居心地が良いとはいえなかった。
ほとんどの生徒が帰省のために出払ってしまう冬休み期間中、魔法学校はさながら幽霊城――実際にゴーストがいるから、あながちまちがいではない――のようである。
「あーあ、今日も明日も明後日も、ひとりかぁ」
ユーリやウルト、アリア、フェイメルのいないテーブルをぼんやり眺めて、深くため息をつく。それは、食堂に使役獣を呼び出せない不満も原因のひとつだった。
「いまごろ、みんなは家族と過ごしてるのか……」
そう口に出すと、小さな棘が刺さったように、チクッと胸が痛んだ。
家族――。
その言葉に憧憬や羨望らしきものを感じる理由は、幸か不幸か、おそらくこの学校で「友人」に出会ったためだろう。いまもリュゼとふたりきりで果てしない旅をつづけていたのなら、胸が痛むことはなかっただろう――。
「やめよう、もっとちがうことを考えるべきだ」
そう自分に言い聞かせ、金平糖トーストをザクリとほおばる。
「そういえば今朝はシムル来てないな……もう食事すませたのかな?」
食堂の細長いテーブルをさっと眺めてみたけれど、そこにクラスメイトの姿は見当たらなかった。
テーブルで静かに食事をしている数名の生徒は、すべて上級生である。そう断言できる理由はただひとつ、学校に残った一年生はシキと、同じキャメロットのシムル・エーレーンのふたりしかいなかったからだ。
しかし、食堂でシムルと一緒になっても、物静かな彼はスプーンを手にしたとき以外、無駄に口を開かないから会話は極端に短い。そもそも、シムルとはじめてまともに口をきいたのは、冬休みに入ってからだった。
よくしゃべるウルトといっしょにいるせいか、入校して以来、シムルとの接点はほとんどないように思えた。それでも、そのシムルすらいないとなると、ため息はよけいに深くなるばかりだ。
「あーあ、みんな早く戻ってこないかな……」
気心の知れた友人たちと過ごす日々が、ひどく恋しかった。
冬休みも残すところあと半分にさしかかったころ。
この日は、分厚い暗雲からふたつの月がチラチラと顔を覗かせる、薄明るい夜だった。
シキはがっちり防寒着に身をくるんで、肩に乗せたリュゼとともに時計塔へやってきた。だれもいないこの場所ならば、ちょっとは寂しさも紛れるだろう。
ほほが痺れるものおかまいなしに、ぼんやり空を眺めていたときだった。
「北国の夜は寒いでしょう、あまり長居は禁物ですよ」
「キリク先生!」
不意打ちを食らってふり向くと、いつもの暗灰色のマントを羽織り、厚手のマフラーをぐるぐるに巻いたキリクが現れた。
「本来は二つの月が煌々と照って、それはそれは美しい冬の夜空になるのですが……」
「早く、禽麗――じゃなくて、ファルケスが鳴いてくれたらいいのに」
「昔――」
そうぽつりとつぶやいて、キリクは目を細めた。
「彼も同じことを言いました」
その目はわずかにこぼれる月光を、ひとつ残さず拾うよう、じっと見つめている。
「父さん、ですか?」
なんとなく気づいてしまったのは、キリクの空色の双眸がとても寂しそうに――いや、孤独に見えたからかも、しれない。
キリクは答えずに、ただ、ほほえんだ。
肩に乗るリュゼは、ただただ、静かにふたりの会話に耳を傾けている。
「キリク先生と父さんは親友だったんでしょう? いつからの友達なんですか?」
――そういえば二人はどこで知り合って、どんな話をしてきたのだろう。
「そうですね……彼が青年だったころの話ですが、私は軍の魔術師たちに追われていましてね。助けてもらったんです」
「先生は入国を認められているはずじゃ……?」
キリクは品性漂う微笑を浮かべて、チッチッチと指を軽くふった。
「二十数年前は、そうでもなかったということです」
キリクが穏やかにいうものだから、いったいどんな悪戯をしでかして軍に追われているのだろうと、シキは首をひねった。
「私が彼とはじめて会ったとき、シキが知っている穏やかな人柄では……うーん、そうですね、気性が荒くてツンツンした性格だったんですよ」
「父さんが?」
「ええ」
キリクのいたずらっぽいウインクと、その意外で新鮮な話にシキの胸が躍ったのは言うまでもない。
「それから私ときみのお父上は唯一無二の友となりました。いや、これは私だけがそう思っていたのかもしれませんが――」
「そんなことありません!」
キリクの青い目が、何度かパチパチまばたいた。
「だって、名前は言ってなかったけど、父さんから聞かされた話には『親友』のことがたくさんあったし!」
むきになって反論したのは、「親友」を語るときの、父の楽しそうな顔がけして偽りではないと、知っているからだ。
「少し変わってて、突飛なことをしたり、人を困らせたり……でも頼りになるやつで、大切な親友なんだって聞かせてくれて――。その話を、うらやましいなって思いながら……僕は聞いていました」
その頃は、僕に友達なんていなかったから――とまでは言えずに、シキはぐっとくちびるを結んだ。
「……そうでしたか」
「父さんも、キリク先生と、同じように思っていたはずです」
「シキ、きみのお父さんは本当に立派な男でした。きみは彼によく似ている。忘れないで下さい、シキは独りではありませんよ、いつだって彼の魂はそばにあり、きみのために事を成してくれる友がいて、きみの成長を見守る者が――いるのです。だから、孤独などと思ってはいけません」
突然、ふわりと包み込まれるようなやさしい力で、リュゼもろとも、シキはキリクの腕の中にあった。
幼い頃、何度もこうして父が抱きしめてくれた記憶がよみがえる。
大きな手が背中に触れる。
「シキは独りじゃないぞ」と穏やかな声が降ってくる。
見上げれば、紫暗の瞳――いや、空色の瞳に、シキが映り込んでいた。
過去と現在が交錯する。
あたたかくて、懐かしくて、やさしさに痛いほど触れて、胸がつぶれそうになった。
*
シキが寮に戻ってからも、キリクはひとり、時計塔でキャラメル色の髪をたなびかせていた。
寂しげで弱々しい風が、どこからともなく少女の歌声を運んでくる。それは、いまのキリクの心情を映し出したような、とても寂しげな音色で――。
その幽玄な調べに耳を傾けながら、青い瞳で冬に閉ざされた北国の月を、見つめた。
「こうして夜空を眺めながら、お前と肩を並べて未来の話をしたあのころが、なつかしい……」
二十五年前――
くもり空を駆ける一羽の魔獣は、翼の生えた蛇の魔獣――コルイドの群れに追尾されていた。彼らの首には、北国の紋章がついた鎧あてがはめられている。
追われる魔獣はなんとか振り切ってやろうと加速してみたものの、四方からの加勢で状況は悪化する一方だった。
そんなとき、一筋の閃光がその魔獣とコルイドの間を稲妻のように縦に奔った。目もくらむ光に、群れの足が一瞬止まった。
コルイドたちが標的を見失ったのは、その一瞬である――。
深い渓谷をつくる、切り立った崖の上で、魔獣はひと息ついて変身を解いた。
すらりとした背の高い男の姿に変わると、絹の服の上に、ビロードのマントをさらりと羽織る。二十代とも三十代とも、四十代のようにさえ見えるあいまいな雰囲気の男だ。
曇天のもとでも、キャラメル色の髪と、晴れ空色の目だけは鮮明な色を放っている。
彼は自分を救ってくれた人間のほうへ視線を向けた。
岩の上に腰掛けているその人間は、彼よりも若い――青年だった。赤銅色の長髪は後ろでひとくくりに束ねてあり、勝気そうな紫暗の瞳が男をいぶかしげに刺している。
「礼を言おう、小僧」男が言う。
「小僧じゃねぇ」青年が応じる。
不機嫌な返答に、男はなにか新鮮なものでも見たように、目を輝かせた。
「ほう、ずいぶん若く見えた。十九くらいか?」
「二十四だ」
「ははっ、失礼。あまりにも言葉に品がないものだから」
「てっ、め――」
「ではお前の名は、なんという?」
「ハッ。名を尋ねるときは、先に名乗るのが礼儀ってもんだぜ」
ああいえばこういう、と心の中で呟いて、男はくすりと笑みをこぼした。
「それは失礼した……命を助けていただき心より感謝する。私の名はルキフェル。ぜひとも貴殿の名をお聞かせ願いたい」
男は――ルキフェルは手を胸にあて、深々と頭を下げた。それに驚く青年はバランスを崩し、岩から派手に転げ落ちた。
「『ルキフェル』、だって? その名は、悪魔の名だ……それも、三大悪魔のひとつ、『帝王ルキフェル』……!」
青年はそのまま目を見開き、あんぐりと口を開ける。
帝王ルキフェルの名は、北国国民で知らぬ者はいない。
竜王とまったく同質の強大な炎を扱うといわれる、三大悪魔。人間とは別の世界――地獄や魔界と呼ばれる世界には「帝王」、「君主」、「閣下」の冠を持つ悪魔の三王が君臨しているといわれているのだ。力は絶大で、炎の息を吐くだけで街がひとつ消し炭となった伝説がある。
悪魔――ことに、三大悪魔は北国の脅威の、なにものでもない。
当のルキフェルはというと、ふむ、と考えるように指をあごへあてた。
「私は『帝王』などと名乗ったことは一度もないのですがね、よくそんなふうにいわれます」
「ほ、本物かよ……!」
「おや、礼儀とやらはどこへいきました?」
相手をからかうのが好きなのか、ルキフェルは嫌味たっぷりにほほえんでみせる。
「チッ……揚げ足とりやがって」
「私の趣味です」
「……キリク。俺の名前はキリク・パーシヴァル」
ふん、と鼻息を荒くして、仏頂面をこともあろうか、悪魔の帝王に向けた。
この青年に恐怖は存在しないようだった。
人間であればだれしも――ましてや悪魔にさえ畏怖される『帝王』だというのに、キリクは怯えるどころか、不遜な態度を崩す気配がない。
――おもしろい。
「ではキリク。助けていただいた礼に、望みをひとつ叶えてさしあげましょう。私にできることならどんな願いでも構いませんよ」
「じゃあ、竜王を殺せるだけの魔力をくれ」
即答。そして刹那の静寂。
ルキフェルは目を丸めてキリクを見つめる。
紫の双眸には冗談など微塵も感じさせない強い光が宿っていた。
その光を認めて、悪魔の帝王はゆっくりと瞬きをしたあとに、ふわっと相好を崩した。
「……いいでしょう」
「……いい、のかよ……」
「ええ。ですが、さすがに竜王を殺したことはないので、お前にどれだけの魔力を授ければよいのかわかりかねますが。まあ、私の力すべてがあれば、殺すくらいはできるでしょう」
悪魔の浮かべる高貴な微笑に、キリクの腕がかすかに震えた。
戦慄が、走ったのだろうか――。
史書に残ることのない、常識外れの契約がこの日結ばれた。
それも、あっけないほど簡単に――。
ふたりの出会いが、この北国の未来を変えることになるとは、だれも予想などできるはずがない――。




