第8話 王宮晩餐の始まり
王宮の大広間は、息をするのもためらうほど華やかだった。
高い天井から吊るされた水晶灯には、百を超える蝋燭が灯っている。磨き上げられた床には光が揺れ、白い卓布をかけた長卓が、広間の中央をまっすぐ貫いていた。金の縁取りをした皿。薄く磨かれた銀の杯。季節の花で編まれた卓飾り。
そのすべてが、今夜の晩餐の重要さを告げている。
南方同盟国の使節団を迎えるための、王宮公開晩餐。
ラングレイ侯爵家は、その一部の饗応を任されていた。クラウスにとっては、名誉を取り戻す機会であり、父に実務能力を示す場でもある。
そしてミレーヌにとっては、自分こそが侯爵家にふさわしい女だと証明する夜だった。
「大丈夫ですわ、クラウス様」
控えの間で、ミレーヌは唇に笑みを乗せた。
薄桃色ではなく、今夜は深紅のドレスをまとっている。胸元には小粒の真珠。髪には砂糖菓子の花に似た白い飾り。彼女は鏡の前で横顔を確かめながら、袖口を指先で握った。
笑っているのに、その指だけが忙しく布を揉んでいる。
「見た目は完璧ですもの。お料理は、まず目で楽しむものでしょう?」
「もちろんだ」
クラウスはそう答え、家紋入りの指輪を回した。
何度も。
何度も。
「父上も王女殿下も、今夜の華やかさを見れば納得なさる。リリアナがいなくても、侯爵家は何も困らない」
その言葉に、控えの間の隅でネスタは顔を伏せた。
困っていない。
本当にそうなら、厨房の床に焦げついた鍋が置きっぱなしになっているはずがない。副料理人たちが、皿を出す順番で言い争うはずもない。下働きの少年が、塩壺を抱えて泣きそうな顔をしていたはずもない。
だが、ネスタは言えなかった。
代わりに、手元の盆を見つめる。
そこには、ミレーヌが監修した前菜が並んでいた。
薄切りの肉を薔薇の形に巻き、赤い果実のソースをひとしずく。皿の縁には金箔。真ん中には、南方産の赤い実を飾ってある。宝石のように艶めき、蝋燭の光を受けると血の雫みたいに濃く光った。
美しい。
美しすぎて、食べ物に見えなかった。
肉は冷え始めて脂が白く曇っている。ソースの甘みは強く、口に入れれば舌に貼りつくだろう。赤い実は、祝いの席で避けるべきもの。リリアナが何度も資料をめくり、使節団の作法を確認していたあの食材だ。
ネスタの喉が乾く。
「ネスタ」
クラウスの声で、彼は肩を跳ねさせた。
「料理人らしく、堂々としていろ。君が不安そうな顔をしていると、こちらまで疑われる」
「……申し訳ございません」
「まったく。リリアナの名前を出す者といい、厨房の者は気が弱くて困る」
クラウスは吐き捨てるように言い、大広間へ向かった。
晩餐が始まった。
最初の皿が運ばれる。
白い手袋をした給仕たちが、一糸乱れぬ動きで皿を置いていく。皿は確かに美しかった。金箔は光り、肉の薔薇は崩れず、赤い実は宝石のように中央で輝いている。
広間に、感嘆の声がほんの少し漏れた。
ミレーヌの頬に血色が戻る。
クラウスもわずかに顎を上げた。
だが、南方同盟国の使節サミール・ラシードは、皿を見た瞬間、手を止めた。
彼は騒がなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ、銀の杯に伸ばしていた手を静かに卓上へ戻した。
その沈黙が、どんな叱責より重かった。
セシリア王女が扇を閉じる。
軽い音だった。
ぱちり。
それだけで、広間の空気が変わった。
「ラシード卿。お口に合いませんか」
王女の声は柔らかかった。柔らかいからこそ、逃げ道がない。
サミールはゆっくり顔を上げた。
「美しい皿でございます」
その返答に、クラウスの表情が明るくなる。
しかし、サミールは続けた。
「ですが、この赤い実は、我が国では葬送の席に用います。祝いの卓に置かれた場合、少なくとも、杯を掲げることはできません」
広間から音が消えた。
給仕の足音さえ止まった。
ミレーヌの顔から笑みが落ちる。
「そ、そんな……わたくし、美しい色だと思って」
彼女の声は震えていた。悪意はなかったのだろう。たぶん、本当に美しいと思っただけなのだ。美しいと思ったから使った。それ以外の意味を調べなかった。
その無邪気さが、今は刃になって卓上へ転がっている。
クラウスが指輪を回す。
「失礼。食材の意味については、厨房が確認すべきことでした」
ネスタは控えの端で息を呑んだ。
まただ。
責任が、現場へ落とされる。
だが、今夜の現場には、リリアナはいない。彼女なら気づいた。彼女なら止めた。彼女なら、赤い実を皿に置く前に、別の果実で色を作ったはずだ。煮詰めた人参か、焼いた赤蕪の薄切りか、あるいは酸味を抑えた木苺のソースを一刷け。色だけでなく、食べる相手の国まで見たはずだった。
次の皿が運ばれた。
鴨の丸焼き。
蜂蜜を塗った皮は艶やかで、遠目には美しい。だが、切り分けられた瞬間、ネスタは奥歯を噛んだ。
湯気が立たない。
皮は照りだけを残して少し硬く、肉汁は皿の上で流れず、内側に閉じ込められたまま冷えている。脂は白く固まり、蜂蜜の甘さが重くまとわりついていた。
それでも、貴族たちは作法として少しずつ口に運ぶ。
しかし、戦帰りの騎士たちの席では違った。
辺境騎士団の者たちは、皿を前に沈黙していた。昼まで訓練に出ていた者もいる。腕に包帯を巻いた者もいる。胃が疲れている者に、この重い鴨は厳しい。
エリアス・ヴァイスは、末席近くに座っていた。
英雄と呼ばれる騎士団長でありながら、彼はいつものように目立つことを望まない。今夜も静かに皿を見ていた。
味は分からない。
だが、温度は分かる。
皿の上で冷えた脂が唇に触れた瞬間、彼の眉がかすかに動いた。噛む。飲み込む。表情は変えない。だが、その手は次の一口へ向かわなかった。
彼の脳裏に、別の器が浮かぶ。
厚手の木の器。
湯気。
熱すぎず、冷めてもいないスープ。
蕪は匙で崩れ、丸麦は鶏の旨みを吸い、パン端は汁を含んでやわらかくなる。味は分からない。けれど、温度と重さと、急かされていない沈黙だけは、確かに分かった。
リリアナの屋台のスープは、疲れた身体に入っても喧嘩をしなかった。
今、目の前にある皿は、見事な鎧を着たままこちらへ突進してくる料理だった。
「ヴァイス卿」
近くの騎士が、小声で言う。
「これ、全部食べるべきでしょうか」
エリアスは皿を見た。
騎士の顔色は悪い。包帯の下の腕も腫れている。ここで無理に食べれば、夜半には胃を壊すだろう。
「無理はするな」
「でも、晩餐です」
「礼は尽くせ。だが、倒れるために食うな」
騎士はほっとしたように息を吐いた。
そのやり取りを、セシリア王女は見逃さなかった。
王女は扇の先で、卓上の皿を示す。
「ラングレイ卿」
「はい、殿下」
クラウスは立ち上がった。顔にはまだ笑みを貼りつけている。しかし、その笑みは端から剥がれかけていた。
「この晩餐の意図を説明してくださる?」
「意図、でございますか」
「ええ。南方同盟国の使節を迎えるにあたり、この食材、この順番、この温度。この皿で何を示そうとしたのか、聞かせてください」
広間の視線が、クラウスへ集まる。
ミレーヌが袖口を握った。ネスタは控えの間の影で、ほとんど祈るように目を伏せた。
クラウスは、一瞬だけ言葉に詰まった。
彼が知っているのは、皿が華やかであること。ミレーヌが美しいと言ったこと。侯爵家の晩餐にふさわしいはずだという思い込み。
食材の意味も、出す順番も、食べる者の体調も、彼は見ていなかった。
「もちろん、華やかさと歓迎の意を」
「歓迎」
サミールが静かに繰り返した。
その声に怒りはない。怒りがないから、余計に冷たい。
「我が国の葬送の実を祝いの皿へ置き、戦帰りの騎士に冷えた脂を出すことが、歓迎でございますか」
クラウスの頬が赤くなる。
「そこまで大げさに受け取られるとは」
言った瞬間、広間の空気が完全に凍った。
ミレーヌが小さく「クラウス様」と呟く。ネスタは顔を上げた。セシリア王女は微笑んだ。
美しい微笑みだった。
だが、目は少しも笑っていない。
「大げさかどうかは、迎えられた側が決めることです」
王女は静かに言った。
「そして、食卓は言葉より雄弁です。皿の上には、作った者の理解が出ます」
クラウスの指が、また指輪を回す。
今度は早い。
何度も何度も、まるでそこに逃げ道が刻まれているかのように。
「しかし殿下、料理人が」
「料理人の話は後で聞きましょう」
王女は扇を閉じたまま、控えの方へ視線を移した。
「この晩餐の下準備を、以前担当していた者がいると聞いています」
ネスタの肩が震えた。
エリアスが、静かに顔を上げる。
サミールはまだ杯に手をつけていない。
銀の杯は、灯りを受けて冷たく光っていた。中の酒は、一度も揺れていない。
使節の杯が、一度も口元へ運ばれなかった。




