第七章 ここにないもの、ここにあるもの
亜希の姿が見えなくなった後、ふうとため息をついてから「さ、帰るで」とだけ言って峰子はズンズンと来た道を戻っていく。冬司と誠一も何も言わずに立希の荷物を持って後に続くが、慌てて立希が叫んだ。
「ま、待ってください!あんな金額……嘘ですよね?そこまでして頂けません!」
「何言ってんだいススキちゃん。ススキちゃんはもう僕たちの娘だよ」
冬司にタツキです、と言った後、不安げに峰子を見ると、峰子もそうです、と言い切った。
「女将候補としての修行も半ばで出ていかれたらかなわんわ。あんたと順太を買ったお金は、出世払いでこれからゆっくり返していきなはれ」
「で、でも今あんなお金、ないはず……」
立希はハッと気がつくと誠一の方を見て、まさか、と零す。
「まさか、新館を諦めたの……?」
誠一はフン、と鼻で笑うと、乗れ、と言って呼び寄せたハイヤーに全員で乗り込んだ。
車に揺られている中、立希は不安と申し訳ない気持ちでいっぱいになっていたのだが、周りに目配せするも皆反対に涼しい顔をしている。
───せっかく新館の事業を進ませることになったのに、私のせいで白紙になってしまったんじゃ───。
申し訳ないない気持ちで押しつぶされそうな中
向かった先は、実家でもマンションでもなく、藤龍の旅館だった。出迎えられながら中に入り、ロビーに到着すると、立希は目の前の光景に絶句した。
「え……!?そんな、なんで……」
後ろから冬司が立希に向けて、敢えてコミカルに言った。
「売っちゃった!」
そこにあるはずの、ずっと旅館を守ってきた左の狛犬。その姿はどこにもなく、広いロビーを更に閑散とさせていた。
「そんな、だってあれは藤龍院家の大切な守り神で……」
「そうやけど、守るもんの優先順位を決めただけや。立希と順太がおって、この旅館を盛り上げてくれたらそれでええ」
「そ、それじゃあ、新館の建設は……」
「そっちも問題なく進める。二台とも売ったら、新館作ってあんたら買い戻して……それでもお釣り出たわ」アハハ、と豪快に笑う。
───誠一たちは、私を取り戻すために狛犬を二体とも売ってお金を工面したのだ。
立希はポロポロと涙を溢して洟水を啜る。そんな姿を見て誠一がギョッとして、
「お前……泣くことあるんやな」
「失礼だね。なんだと思ってるの」涙を拭いながら言うと、
「いや、悪い。意外すぎて」
「二体を担保に大金を貸してくれる奇特な人がいたのさ。いつか必ず買い戻すって決めてあること伝えたら、それまで大事に預かってくれるって。持つべきは友だね」
「そんな人、いるんですか」
冬司の俄かに信じられない話に驚いていると、
「六郎の家や。アイツの家は代々質屋と金貸しを営んでるからな。前の狛犬は預かる話がいつの間にか海外にまで流れてて、それで母さんと一時期揉めてたらしいわ」
そんなことがあったのか。
「六郎も立希が絡んでることやったら力になるって言ってくれた。お前が皆んなを動かしたんや」
峰子がこちらに向かって話し出した。
「立希。これは私らが勝手にしたことやからあんたが責任を感じることはありません。お金はどうにでもなります。だから、少しでも報いたいと思てくれるなら、藤龍の女将として働いて返してしていきなはれ」
凛とした峰子の言葉に圧倒され、それでも萎縮し涙を流しながら、
「わ、私、ここまでしてもらうほど立派な人じゃないです」
「だから今からなれ、て言うてるんや。あんたのファンを作って、10年でも100年でもこの旅館に泊まりにきて貰えるような名物女将になりなはれ。それまでは、私と冬司さんが狛犬の代わりにあんたらを見守っといたる」
ぽん、と肩を叩かれ励まされる。温かくてありがたくて、立派な手だった。
立希は泣く。泣きながら誓う。今はなれなくとも、私も必ず立派な女将になる。少しでもこの人に近づいて、人に感謝し感謝される人になる。家族でもないのに家族として迎えてくれた、この温かい人たちに報いるために。




