第三章 女将一日目
翌日。朝6時に迎えが来て旅館に到着し、従業員専用の出入り口へと誘導された。順太を預かってもらえる託児所を教えてもらい、保育士の先生に念を入れてお願いした。
「大丈夫ですよ。ただ、初日なんでまずは2時間で迎えに来てくださいね」
「そうなんですか?」
「はい。いきなり何時間も離れたら、息子さんもびっくりしますから、毎日少しずつ慣らしていくんです。大丈夫。ここの旅館の人は理解がある人が多いので、皆分かってくれるし女将さんも周知してくれてると思いますよ」
順太と長時間離れるのは逃げて来てから初めてだ。それに、アルバイトはしたことがあっても、仲居業など初めてだし不安が大きい。
「順太、行ってくるね」
手を握った後、去ろうと背を向けた瞬間。
「マンマァ───ッ」
順太が叫び、思わず振り向く。保育士の先生が「お母さん行ってください」、と目線を送り、後ろ髪引かれる思いだが振り切り元いた従業員専用出入り口へ戻った。すると、青い着物を着た仲居、藤川がそこに立っていた。
「杭瀬さん、やね。本日から私があなたの教育係を務めます。藤川です。どうぞよろしく」
はい、どうぞよろしくお願いします、とこちらも頭を下げた。
「……峰子様から、一から叩き込んでほしいと言われてますけど、旅館で働くのは初めてですか?」
「はい」
……なんでそんな小娘に、と言いたげな視線を向けた後、ほな行こか、とついて来るよう誘導される。
「……杭瀬さん、お幾つですか?」
「じゅうな……じゃなくて、26です」
「へぇ……?なんや見えへんなぁ。随分若く見えるってよう言われますやろ。……子供がいらっしゃるん?」「はい」
「誠一さんとの子なん?」
「いえ。あれ?藤川さん昨日部屋の外で聞いてらっしゃたのかと思ってましたが」
指摘され、藤川は顔を真っ赤にしてフン!と顔を背け、黙々と進む。
あちゃー。もしかして私またいらないこと言っちゃったかな、と反省し、更衣室に着くと桃色の着物を手渡された。
「ほなこれ着て上で集合で」そそくさと出て行こうとする藤川に、
「あのー、私着物着れないんですが」と言ったが戸は閉められてしまう。早速出鼻をくじかれた。どうしよう。見よう見まねで着てみるかと立ち尽くしていると、
「あの、お手伝いしましょうか」
見ると、小柄で自分と歳の近そうな童顔の女が遠慮がちに声をかけてくれた。ありがとう!助かる!と手を取り頼むと、分かりやすく着方を教えてくれ、十分程度で着物を身に纏うことができた。
「髪の毛も落ちないようにこうして纏めるといいですよ。良かったらこれ使ってください」
ヘアピンを貸してくれ、馬子にも衣装状態ではあるが、見てくれだけはなんとかなった。改めて少女に向き直ると、
「ありがとう。私立希です。あなたは」
「私は鈴木愛子といいます。あなたが誠一さんの婚約者で、今日から一緒に働くっていう噂の人ですか」
「そうです!いや〜よかった。早くも挫けるところだった。……て、私のこと知れ渡ってるんですね。これからよろしくお願いします」
2ヶ月でいなくなるけどね、と内心舌を出しながら頭を下げた。
「こちらこそどうぞよろしくお願いします。藤川さんに睨まれました?気をつけた方がええですよ。このままだとこの先しんどいから。さ、一緒に行きましょ」
心強い味方ができた気分になり集合場所に向かうと、藤川が着物に着替えた立希を見て苦々しい顔を一瞬見せた。そして集まっている人達を並ばせ、呼びかける。
「はい皆さん、今日より働いてもらう、杭瀬さんです。杭瀬さんは峰子様より預かったここの未来の女将さんだそうです。さぞかし見込みがあり、出来るお人なんでしょう。皆さんも杭瀬さんから色々学ばせていただきましょう。それじゃあ杭瀬さん、どうぞ」
峰子様、未来の女将。パワーワードが飛び交い、皆ざわつきながら一斉にこちらに注目する。
「杭瀬立希です。え、えっと……」
朝早く、朝食も満足に食べられなかったため頭が回らない。皆の視線が痛く緊張で心拍数も上がっている。それでも何かを発しなければと思い、しどろもどろになりながら、
「誠一と結婚します。子供がいます。よろしくお願いします」
そう言って元いた場所に戻ろうとする。その場の者たちは皆どよめき、朝礼中だと言うのに騒ぎ始めた。
「ちょちょ、アンタ……!」
藤川が慌てて腕を掴み止めるも、立希は空腹と眩暈でふらふらとその場に倒れ込んだ。皆が慌てて駆け寄って来る。
「み、身重なんか!」「大変休んで!」「こんな状態で働かせるなんて、峰子さん、嫁子になんてことを……!」「鬼やな」
藤川が手を叩いて皆を落ち着かせ、持ち場につくように叫んでから立希を椅子に座らせた。
「……あ、アンタ。妊娠してるんか……」
口をガクガクさせながら必死で答える。
「お……」
「お……?」
「お、おにぎりを、ください……」
「……」
黙って食堂へ連れて行かれた。
旅館の地下に広い従業員向けの食堂があり、そこで用意されたおにぎりとだしまき、お吸い物、油揚げの乗った大根の煮物を戴いた。空腹で切なげに鳴いていた胃袋は、京風味に味付けされた温かいごはんに歓喜し、物の数分ですべて平らげた。向かい側に座る藤川はまるで宇宙人でも見るような目つきでその様子を見つめ、他の従業員も、新たにやって来た誠一の婚約者を物珍しそうに見物している。
「はぁ美味しかった。ご馳走様でした。最高でした」
うっとりとした顔つきで一息つくと、いやぁ立派な食いっぷりだね!と板前の格好をした男に声をかけられた。
「こんな美味そうに食ってもらえたら、料理人冥利に尽きるってもんだよ」
「あなたが作ってくれたんですか?めちゃくちゃ美味しかったです!ありがとうございます。おにぎりは豆とごまの塩梅が絶妙だし、お吸い物もだし巻きも、こんな脳天にダイレクトにくる出汁は初めて。あとこれ、大根。あと百個食べられます」
ガハハ、と豪快に笑うと、それはお揚げと大根の炊いたんや、と教えてくれた。
妊娠はしていないと藤川に誤解を解き、元気になったのでさあ早速仕事を教えるわよと立ち上がると、
「あ、さっき言われたんですけど私2時間で子供のお迎え行かなきゃダメみたいです」
「は!?それじゃあ何もできへんやん」
藤川は険しい顔をしつつ、それでも峰子様から預かっとるお嬢さんやし……、と零すと、
「ええわ。今日は館内歩いて持ち場確認や一緒に働く仲間たちに挨拶と、勤務の大まかな流れについて話します。ついといで」
食器を片付けお礼を言ってから、藤川についていく。一階の玄関に到着すると、昨日のように従業員たちが皆一列に並び、凛と立っている。
「ここが玄関。お客様を一番最初におもてなしする、大事な場所や。いつだって一番綺麗にしとかなあきません」藤川は踵を返すと、館内を歩く。長度品として置かれた行燈や花器に生けられた豪華な花が直ぐに目に入る。
「ここがフロント。チェックイン、アウトをするだけでなく、お客様への観光案内や電話対応もします。で、ロビー。ここではウェルカムドリンクを渡したり、庭園を眺めてもらうことで長旅に疲れたお客様に寛いでいただきます」
圧倒的に大きな窓ガラスの向こうに見える日本庭園。今も庭師が丁寧に剪定している。そしてロビー中央に鎮座する翡翠の狛犬が、今日もその存在感を放っていた。見上げて見つめていると、藤川が言った。
「……これは、藤龍の守神様や。なんで峰子様があんたを若女将に指名したんかは分からんが、立派に務めるつもりなら、ちゃんと拝んどきや」
両手を合わせて拝んだ後、引き続き後についていく。それから宴会場、喫茶、酒処の他、ラウンジとしてカラオケなどもあることを教えてもらった。大浴場は三つもあり、それぞれ天然温泉が一の湯から三の湯まで名前がつけられているという。館内の散策が終わったが、どの場所にも従業員が常に動いて率先し業務にあたっていた。そして不思議と皆動きに無駄がなく、忙しないという印象は抱かない。朝礼を行った場所に戻ってくると、藤川が今度は紙を見せてきた。
「旅館で働く場合のタイムシフトは、"襷掛け勤務"と呼ばれるものです。出勤は、昼の2時前ごろです」
えっ、そうなんですか、と口に出した。今日なんて朝の6時出勤だったのに。随分ゆっくりで意外だ。
「そのあと自分の担当するお客様の確認をし、客室が問題なく準備できているかの点検。5時ごろから食事の準備や配膳。お部屋でお食事される方もいれば宴会場や食事処でされる方もおりますから、ここがいちばん忙しい。そのあと下膳、お布団の準備、9時半ごろに退勤します」
ここまで聞くと、休憩込みの一般的な8時間業務だ。
「その後6時半ごろ出勤、7時から朝食準備、配膳、下膳行って、10時ごろチェックアウトが終わったら部屋の片付け。10時半ごろようやく終わり、て感じや」
「ん?んん……なんか最後の方がよく……」
「つまり、ひと組のお客様に対して自分の担当になるから、正午から翌日の正午までを1日のシフトになる。これが、襷掛け勤務や。勤務時間は8時間やけど、今言ったのはあくまで例。新人のうちは着物に着替えるのも時間かかるし慣れてへんし、30分は前倒しで出勤するし帰るんも遅なる。そのうち"中抜け"って言って、朝からチェックアウトまで、それから宴会時間にまた出勤して夜10時ごろまでの勤務もある」
大変大変だとは聞いていたが、具体的な勤務形態を知ることで、仕事中心に生活を回すという感覚がようやく想像できるようになった。今までしてきたバイトは、あくまで空いた時間にお金を得るためにやっていた。しかしこの仕事は仕事をするために生活リズムを仕事に合わせ、その結果お金がついてくるという感じだ。
「ここで大事なんは何かわかるか?」
「えっと……、体力ですかね」
「違う。チームワークや。とにかく不規則で多忙なこの仕事をこなす秘訣は、仲間との連携と協力なんや。やから、一緒に働く仲間とのコミュニケーションは大切にせなあかん。全ては円滑に業務を進めるために必要なことや。特に、峰子様みたいな女将を目指すんなら肝要やで」
立希は黙った。そして思う。たった2ヶ月程度でそんなスキルが身につくとは思えない。だけど穏便に過ごすためにはある程度はここにいる皆とコミュニケーションをとり、円滑な人間関係を築く方が無難だろう。
はい、勉強になります、と答えた矢先、
「どないや」
一言で射るような澄んだ声。威圧感。一気にその場が緊張感で満ちる。峰子がやって来たのだ。
「峰子様。お疲れ様です。わざわざお越し頂いて申し訳ありません」
藤川と共に立ち、頭を下げる。「今日はこの後お子さんを引き取りに行かなあかんらしく、館内と業務の説明だけしてました」
「ああ、そうか。ほな順太くん、はよ迎えに行ってあげよし」
「えっと、今日はもうおしまいですか?」
「それでええよ。ちゃんと着物が着れるなら、明日はもう少し遅い時間に出勤してかまへんし」
にっこりと仏のような笑みを見せる。すみません、失礼します!と言って藤川が立希を無理やり更衣室へ連れ出した。誰もいないことを確認してから、
「はぁ、今朝は悪かったわよ。明日までに着物の着付けを完璧に覚えて来い、ってさ。ちゃんと教えないと私が峰子様に怒られるわ」
「ええ?フレックスてことじゃないんですか?」
「アホ。ほんまにアホ」
酷い顔で呆れられた。その場で着物の帯を解かれ脱がされてから、もう一度着て一連の流れを教えて貰う。あとは慣れなさい、と持って帰って家でも着る練習をするよう念を押された。




