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第三章 深窓の令嬢

ぐったりと疲れ切った様子で歩く誠一と対照的に、立希は鼻歌を歌いながら旅館の玄関に向かう。従業員たちは皆こぞって若旦那と共に歩く、赤子を抱い立希の姿を観察した。中には順太が誠一の子供だと勘違いしている者もいるだろうが、当の立希は全く気にしていない。

ふと、吹き抜けのエントランスの一等目立つ場所に置かれた置物に目がいき、自然とそちらに足が向かう。来たときにも見たのだが、見事な翡翠の彫刻で完成度の高さと存在感に圧倒される。


「すごい……綺麗ね。なんの像?」


巨大な翡翠を贅沢に掘って作られた巨像。誠一は順太に触らせるなよと注意してから、


「それはこの旅館が代々大切にしてる狛犬や。疫病や魔物から守ってくださる、ありがたい神様や」


「狛犬?だったら二体あるべきなんじゃないの?対の狛犬は?」


「そうやんなぁ……。けど一体や。昔からそうなんや」


ふうん、と返して、たくさんの従業員に見送られながら旅館を後にした。今日はまたマンションに戻ってから作戦を練り直す予定なのだが、順太は抱っこ紐の中でお昼寝中だ。車に乗り込もうとした時、誠一!と誰かに呼び止められた。


「彩……」


見ると、長い髪を揺らしながら清楚なワンピースを着た眉目秀麗な女が走って来た。彩といえば、峰子が誠一の結婚相手にと宛てがおうとしていた女だったはず。


「帰って来てるって聞いて……なんで連絡してくれへんかったの」


漆黒の髪が白い肌に映え、ぱっちりとした二重の目元は寂しげに揺れる。深窓の令嬢という表現がピッタリなその女性は、責めるように誠一を見た後、ようやく隣にいる女───それも赤ん坊を連れている立希に気づき、驚き尋ねた。


「せ、誠一、え?この女性……赤ちゃん……」


「俺の子や」


エッ、と立希と彩がびっくりして誠一を見た後、


「冗談や」すぐに撤回された。へなへなと気が抜けた後、もう!と頬を膨らませて怒る仕草は、女同士でもつい見惚れてしまうほど愛らしい。


「紹介遅れたな。この人は杭瀬立希。で、こいつが篁彩」


交互に指を指す。雑に紹介されたが、関係としては誠一の元婚約者と新婚約者。どのように振る舞うのが正解なのか分からないでいると、立ち話はなんやし折角だからお茶でもと提案され、車に乗って祇園まで行くことになった。

連れてこられた茶屋の二階に案内され、広々とした畳の席に三人腰掛けた。窓から見える白川が涼しげに水を運び、緑の柳が揺れて観光客を喜ばせている。アイスコーヒーが席に届き、落ち着いたところで彩が口を開いた。


「誠一、私との結婚辞める、って……付き合ってる人がいるって言ってたけど」


立希を見つめ、


「人妻に手ぇ出したんやね……」


ブッ、と誠一と立希は同時にコーヒーを吹いた。


「違う違う。お付き合いはしてるけど、えっと、付き合い始めたのはちゃんと立希の離婚が済んでからや」


「そうです。えっと、シングルマザーです。それでもいいって誠一さんが言ってくれたんです。だから潔白で」


「じゃあその子も……」


「はい。えっと、前の夫との」


誤魔化しながらコーヒーを流し込む。彩は、


「東京に行ってる間に色々あったんやね。そんな素振りは一度も見せんかったのに……。じゃあやっぱり、私との結婚は……」


「破談や」


彩のことを一切見ずに答えた。立希はその場にいることを気まずく思いながらも、二人を注意深く見る。そう……、と零す彩だが、その表情は、悲しんでいると言うよりかは何かほっとしているようで、それでいて困惑しているような複雑なものだった。


「マ〜マ、アッ」


座敷に座らせていた順太が這いながら彩の元へ向かう。慌ててダメだよ、こっちにおいでと呼ぶも、彩はニコニコと笑いかけながらいいよ一緒に遊ぼう、と言って順太を膝に乗せた。向かい合って手を取り、童謡を歌って小刻みに揺れる。順太も嬉しそうに声を上げて笑い、周りの客も皆微笑ましそうにその様子を見守る。


「すごい。子供あやすの上手なんですね」


「大学で保育を勉強してました。子供が好きなんで」


政略結婚する予定のご令嬢と聞いていたので、もっと世間ズレしたお嬢様なのかと思っていたが、案外そんなことないのか。


「保育園で働くのが夢やったので。家族からは反対されてましたが……」


「せやったら、今からでもその夢叶えたらええやんか。もううちの若女将目指す必要ものうなったし」


すかさず誠一がコーヒーを飲みながら言う。


「……そういうことになるなぁ。婚約破棄となると、今からでも就職活動せなあかんし……」


「彩なら大丈夫やろ」


そう言われ、彩は眉根を下げながら、


「……誠一、私に若女将は務まらへんかったと思ってる?でもそう思われても仕方ないわ。私は峰子様みたいにはなれへんし」


彩は立希を見つめると、


「ほんま、藤龍の若女将はめちゃくちゃ大変や思います。それでも誠一を選んでくれて、ほんまにありがとうございます。どうか私の幼なじみを、よろしゅうおたの申します」


そう言い、深く頭を下げた。慌てて立希は頭を上げるよう伝える。そういえば先ほど勢いで女将業を修行する流れになってしまった。生まれてこの方高級旅館とは縁遠い人生だった私に、女将業なんて務まるものだろうか?しかも、京都でも指折りの老舗旅館を。たった2ヶ月とはいえ、ボロが出てその間に追い出されでもしたら、契約不履行どころかまた東京に戻らされて地獄の日々が待っている。


「……彩さんと誠一さんは、幼なじみなんですね」


「そうや。お母さんが選んだ、数少ない遊んでもええ友達や」


「もう。誠一。そんなふうに言わないの。いやでも、立希さん、正直尊敬します。私はいくら親戚とはいえ、峰子様の花嫁修行中何回も音をあげそうになりましたので。……ほんまに恐ろしくて」


先ほどまでの峰子の様子を思い出す。うーん、と考えながら、


「ちょっと意地悪なこと言われたけど、でも案外優しいんじゃないかな?最後だって、私に来てもらえて嬉しいって言ってたし」


彩は目を丸くし、あの峰子様が!?と言うと、今度は誠一が、


「ドアホが。『こんなことやったら最初から募集の広告なんぞ出さんかったらよかった』っていうのはな、募集する必要がなかった、て意味やない。アンタ程度の娘しか来んのやったら、募集してたのが恥ずかしいわ』て意味や!」


ええ、そうなの?と肩をすくめると、クスクスと彩は笑い、


「峰子様節、相変わらずやな。でも案外立希さんならうまくいきそうやわ」


「せやろか。もう頭痛いわ」


嘆く誠一を尻目に、おまたせしました、と抹茶パフェとわらび餅とあんみつが席に届いた。いただきます!と叫ぶと立希はすごい速さで平らげていく。彩は目をぱちくりさせ、呆気に取られながら、あ、ひとりで食べるんや……と呟いた。そのうち、順太が彩の腕の中でうとうととし始め今にも眠りに落ちそうになっていると、ポツリと呟いた。


「……ほんでも、結婚が無くなるなら……。新館の内装の件も白紙かなぁ」


不安そうな目で彩が誠一の顔を伺う。


「……いや、それは進ませてもらうわ。ここまできてそんな不義理はせん」


「ほんま?おおきにな。……正直、藤龍さんのお仕事無くなったらお父さんも困るし、うちらも路頭に迷うから、助かるわ」


立希は忙しなくパフェを口に運びながら耳をそばだてた。篁家は、峰子さんの実家である西園寺家の遠縁だと言っていた。だから峰子氏は篁家の財政を助けるため……もとい、藤龍家を乗っ取る為に、二人を政略結婚させるつもりだったと。誠一はそれを阻止すべく私と偽装結婚をするわけだが、今二人を見る限り、そんなに仲が悪いという感じはしない。むしろ仲がいい方だろう。"アイツと結婚するくらいなら独身を貫いたほうがマシだ!"だなんて叫んでいたのだからどんなに仲の悪い、もしくは不細工なお嬢さんなんだろうかと勝手に決めつけていたが、美人でおっとりしていて、男なら頼み込んででも結婚して欲しいタイプじゃないか。それに、経営が芳しくない会社に手を差し伸べる義理などない、と結婚破棄とともに手を切るつもりだったかと思えば、不義理はしないと言っている。

───誠一は、一体何をどうしたいんだろう。危険を冒してまで偽の婚約者を立てることなんてせずに、大人しくこの人と結婚しても良かったんじゃないだろうか。その方が、あのこわいと恐れている母親とも波風立てることなく上手くやっていけそうなのに。


「───ああ、順太くん寝てしもたわ。ほんまにかわええなぁ」


彩の膝の上で気持ち良さげに寝息を立てる順太。立希がスミマセンと謝ると、いえお気になさらず、と女神のように微笑んだ。それは決して社交辞令などではなく、大好きな子供と過ごせることに満ち足りた幸せを感じているように見えた。きっと、誠一と破談になって女将業ではなく本来の自分の進みたかった道を目指せることに、心の底から安堵しているのだろう。


「……私たち、結婚は無くなっても、また前みたいに仲良く過ごせるかな」


澄んだ瞳で彩が問う。誠一は微笑むと、


「当たり前や。───だから、彩も幸せになりや」


優しく彩を見つめる横顔は、どこか寂しげだった。

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