第三章 本気の仕事
次の日も同様に朝6時に車が迎えに来た。昨日はマンションに戻ってから動画サイトを見ながら何度も研究し、時間はそれなりにかかるものの、一人で着物は着られるようになった。順太を預け、更衣室で鈴木や他の従業員とも挨拶し、身なりを整えてから藤川の前に立つと、着物姿の立希を見るなりまぁ及第点やな、とぽつりと零した。
朝礼で本日宿泊予定のお客様の担当、注意事項などを聞く。昨日流れを聞いたからか、イメージがしやすくなった。本日は正午までの慣らし保育であることを藤川に伝えると、
「あんたは、今日うちに付いて仕事の流れを覚えてもらうさかい。それで正午になったら子供引き取って、そのあと峰子様がお話があるそうです」
思わずギョッとするも、拒否権なんてないためはいと返事する。一体なんだろうとソワソワするも、その様子を見透かされたのか怒られてしまった。
「今日は今から朝食の用意です。担当のお客様のお部屋に持って行くから、ついて来んさい」
お膳を持ち、部屋の外の襖の前で待つ。
「おはようございます。お料理お持ち致しました」
声が聞こえて襖を開けると、座っていたのは初老の男女。藤川がお膳を男性の方へまず持っていき、次は立希が妻の方へ置く。藤川は涼しい所作で腕の蓋を開け食事の説明していくも、事前に何も聞けていなかった立希は、どうしようと慌てながらもとりあえず全部の蓋を開けてみた。驚いている奥方に、茶を淹れて渡してから、食事の説明も無しにどうぞ、と両手の平を向けた。藤川が立希を押しのけて座ると、先ほど同様の説明を繰り返し、それでは、と言ってそそくさと部屋を後にした。襖が閉まった瞬間すごい形相で睨まれ、
「なにしとるんや。恥ずかしいやろが」
「だって、何を言うかなんて事前に聞いてないし……」
「献立は予め朝礼でも説明してたやろ。客に質問されてもちゃんと説明できるよう、粗方調べとくんが常識や。何をせなあかんか指示を待つんやなくて、事前に何ができるか考えて仕込んでおくことくらいはできるやろ」
そんなこと言われても。不満に思いつつ何も言えずにいる立希に、藤川は宴会場の方も見に行くで、と言って連れて行く。広い宴会場には団体客がおり、従業員たちが皆急いで膳を下げたり飲み物を注いだりしている。目まぐるしいが皆統率がとれており、段取り良くこなされている。
「杭瀬さん、箸を持って来て!」
「あそこのお客様に水を」
「廊下が濡れてる!危ないから拭いといて!」
立っているだけで矢継ぎ早に注文され、慌てて言う通りにしているうちにあっという間に時間は過ぎ、客間の下膳や掃除をするうちに正午になった。
着物を着替えて急いで順太を迎えに行くと、そこには峰子と誠一がいた。
「誠一、どうしたの」
「ああ、立希……実は……」
「立希さん」
峰子に呼ばれ、背筋を伸ばす。峰子は抱っこしていた順太を誠一に預け、
「立希さんは今から私と一緒に、お客として旅館へ行きます。そしておもてなしと旅館の仕事を隅々まで見学しなはれ」
突然の申し出に、ええっと声を上げた。峰子の後ろで誠一が、すまないと言ったような顔をしている。そしてその顔とは真逆に、
「お客さんとしてあのご馳走が食べられるんですか!?やったー!」
両手を上げて万歳し喜ぶ。目を点にし呆気に取られている誠一と峰子。順太も共に、四人で旅館に戻ると、峰子の登場に従業員は皆緊張が走りながら挨拶し、食事処の奥、普段はあまり使われない座席へと案内された。
仲居が飲み物を聞き、料理長が料理を運んできてくれ、手元に置かれた料理の内容が書かれた紙を見せながら案内をしてくれた。
「順太くんは何か食べられへんものはあるか。アレルギーは」
峰子から訊かれてないですと答えると、順太にも食べられるものを、とおにぎりと海老の天ぷらやあおさのお味噌汁も用意してくれた。待ちきれずソワソワする立希をひと睨みすると、峰子がいただきます、と言ってようやく箸をつけた。
前菜として用意された干し椎茸と白和え、子持ち鮎の有馬煮。蛤のうしお汁。それに茄子と牛肉の挟み焼きといった、普段食べられない懐石料理が並べられている。どれも口に含むと上品な味わいで幸せが満ちる感覚だ。ふと横を見ると、いつもパクパク食べる順太が、今日はあまり進んでいない。スプーンで口元に持っていってやっても、跳ね除けられてしまった。いつもより顔も赤く、おでこに手をやると熱く感じる。
「どうしよう。熱かもしれない」
誠一に言ってフロントで体温計を借りて来て貰う。熱を測ると37.5度あり、慌てて帰らなきゃ、と席を立つと、強い力で腕を掴まれた。
「待ち。立希さんはこの後旅館内を見学する予定やったやろ。行かせへんで」
峰子に鋭い目つきで嗜められた。負けじと、
「それでも発熱は一大事です。病院に行かなきゃ」
毅然に言い返す立希に今度は誠一が、
「た、立希。微熱やんか。1日くらい大丈夫やって」
無責任な一言にカッとなり言い返そうとすると、言い返したのは峰子だった。
「アホ!あんたが父親するんやろ。順太くんはアンタが看るんや。なんのための父親や!」
激しく一喝され、萎縮し借りてきた猫のようになった誠一は即座にスミマセンと零した。
結局誠一が順太を病院へ連れていき休ませることになった。不安しかなかったが、峰子の手前任せるしかない。しっかり頼み、保険証の場所を伝えると、誠一とはその場で別れた。
「……ほな、立希さん行きますよ」
峰子に言われ移動すると、まずはロビーの椅子に座らされてお客さんと従業員の様子を見るように言われた。丁度ある従業員が担当するお客様を玄関で出迎えるところで、荷物を持ち、フロントまで案内している。
「……あかんな」
峰子がポツリと呟くと、チェックインを終えて部屋へ案内する客の元へサッと歩み寄った。
「お客様。どうぞようお越しくださいました。私この旅館の女将をしております、峰子と申します。お部屋へご案内しますので、どうぞお召し物はこちらへ」
そう言われ、客はジャケットを脱ぎ峰子へ渡した。荷物は先ほどの従業員が持つ形で部屋へ案内されて行く。立希は着物を着ておらず客の体なので一緒について行くわけにはいかず、椅子に座ったまま待っていると、先ほどの客のジャケットを持ったまま峰子が戻ってきた。そして一緒に従業員の休憩室に入ると、裁縫箱を取り出して袖口のボタンを縫い付けていく。
「え……その為に預かったんですか。あの一瞬で、ボタンが取れかけていることに気づいたんですか」
「そうや。そしてこういうのはな、客に言ったら恥かかせることになりますやろ。せやから何も言わんとさりげなく戻しておくもんや」
「言われてないのに勝手にやるってことですか?」
「そうや。それがおもてなしの極意。気配りも、やったことを気づかれへんのが美学や」
担当の仲居がそれを見て、峰子様申し訳ありませんでした、と謝りジャケットを受け取ると首を垂れた。
老舗旅館のおもてなしは、ここまでするのか。それも、あの一瞬で客を観察して気づくなんて。立希はこの数分で峰子の所作を見て驚いたが、それから何度もその思いをすることになる。この旅館・藤龍では、従業員は客の靴をさりげなく磨いておくのは当たり前で、小さなお子様がいる場合の部屋菓子の種類を増やしたり、部屋までのわずかな時間で今日の宿泊が記念日であることを悟ると、全員に通知しサプライズのための企画を練るように指示したりしていた。そして皆休む間もなく動いているのだが、不思議と忙しない印象は抱かず、この旅館の中では時間がゆったりと過ぎて行くのを感じる。峰子さんが私をわざわざ連れ出してくれたのは、客としておもてなしを受ける感覚と、そして具体的なもてなし方を間近で学ばせるため。そして、客と従業員としての立場と視線でこのお仕事を観察させ、新たな学びや発見をさせるためだったのだろう。
立希は感心すると同時に申し訳ない気持ちが湧き上がってくるのを感じた。時間と手間をかけて間近で自分に接客の極意を学ばせてくれているが、本当は自分は誠一と添い遂げるつもりなんてないし、2ヶ月後にはトンズラするつもりだ。私に、ここまでする価値なんてないのに……。
ふと、スマホに着信とメッセージが来ていることに気づく。そっと確認すると誠一からで、順太が泣き止まないことや熱が38度を超えたことが書かれていた。一気に青ざめ、峰子に、
「あの……、すみません、順太が」
峰子は氷のように冷たい視線を向けた後、
「誠一は何をしとるんや」
「誠一、さんは……子育てをわかってなくて、私がやらなくちゃ……」
こんな言い合いをしてる場合じゃない。早く私が言ってお世話してあげなくては。居てもたってもいられずソワソワし、頭の中は順太のことしか考えられない。今にも駆け出好き素振りを見せたそのとき。左頬に鋭い痛みが走った。軽快な音がその場に響き、ようやく自分が平手打ちされたことに気づく。
「あんたの仕事は今なんや」
目の前の、小柄だが威圧感のある烈女から白い怒りの闘気のようなものが見えた気がした。それほど峰子は怒っている。あまりの恐怖に圧倒され放心したが、すぐに我に帰った。
「……でも、私は母親で……」
「ほんなら順太くんを路頭に迷わせるんか。アンタがここを離れて仕事を失って、それでもあの子を育てていけるって言うならいきなはれ。そうじゃないならここを離れることを認めません」
混乱し、目に涙が溜まっていく。ようやく搾り出せた声は震えていた。
「……すみません。少しだけ、電話をさせてください……」
ふらふらとその場から離れ、誠一に電話する。誠一はスマホ越しに、ああようやく電話に出たな、と言って必死に容態を話し、今は少し下がったが、また上がるかもしれないと話をしてくれた。
「……そう。悪いんだけど、彩さんに連絡して欲しい。彼女ならきっと力になってくれる」
「……っ!、」
誠一は立希が戻るつもりだと踏んで会話していたが、立希の返答に期待は外れ、動揺したのが電話越しに伝わった。そして言葉を呑み込むと、
「わかった。……すまんな。そっちもあんじょう頑張ってくれ」
峰子が立希を帰らせないことを悟ったのか、誠一は申し訳なさそうな声で言った。
「すまんな。俺が順太を任されたのに。……役立たずで」
「ううん。私はこっちを頑張るから。だから、どうか順太をお願い」そう言って電話を切った。
それから夜の6時まで立希は峰子に付いて館内の隅々まで散策し、現場で働く同僚を見て仕事と接客を学んだ。ときにメモをとり、分からないことは質問し、それは何なのか、何のためにすることなのかを納得するまで質問した。峰子に一喝されてからは一度もスマホを触ることもせず目の前の自分の仕事に没頭し、今日は終いやと言われるまで時計すら確認しなかった。
ありがとうございましたと峰子に深々とお辞儀し、旅館を出てもう一度お辞儀をして離れてからようやく駅に向かい駆け出した。
走って息を切らしながらマンションに到着すると、部屋で誠一と彩が順太を看ててくれており、おかえりなさいと迎えてくれた。順太はあれから病院で処方された坐薬を打つと熱も下がり、今は大人しく寝ているという。順太の顔を見ると、立希に気づくことなく眠り続けている。
「順太くん、ちょっと心細かったのと熱で機嫌が悪かったのか、しばらく泣き止まなかったですけど、ご飯も食べてくれていい子でしたよ。明日は託児所はお休みになるかな」
熱が出ると休んでもらわなきゃいけないんです、と説明してくれ、順太の看病グッズとしてゼリーや保冷剤などを渡してくれた。そしてそのまま彩は自宅に帰ることになり、
「すまんな、彩。送って行くわ」
「何言ってんの。ちゃんと立希さんと順太くんの看病してあげて。立希さんもお仕事お疲れ様。どうか休んでくださいね」
最後まで気遣ってくれた。彩がドアが閉め、二人部屋に取り残されると、ふー、と長いため息をつく。
「お疲れ様。腹減ってるか。ラーメンでよければ作る」
待っている間に順太の手を握ってやると、ようやく緊張の糸が切れて涙が溢れ、ポタポタと涙が小さな手に落ちた。それでも順太が起きないよう、できるだけ声を押し殺して鼻水を啜りながら泣いた。誠一はその様子に気づくと、
「……今日はほんまにすまんかった。順太のこと、俺がちゃんと一人で看病できてたらよかったのに。……病院で、順太の体重訊かれてん。それもわからんかった。ほんまに、情けない」
項垂れながら続ける。
「父親業する、って言ったのに。立希にもお願いされたのに。中途半端やった。ほんまに申し訳ない」
歯噛みする誠一に、立希も顔をあげ、
「違う。私たちは二人とも何もかも中途半端だった」目を擦り、省みる。
私は順太が大切で、それしか考えられていなかった。それに2ヶ月後にはいなくなるというのに必死に仕事を覚えるのも馬鹿らしいと舐め腐っていた。おくびにも出さず従順に従ってるフリさえ上手くいけば、披露式まで切り抜けられると思っていた。そんな浅はかさと狡猾さを、女将にばっちりと見抜かれていたのだ。
今日一日旅館で働く同僚たちを見て思い知らされた。本気が足りない、と。彼らは魂を込めて仕事に打ち込み、誇りを持って働いている。順太のために、と言って誤魔化し取り繕っていたが、それを言い訳にして、彼らの本気の仕事と大切な職場を台無しにしてしまうところだった。
せっかく働く場所を提供してもらったというのに私は同じ土俵に立つことすら烏滸がましい。まだそこまで許されていないのだ。恥ずかしい。情けない。不甲斐ない。
誠一に向き直り、ハッキリと物申す。
「私は与えられた私の仕事をこなすわ。貴方からの任務も忘れてないし全うする。そして峰子さんに言われた任務も、完璧に遂行する。だから、貴方も順太の父親としての任務を果たして。熱が出たときも一人で対応できるようになっていて!」
力強く言い渡され、誠一は、立希の後ろに峰子を見て一瞬たじろぐ。覚悟を決めた女は強い。齢17の少女とは思えないほどに。
「順太の体重もオムツの替え方も、寝かしつけの方法も全部教えていくから。覚えないでいいやなんて、甘っちょろいこと考えないこと!それと明日は託児所に預けられないから、貴方が仕事休んで一日中順太を看るの。いいね!?」
圧倒され、思わずハイ!と返事する。
誠一は、自分の甘さと人の人生を変えてしまった責任を今ようやく感じ、後戻りなどできないことを今更気づいた。
そして立希に、今日はまた熱が上がらないか心配だからここに泊まるようにと念を押され、拒否権などないことも思い知った。親としての責任、義務。理不尽と闘うことの大変さに、これから直面して行くことに内心肝を冷やしながらも腹を括った。




