第四章 境内の男
それから数週間経過し、立希の顔つきも態度も以前とは驚くほど変わったことに誰もが気づいていた。どこか浮き足だって幼く投げやりだった姿勢は、先輩に叱責されることはあれど、それでも失敗は反省したのちもう2度とやるまいと奮い立たせ引き摺るようなことはしない。
蛹から孵ったような以前とは別人の姿に、誰もがやはり峰子様の教育は素晴らしいと感激した。立希自身も、最初こそただの契約から発生した仲居•女将業ではあったのだが、働くうちに責任感も芽生え、人に感謝されることに嬉しさを感じるようになっていた。
ある日、ロビーで翡翠の狛犬を丁寧に磨き上げていたところに峰子が訪れ、手を止め頭を下げて丁寧に挨拶した。
「おはようございます」
「おはようさん。なかなか掃除姿が板についてきたな」
「ありがとうございます。この狛犬は藤龍の守り神って聞いてるので、特に念を入れて掃除してます」
「へぇ。新米やのに、力入れんと掃除するところもあってええんか」
「……?特に、ってことです。どこも元気に力いっぱい掃除してますよぉ」
襷上げした腕を振り上げ、元気にポーズをとる。峰子は嫌味が通じず、相変わらずやな、とボソリと呟いたのち、静かに狛犬を拝んだ。そして手をついて、少し悲しげな顔をしたのちに、
「ところで立希さん。次の日曜、常連のお客様からお食い初めの予約を頂いてます。料理長にも話通してるんで、出す器や順序、流れなどしっかり勉強させてもらいなはれ」
「はい!……ところで、お食い初めてなんですか」
質問すると、信じられないといったように峰子が両目を見開いた。
「あんた。お食い初め知らんのか。ということは順太くんにもしておへんのか」
しまった。子供に関するイベントか何かだったのか。順太が生まれた後、母親は育児をほぼ自分に丸投げしていたものだから必要最低限のことしかできていなかった。ボロを出してしまいそうで目を泳がしていると、
「……お食い初めっちゅうのは、赤ん坊が生後100日に"一生食べ物に困らないように"、と願う祝い膳のことや。大西さんのところは下の子が6月に生まれてな。上の子のときもウチを選んでくれてはる。失礼がないようにきちんとおもてなしするように」
ハイ、と返事をすると、峰子はじっと立希を見つめた後、
「……立希。あんたはおもてなし、てなんやと思う」
突然の質問に少し戸惑いながらも、何か答えなければと思い、
「ご、極上のサービス……ですかね。あっ、以前言ってた、気づかせない心配り、とか……」
急拵えの立希の答えに峰子はふぅとため息をついた後、
「日頃何も考えんと仕事しとったんか。まぁええわ。あんじょう考えてあんたの答えを見つけなはれ」
そう言って、背中を向けて去って行った。その背中が見えなくなってから、ようやく息をつけた。
お食い初め。そんなイベントがあったのか。順太に悪いことをしたな。
ネグレクト気味の母に代わりら高校に通いながらアルバイトもしつつ必死に世話してきたからといって、大事なイベントを蔑ろにしてしまったことを反省する。そういえば京都に来たというのに、一度も神社仏閣の類に行けていない。今日は10時に上がるから近くの神社にでも順太を連れてお参りしてみよう。それからおもてなしの答えも自分なりに考えて、峰子様に伝える。そう思い立ち、もう一度狛犬の像を磨いた。
託児所に順太を迎えに行き、ベビーカーを押してとりあえず一番近くにある神社に行くことにした。何も調べずに向かったのが、北野天満宮。ここを選んだのは、比較的行きやすい場所にあったということと、立派そうな神社だったからという単純な理由だ。平日だと言うのに観光客が多く、広い境内の中ベビーカーを押すのが邪魔になっていないか、ヒヤヒヤしながら歩く。さらに奥に進むと、ベビーカーが入れない階段に差し掛かった。どうしたもんかと考えていると、
「奥さん。良ければベビーカーお持ちしまひょか」
見ると、肩まである長い髪をハーフアップにした大柄の男が、笑顔でこちらに近づいてきた。筋肉質な腕はよく日焼けしていて、こちらに差し伸べている。断る理由もないためありがたく申し出を受けると、テキパキとベビーカーを畳み片手で軽々と持ち上げた。階段を上がり礼を言おうとすると、お参りも一緒にしましょうと提案してきた。
男は一人で、軽装で観光客という雰囲気ではない。少し警戒しながらも共に神前まで進み、一緒にお参りした。順太を抱えながらの礼拝ではあったが、おとなしくしてくれて助かった。踵を返しまたベビーカーを運んで貰ってから、男にお礼を言って帰ろうとした矢先、あの、と声をかけられた。
「さっき見てたんですがそのベビーカー、右の後輪が壊れてますね。良ければ修理しますよ」
そう言われ、確かに最近動かしづらいとは思っていた。だけど今し方会ったばかりで、しかも修理するとは一体何者だろうか。反応に困っていると男は笑いながら、
「ああ、警戒しんといてください。おたく、藤龍院の若奥様になられる方やろ?僕は誠一の友人です」
「えっそうなんですか?」
誠一の友達だと言われ警戒を解く。男は日陰に座り、慣れた手つきでベビーカーをひっくり返して何処からともなく取り出した修理器具を使い、あっという間に直してしまう。動かしてみると、問題なくスムーズに動いてくれて感激した。
「ありがとうございます。……でも、なんで私が誠一のとこの婚約者って分かったんですか?」
質問すると、男はニコニコと相貌を崩すことなく答えた。
「へぇ。知らんのかも分からんけど、おたく結構有名やで。藤龍院の御曹司つかまえて、子供こさえて元の婚約者から略奪した女狐ゆうて」
能面のように、笑ったままの表情を変えずにのたまう。しかしその目だけは炎のように静かに燃え盛っていた。




