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捨てられ令嬢の夜食屋台  作者: 九葉(くずは)


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9/10

第9話 夜明けの塩スープ

「この晩餐の下準備を、以前担当していた者がいると聞いています」


 セシリア王女の声が、大広間に静かに落ちた。


 誰もすぐには答えなかった。


 白い卓布の上には、冷え始めた料理が並んでいる。金箔を散らした肉の薔薇。祝いの席にはふさわしくない赤い実。蜂蜜を塗った鴨の丸焼きは、皮の艶だけを残して脂を白く固めていた。


 美しい。


 けれど、食べたいとは思えない。


 皿の上で、料理が客を拒んでいるようだった。


「どうしました、ラングレイ卿」


 王女が微笑む。


 クラウス様は立ち上がったまま、家紋入りの指輪を回していた。何度も、何度も。あの指輪の内側に、答えが彫られているとでも思っているみたいに。


「以前の下準備と申しましても、侯爵家の厨房には多くの料理人が」


「では、その料理人に聞きましょう」


 王女の視線が控えの方へ向く。


「バルド」


 呼ばれて、古参の王宮料理人バルド・モーガンが一歩前へ出た。


 白髪交じりの眉は険しく、腕は丸太のように太い。彼は貴族の前でも怯まない人だった。皿に嘘をつかせる者が何より嫌いで、昔から私の火加減にも容赦なく口を出した。


 私は広間の端に控えながら、息を詰めた。


 本当は、今すぐ逃げ出したかった。


 ここは侯爵家の厨房ではない。王宮の大広間だ。水晶灯は眩しく、卓上の銀器は冷たく光り、貴族たちの視線は針みたいに肌へ刺さる。


 木匙を握る指に、汗がにじんだ。


「答えよ。この晩餐の下準備に、リリアナ・フェルベットは関わっていたのか」


「以前は、ですな」


 バルドは低く言った。


「あの娘が、使節団の食材禁忌、席順、騎士団の体調、料理を出す順番まで確認しておりました。侯爵家の名で出す皿の骨組みは、ほとんどあの娘が作っていた」


 大広間がざわめく。


 クラウス様の顔が赤くなった。


「大げさな。料理人が献立に意見を添えた程度でしょう」


「意見ではない。支えです」


 バルドは言い切った。


「鍋は足で立っているわけじゃない。底があるから立つ。あんた方は、その底を抜いたんです」


 ミレーヌ様が小さく息を呑んだ。


 その隣で、ネスタが震える手を握りしめていた。彼は何度か唇を動かし、けれど声が出ず、最後に深く頭を下げた。


「……私も、証言いたします」


 クラウス様が振り返る。


「ネスタ!」


「申し訳ございません、クラウス様。ですが、もう……もう、無理です」


 ネスタの声は細かった。けれど、逃げなかった。


「リリアナ様がいなくなってから、厨房は回っておりません。火加減も、順番も、騎士団の夜食も、使節団の作法も。私たちは、あの方が残していた手順をなぞっていただけです」


「黙れ!」


「黙りません」


 ネスタは泣きそうな顔で、それでも言った。


「皿は、食べる方に出すものです。見せるだけなら、厨房はいりません」


 その言葉に、私は胸の奥が熱くなった。


 弱い人だと思っていた。


 いつも目を伏せて、クラウス様の前では何も言えなかった人。けれど今、彼は自分の足で立っている。震えながら、逃げずに。


 私は木匙を握り直した。


 エリアス様が、末席から静かに立ち上がった。


 鎧の音が小さく響く。


「ヴァイス卿」


 王女が促す。


 エリアス様は、余計な礼辞を述べなかった。彼らしいと思った。


「俺は味を失っている」


 広間に、別の沈黙が生まれた。


「だが、雑に扱われた食事は分かる。熱すぎるもの。冷えた脂。疲れた者の喉に通らないもの。急かされる皿。そういうものは、味がなくても分かる」


 彼の視線が、一瞬だけ私に向いた。


 それだけで、足元の石床に火が入った気がした。


「リリアナの食事は、食う者を見ていた」


 短い言葉。


 でも、私には十分だった。


 セシリア王女がこちらを見る。


「リリアナ・フェルベット。あなたは、同じ食材で別の皿を作れますか」


 私は息を吸った。


 怖い。


 足が震える。背中に汗が流れる。クラウス様の視線が痛い。ミレーヌ様の泣きそうな顔も、ネスタの祈るような目も、王女の静かな期待も、全部が重い。


 けれど、鍋の前に立てば。


 火の前に立てば。


 私は、私に戻れる。


「できます」


 声は小さかった。


 けれど、広間の端まで届いた。


 バルド様が一歩前へ出た。


「調理場と衛生の責任は、王宮料理人の私が持ちます。饗応の失敗時には、料理長判断で代替皿を出す慣例がございます」


 セシリア王女は小さくうなずいた。


「許可します。広間の者たちは、皿の意味を見届けなさい」


 王女の許可で、控えの調理台が広間の一角へ運ばれた。大鍋、浅鍋、包丁、まな板。残された食材が並ぶ。鶏骨、白身魚、根菜、丸麦、黒麦パン、芋、蕪、人参、玉ねぎ。


 そして問題の赤い実。


 私はそれを皿の外へ下げた。


「こちらは祝いの席では使いません」


 サミール使節が、初めてわずかに表情を緩めた。


 まず、鶏骨を鍋へ入れる。


 水から火にかける。強火にしすぎない。焦れば出汁に濁りが出る。灰汁が浮いたら、静かにすくう。大広間に、鶏のやわらかな香りが広がった。


 玉ねぎは薄く刻み、別の浅鍋で炒める。


 最初は白く、やがて透明になり、端から少しずつ琥珀色へ変わる。焦がす一歩手前で火を落とし、鶏の出汁を少し注ぐ。じゅ、と音がした。甘い湯気が上がり、さっきまで冷えた脂の匂いに沈んでいた広間が、ふっと台所の匂いを取り戻す。


 誰かの喉が鳴った。


 私は聞こえないふりをした。


 蕪は騎士用には小さく、使節用には形を残して切る。人参は薄く。芋は夜勤者用に厚め。丸麦は洗ってから加える。白身魚は骨を確認し、使節の作法に合わせて香草ではなく根菜の甘みで支える。


 木匙を握る手が、まだ少し震えていた。


 私は鍋を三回回す。


 一度目。具を起こす。


 二度目。塩をなじませる。


 三度目。焦げつかせない。


 手順が、私を助けてくれる。


 最初に作ったのは、騎士たちのための夜明けの塩スープだった。


 鶏の出汁に、やわらかく煮た蕪、少しの丸麦、細く裂いた鶏肉。塩は薄め。ただし、弱すぎない。疲れた身体が「もう一口」と思えるところで止める。器は温めておく。熱すぎず、冷めすぎず、両手で包める温度にする。


 次に、使節のための白身魚と根菜の一皿。


 魚は崩さないように火を入れ、蕪と人参を添える。赤い実の代わりに、焼いた赤蕪を薄く削って色を置いた。赤は祝いの色に変えられる。意味を知っていれば、食材は相手を傷つける刃ではなくなる。


 最後に、夜勤者のための具だくさんスープ。


 芋と丸麦を多めにし、黒麦パンを軽く炙って添える。パンを浸せば、皮は香ばしく、中は出汁を吸ってとろりとほどける。匙ですくえば、芋の甘さ、鶏の脂、玉ねぎの旨みが一緒に湯気になる。


 私は三つの皿を差し出した。


 まず、騎士の一人が塩スープを受け取った。


 彼は腕に包帯を巻いていた。さっきの鴨には手をつけられなかった人だ。


 器を両手で包み、そっと口をつける。


 一口。


 彼の肩が落ちた。


 力が抜けたのだと分かった。


「……飲めます」


 それは褒め言葉としては飾り気がなかった。


 でも、私にとってはどんな称賛より重かった。


 次に、サミール使節が白身魚の皿へ手を伸ばした。


 彼はまず焼いた赤蕪を見た。そして、ほんの少しだけうなずく。魚を一口運び、根菜を添える。噛む。飲み込む。静かな所作だった。


「敬意を受け取りました」


 広間がざわめく。


 最後に、夜勤者用のスープをエリアス様が受け取った。


「味は分かりませんよ」


 私が小さく言うと、彼は真面目に返した。


「温度は分かる」


 彼はパンをスープに浸した。


 黒麦パンが出汁を吸い、湯気をまとってやわらかくなる。彼はそれを口へ運び、ゆっくり噛んだ。


 空の器を見慣れた私には分かる。


 これは、食べられる皿だ。


 エリアス様は、最後まで食べた。


 騎士たちも、サミール使節も、器を空にした。


 卓上では、侯爵家の豪華な皿だけが冷えて残っている。肉の薔薇は崩れず、赤い実は宝石のように光ったまま、誰の腹も満たさなかった。


「たかが料理だろう!」


 クラウス様の声が、広間に響いた。


 もう笑みはない。余裕もない。指輪を回す指だけが、落ち着きなく動いている。


「腹に入れば同じではないか!」


 その言葉を、私は前にも聞いた。


 あの夜、侯爵家の厨房で。


 捨てられた夜食鍋の前で。


 胸が痛んだ。けれど、今はもう、あの時の私だけではない。空の器を返してくれた人たちがいる。震えながら証言してくれた人がいる。私の屋台を、私のものだと言ってくれた人がいる。


 私は木匙を胸の前で握った。


「同じではありません」


 広間が静まる。


「人を見ていない皿は、人を支えられません」


 クラウス様が言葉を失う。


 ミレーヌ様は真っ青な顔で、砂糖菓子の花飾りを握りしめていた。美しいものが好きな人。けれど、美しさの向こうに人がいることを知らなかった人。


 セシリア王女が立ち上がった。


「ラングレイ侯爵家の今回の饗応担当は、ここまでとします。今後の処遇は、王宮料理長および外交儀礼官の報告を受け、改めて沙汰します」


 クラウス様の顔から血の気が引いた。


「殿下、それは」


「食卓は、国を迎える場所です」


 王女は微笑んだ。


「そこに人を見ない皿を置く家に、任せることはできません」


 決定だった。


 誰も覆せなかった。


 その後の拍手は、なかった。


 ただ、空の器が並んでいた。


 騎士たちの器。使節の皿。エリアス様の厚手の器。


 空になった器の数だけ、クラウス様の言った「同じだろう」が静かに砕けていった。

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― 新着の感想 ―
 リリアナ、バルド氏に招聘されたのかな? 唐突にぬるっと登場したから『ん?』となりました。
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