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捨てられ令嬢の夜食屋台  作者: 九葉(くずは)


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8/10

第8話 王宮晩餐の始まり

 王宮の大広間は、息をするのもためらうほど華やかだった。


 高い天井から吊るされた水晶灯には、百を超える蝋燭が灯っている。磨き上げられた床には光が揺れ、白い卓布をかけた長卓が、広間の中央をまっすぐ貫いていた。金の縁取りをした皿。薄く磨かれた銀の杯。季節の花で編まれた卓飾り。


 そのすべてが、今夜の晩餐の重要さを告げている。


 南方同盟国の使節団を迎えるための、王宮公開晩餐。


 ラングレイ侯爵家は、その一部の饗応を任されていた。クラウスにとっては、名誉を取り戻す機会であり、父に実務能力を示す場でもある。


 そしてミレーヌにとっては、自分こそが侯爵家にふさわしい女だと証明する夜だった。


「大丈夫ですわ、クラウス様」


 控えの間で、ミレーヌは唇に笑みを乗せた。


 薄桃色ではなく、今夜は深紅のドレスをまとっている。胸元には小粒の真珠。髪には砂糖菓子の花に似た白い飾り。彼女は鏡の前で横顔を確かめながら、袖口を指先で握った。


 笑っているのに、その指だけが忙しく布を揉んでいる。


「見た目は完璧ですもの。お料理は、まず目で楽しむものでしょう?」


「もちろんだ」


 クラウスはそう答え、家紋入りの指輪を回した。


 何度も。


 何度も。


「父上も王女殿下も、今夜の華やかさを見れば納得なさる。リリアナがいなくても、侯爵家は何も困らない」


 その言葉に、控えの間の隅でネスタは顔を伏せた。


 困っていない。


 本当にそうなら、厨房の床に焦げついた鍋が置きっぱなしになっているはずがない。副料理人たちが、皿を出す順番で言い争うはずもない。下働きの少年が、塩壺を抱えて泣きそうな顔をしていたはずもない。


 だが、ネスタは言えなかった。


 代わりに、手元の盆を見つめる。


 そこには、ミレーヌが監修した前菜が並んでいた。


 薄切りの肉を薔薇の形に巻き、赤い果実のソースをひとしずく。皿の縁には金箔。真ん中には、南方産の赤い実を飾ってある。宝石のように艶めき、蝋燭の光を受けると血の雫みたいに濃く光った。


 美しい。


 美しすぎて、食べ物に見えなかった。


 肉は冷え始めて脂が白く曇っている。ソースの甘みは強く、口に入れれば舌に貼りつくだろう。赤い実は、祝いの席で避けるべきもの。リリアナが何度も資料をめくり、使節団の作法を確認していたあの食材だ。


 ネスタの喉が乾く。


「ネスタ」


 クラウスの声で、彼は肩を跳ねさせた。


「料理人らしく、堂々としていろ。君が不安そうな顔をしていると、こちらまで疑われる」


「……申し訳ございません」


「まったく。リリアナの名前を出す者といい、厨房の者は気が弱くて困る」


 クラウスは吐き捨てるように言い、大広間へ向かった。


 晩餐が始まった。


 最初の皿が運ばれる。


 白い手袋をした給仕たちが、一糸乱れぬ動きで皿を置いていく。皿は確かに美しかった。金箔は光り、肉の薔薇は崩れず、赤い実は宝石のように中央で輝いている。


 広間に、感嘆の声がほんの少し漏れた。


 ミレーヌの頬に血色が戻る。


 クラウスもわずかに顎を上げた。


 だが、南方同盟国の使節サミール・ラシードは、皿を見た瞬間、手を止めた。


 彼は騒がなかった。


 怒鳴りもしなかった。


 ただ、銀の杯に伸ばしていた手を静かに卓上へ戻した。


 その沈黙が、どんな叱責より重かった。


 セシリア王女が扇を閉じる。


 軽い音だった。


 ぱちり。


 それだけで、広間の空気が変わった。


「ラシード卿。お口に合いませんか」


 王女の声は柔らかかった。柔らかいからこそ、逃げ道がない。


 サミールはゆっくり顔を上げた。


「美しい皿でございます」


 その返答に、クラウスの表情が明るくなる。


 しかし、サミールは続けた。


「ですが、この赤い実は、我が国では葬送の席に用います。祝いの卓に置かれた場合、少なくとも、杯を掲げることはできません」


 広間から音が消えた。


 給仕の足音さえ止まった。


 ミレーヌの顔から笑みが落ちる。


「そ、そんな……わたくし、美しい色だと思って」


 彼女の声は震えていた。悪意はなかったのだろう。たぶん、本当に美しいと思っただけなのだ。美しいと思ったから使った。それ以外の意味を調べなかった。


 その無邪気さが、今は刃になって卓上へ転がっている。


 クラウスが指輪を回す。


「失礼。食材の意味については、厨房が確認すべきことでした」


 ネスタは控えの端で息を呑んだ。


 まただ。


 責任が、現場へ落とされる。


 だが、今夜の現場には、リリアナはいない。彼女なら気づいた。彼女なら止めた。彼女なら、赤い実を皿に置く前に、別の果実で色を作ったはずだ。煮詰めた人参か、焼いた赤蕪の薄切りか、あるいは酸味を抑えた木苺のソースを一刷け。色だけでなく、食べる相手の国まで見たはずだった。


 次の皿が運ばれた。


 鴨の丸焼き。


 蜂蜜を塗った皮は艶やかで、遠目には美しい。だが、切り分けられた瞬間、ネスタは奥歯を噛んだ。


 湯気が立たない。


 皮は照りだけを残して少し硬く、肉汁は皿の上で流れず、内側に閉じ込められたまま冷えている。脂は白く固まり、蜂蜜の甘さが重くまとわりついていた。


 それでも、貴族たちは作法として少しずつ口に運ぶ。


 しかし、戦帰りの騎士たちの席では違った。


 辺境騎士団の者たちは、皿を前に沈黙していた。昼まで訓練に出ていた者もいる。腕に包帯を巻いた者もいる。胃が疲れている者に、この重い鴨は厳しい。


 エリアス・ヴァイスは、末席近くに座っていた。


 英雄と呼ばれる騎士団長でありながら、彼はいつものように目立つことを望まない。今夜も静かに皿を見ていた。


 味は分からない。


 だが、温度は分かる。


 皿の上で冷えた脂が唇に触れた瞬間、彼の眉がかすかに動いた。噛む。飲み込む。表情は変えない。だが、その手は次の一口へ向かわなかった。


 彼の脳裏に、別の器が浮かぶ。


 厚手の木の器。


 湯気。


 熱すぎず、冷めてもいないスープ。


 蕪は匙で崩れ、丸麦は鶏の旨みを吸い、パン端は汁を含んでやわらかくなる。味は分からない。けれど、温度と重さと、急かされていない沈黙だけは、確かに分かった。


 リリアナの屋台のスープは、疲れた身体に入っても喧嘩をしなかった。


 今、目の前にある皿は、見事な鎧を着たままこちらへ突進してくる料理だった。


「ヴァイス卿」


 近くの騎士が、小声で言う。


「これ、全部食べるべきでしょうか」


 エリアスは皿を見た。


 騎士の顔色は悪い。包帯の下の腕も腫れている。ここで無理に食べれば、夜半には胃を壊すだろう。


「無理はするな」


「でも、晩餐です」


「礼は尽くせ。だが、倒れるために食うな」


 騎士はほっとしたように息を吐いた。


 そのやり取りを、セシリア王女は見逃さなかった。


 王女は扇の先で、卓上の皿を示す。


「ラングレイ卿」


「はい、殿下」


 クラウスは立ち上がった。顔にはまだ笑みを貼りつけている。しかし、その笑みは端から剥がれかけていた。


「この晩餐の意図を説明してくださる?」


「意図、でございますか」


「ええ。南方同盟国の使節を迎えるにあたり、この食材、この順番、この温度。この皿で何を示そうとしたのか、聞かせてください」


 広間の視線が、クラウスへ集まる。


 ミレーヌが袖口を握った。ネスタは控えの間の影で、ほとんど祈るように目を伏せた。


 クラウスは、一瞬だけ言葉に詰まった。


 彼が知っているのは、皿が華やかであること。ミレーヌが美しいと言ったこと。侯爵家の晩餐にふさわしいはずだという思い込み。


 食材の意味も、出す順番も、食べる者の体調も、彼は見ていなかった。


「もちろん、華やかさと歓迎の意を」


「歓迎」


 サミールが静かに繰り返した。


 その声に怒りはない。怒りがないから、余計に冷たい。


「我が国の葬送の実を祝いの皿へ置き、戦帰りの騎士に冷えた脂を出すことが、歓迎でございますか」


 クラウスの頬が赤くなる。


「そこまで大げさに受け取られるとは」


 言った瞬間、広間の空気が完全に凍った。


 ミレーヌが小さく「クラウス様」と呟く。ネスタは顔を上げた。セシリア王女は微笑んだ。


 美しい微笑みだった。


 だが、目は少しも笑っていない。


「大げさかどうかは、迎えられた側が決めることです」


 王女は静かに言った。


「そして、食卓は言葉より雄弁です。皿の上には、作った者の理解が出ます」


 クラウスの指が、また指輪を回す。


 今度は早い。


 何度も何度も、まるでそこに逃げ道が刻まれているかのように。


「しかし殿下、料理人が」


「料理人の話は後で聞きましょう」


 王女は扇を閉じたまま、控えの方へ視線を移した。


「この晩餐の下準備を、以前担当していた者がいると聞いています」


 ネスタの肩が震えた。


 エリアスが、静かに顔を上げる。


 サミールはまだ杯に手をつけていない。


 銀の杯は、灯りを受けて冷たく光っていた。中の酒は、一度も揺れていない。


 使節の杯が、一度も口元へ運ばれなかった。

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 流石、殿下。慧眼にございますな!(もみもみ、すりすり)
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