第七章 食わせ狸
同僚、板前、清掃員や事務方など、一緒に働く皆に今日で辞めることを伝えると、急なことで驚きつつも皆口を揃えて残念がってくれた。しかし、ただここで働くことを辞めるだけで、誠一の婚約者として明後日に控えた新当主披露式への参加はするんだろうと思われたのか、また明後日に会おうね、と念を押される。
───本当は婚約者でもなんでもないし、東京に帰るので会うのはこれが最後なんです。 そう喉まで出かかった言葉を呑み込み、詮索されないようにそそくさと着替えて旅館を後にする。
マンションではなく、峰子氏が住む家の方に来るようにと言われていた為、着替え終わった後に邸宅へ向かった。
庭で峰子と冬司氏の抱擁を盗み見して以来の訪問に緊張しながらベルを押すと、勝手に入ってくるようにと峰子の声で返事があった。
お邪魔します、と玄関からリビングに移動すると、取り戻した右側の狛犬の像を見上げながら立つ峰子がいた。
せっかく取り戻したのに、旅館にある左側の狛犬の隣に戻してやらないのだろうか。立希がきたことに峰子は気づくと、
「やっぱり東京へ帰るんか」
「……はい。あの、母を宿泊させてくれてありがとうございます。明日一緒に帰ります」
「……ほうか。誠一にも挨拶して行きなさい。……あの子、寂しがると思うから」
……どうだろうか。この2ヶ月一緒に過ごしたが、誠一とは一貫してただのビジネスパートナーだった。私が食事するときも、やれ順番が違うだの飲み物で流し込むなもっと味わえだの、口うるさかった。気掛かりがあるとすれば、順太だ。順太は誠一に懐いてくれていたけど、誠一と離れることで、寂しい思いをさせてしまうのだろうか……。
「あの、すぐに鈴木さんが峰子さんを呼びに行ってくれて助かりましたが、どうして母が来ること知ってたんですか」
立希の質問に、
「……数日前電話があってな。そちらに杭瀬立希て従業員は働いてませんか、ってな。大西さんの投稿を見て連絡してきたらしいわ。普段やったら従業員でも個人情報なので答えられません、て言うんやけど、運悪く出たのが新人の子でな。それではい、ここにおりますがって言ってしもたみたいや。それで電話越しに騒がれて、そのうち来はるやろなって踏んでました。電話越しにアンタの母親の苛烈さは感じたので、それで色々ピンと来て対策してたんです」
そういうことだったのかと腑に落ちると、続けて峰子は言う。
「あの女、順太くんのことは一言も気にかけてなかったな」
そう言われ、ハッとした。自分のことでいっぱいいっぱいになっていたけど、母が家出に一緒に連れて行ったはずの順太のことを全く口にしなかったのはおかしい。曲がりなりにも自分が産んだはずの子供なのに。
「なんでなんだろう……順太のこと、気にしてないのかな」
立希がポツリと零すと、
「……世の中にはいろんな親がおります。ただ、ホンマにあれは順太のお母さんか?」
質問の意図がわからず、はいそうですと答えると、さよか、と返された。
「……あの、母は」
「温泉入って寛いでます。あれだけもてなしたら、溜飲も下げるでしょう」
「すみません。本当、ご迷惑かけて……」
「まったくやわ」
沈黙が訪れ、二人で片割れの狛犬を見つめる。先に沈黙を破ったのは立希だった。
「……この狛犬、元の場所に……旅館のロビーに対になるように置いてあげないんですか?」
峰子は答えない。この狛犬を死ぬまでに取り戻すのが悲願だった、と言っていたのに。後戻りはできない結婚をして、守るはずの家宝を手放す決心をして。親戚中から誹りを受けたはずで、病気の養子の子供は捨て置いて新たな養子を迎えるよう圧力をかけられたのかもしれない。
それでも峰子さんは、自分の子供として迎え入れた誠一を助けるために、たとえ一家の逆賊と糾弾されても、掴まれた小さな手を決して振り解くことなく助けてやったんだ。
このことを唯一知る冬司さんは旅館を離れ海外へ行ってしまうし、誠一さえこの真実を知ることなく誤解されたままで、どれだけ孤独で辛かっただろうか。
直立不動の勇姿を掲げた、この世で唯二つのみ存在する翡翠の狛犬。長い時間をかけても、ようやくあるべき場所へ戻ってきてくれた。
「……まるで、峰子さんみたいです」
「はぁ?」
「あ、すみません。この狛犬、残されてもずっと誠一を見守ってくれてて。不器用ながらも成長を見守ってくれてた峰子さんと重なって素敵だなって」
「それを言うならもう一方の方やろ。この子は、海外で放浪しとったんやから。冬司さんの方や」
二人でふふふ、と笑い合った。
二体の守り神は、両親のように誠一の成長を見守るはずだった。叶わなかったけれど、代わりにもう一体の狛犬と峰子が、大事な一人息子を守り続けてきたのだ。
立希は深く息を吐くと、峰子に向き直って告げた。
「……峰子さん。どうか、誠一のお願いをきいてあげてくれませんか」
「唐突になんや」
「家族でもなんでもない私がこんなことお願いできる立場じゃないのは重々承知の上で、お願いします。新館の建設の為に、尽力いただけませんでしょうか。あれは、誠一の悲願です」
「……」
「そのために、せっかく戻ってきたこの狛犬をまた手放すのはお辛いことだとわかっています。でも今は、他にも方法がないか、誠一と一緒に考えて欲しいです。もしかしたら、新館も建設できてこの狛犬も手元に置いておける手段が……」
「あらへんわ」
ピシャリと遮られる。現実を見ろと言われているようで、恥ずかしくて黙ってしまった。
「……私らかて、誠一に最高の舞台に立って貰いたいし送り出したいと思ってます。……せやから、せっかく戻ってきた狛犬やけど、今日で見納めなぁ」
顔を上げ、驚いた顔で峰子を見る。
「あんたも拝んどいて。それで誠一の披露式が成功すること、お願いしとくんやで」
「峰子さん……!いいんですか。だって、大事な」
「いいも何も。アンタがそうせえって言ってきたんやろ。せっかく海外まで取り戻しに行ってくれた冬司さんには悪いけど、この狛犬も新館に綺麗に化けてくれたら本望やろ。……それに手放しても、いつかまた戻ってきてくれたらそれでええ。そんときには私らはもういてへんかもしれんけどな」
峰子はそう言って笑うと、
「……明後日の誠一の披露式、参加せんのか」
立希は少し思い悩んだ後、
「……はい。私は最初から偽の婚約者でしたし、あの母が一緒だとまたお金をゆすり続けられると思います」
「さよか」
峰子はそうひとこと言うと、
「偽でもなんでも、アンタと嫁姑ごっこ出来たんは、なかなか楽しかったで」
「私もです。なんなら、本当の家族になれたら良かったのに」
えへへ、と笑うと、神妙な顔で峰子が返す。
「……その気は、あんたにはないんか?」
「うーん、どうなんでしょう。誠一さん次第じゃないですかね」
飄々と答える。その様子を見て、峰子が吐き捨てるように言った。
「……この、タヌキが」
「あはは。タヌキって言われたのは二度目ですね。杭瀬立希ならぬ、食わせタヌキ。なんちゃって」
立希は数歩下がると、
「それではこれで。……峰子さんも冬司さんも、どうかお元気で。明日東京に母と戻ります。ありがとうございました」
立希は豪奢な門扉を開け、外に出る。もう二度とこの家の敷居を跨ぐことはないんだな、と感慨深げに思った後、背を向けて駆けた。




