第7話 戻るなら許してやる
その夜のスープは、芋を多めにするつもりだった。
雨が降りそうな夜は、腹に残るものがよく出る。湿った風が市場の石畳を撫で、屋台の火を頼りなく揺らしていた。こんな夜は、軽い汁物だけでは物足りない。だから私は、鶏の出汁に丸麦を多めに入れ、皮をむいた芋を少し厚めに切った。
鍋の中で芋の角がゆっくり丸くなる。
玉ねぎはいつもより長く炒めた。鍋底に薄く貼りつくほど甘みを引き出してから、鶏骨の出汁を注ぐ。じゅわ、と音がして、湯気が白く跳ねた。そこへ蕪、人参、丸麦、ほぐした鶏肉を入れる。灰汁をすくい、火を弱め、焦らず待つ。
雨の匂いと、鶏の旨みと、玉ねぎの甘さ。
その三つが混ざると、夜の市場は少しだけ台所になる。
「今日は芋かい」
荷運びの老人が、鼻をひくつかせて笑った。
「雨が来そうなので。お腹に残るように」
「ありがたいね。湿気った夜は、腹から冷える」
私は老人の器に、やわらかく煮えた芋を二つ入れた。匙で押すとほろりと割れ、金色のスープを吸った断面から湯気が立つ。パン端を添えると、老人は待ちきれないように皮をちぎって汁へ浸した。
黒麦パンの皮が、スープを吸って艶を帯びる。噛めば外側は香ばしく、内側は鶏の脂を含んでじゅわりとほどけるはずだった。
「うまい」
老人は一口で目尻を下げた。
「芋が甘い。こりゃ、雨が降っても勝てる」
「雨と戦う予定ですか」
「この歳になると、天気も立派な敵だよ」
そんな言葉に、近くの客が笑った。
屋台の空気は、少しずつ私の知っている温度になっていた。客の足音、器を受け取る手、湯気でくもる眼鏡、パンを汁に沈める時の小さな音。侯爵家の食堂にはなかった音ばかりだ。
私は木匙で鍋を三回回した。
一度目、具を起こす。
二度目、塩をなじませる。
三度目、焦げつかせない。
その時だった。
「繁盛しているようだな」
聞き覚えのある声が、湯気の向こうから落ちてきた。
木匙を握る手が止まる。
市場の灯りの外側に、クラウス・ラングレイが立っていた。夜会帰りではない。けれど、上等な外套を羽織り、髪も整えている。ここが市場の端の屋台だと分かっていても、彼だけが侯爵家の廊下を歩いているような顔をしていた。
隣にミレーヌ様はいない。
代わりに、家令補佐のダグラスが少し離れて控えている。
客たちの声が静まった。老人が器を置きかける。若い兵士が背筋を伸ばす。マルタさんがパン屋の戸口で麺棒を握ったのが見えた。
エリアス様は、いつもの木箱に座っていた。
まだ何も言わない。
ただ、器を両手で包んだまま、クラウス様を見ている。その沈黙が、私にはありがたくて、同時に少し怖かった。
これは、私が答えなければならないことだ。
「何のご用でしょうか」
声は、思ったよりも細かった。
クラウス様は屋台を見回した。古い荷台。煤けた火鉢。積まれた薪。欠けた木匙。鍋の周りに並ぶ、ばらばらの木の器。
彼の口元が歪む。
「ずいぶんと似合っているじゃないか。下働きの真似が好きだった君には、ちょうどいい場所だ」
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
けれど私は、鍋から手を離さなかった。木匙の柄を握る。母の形見は、今日も手に馴染んでいた。
「ご用件を」
「王宮晩餐の準備がある」
クラウス様は、当然のように言った。
「同盟国の使節団が到着する。侯爵家が一部の饗応を任されているのは知っているだろう。戻って手伝え」
「私は、侯爵家とはもう関係がありません」
「関係ならある。君は元婚約者だ。侯爵家に恩もある」
恩。
その言葉を聞いた瞬間、鍋の湯気が遠くなった。
恩とは、何だったのだろう。
食事を抜いて厨房に立った夜。ミレーヌ様のお茶会の菓子を焼いた朝。騎士団の補給食を整え、食材の禁忌を調べ、晩餐の席順に合わせて皿の温度まで変えた日々。
それらは恩を返すためのものだったのだろうか。
「手伝いません」
私は言った。
クラウス様の眉が動く。
「意地を張るな。君ひとりでは、この屋台も長くは続かない。侯爵家に戻るなら、許してやる」
許してやる。
その言葉は、最初に婚約破棄を告げられた時よりも、深く刺さった。
彼は本当に、私が許されたいのだと思っている。
侯爵家へ戻りたいのに、意地で市場にいるのだと思っている。
自分に捨てられた私が、まだ彼に拾われるのを待っていると思っている。
「戻るなら、ですか」
「ああ。もちろん、婚約者としてではない。ミレーヌとのこともあるからな。だが、厨房なら働けるよう取り計らう。君にはそれが向いている」
客の誰かが息を呑んだ。
私は木匙を握る指に力を込めた。
怒りはあった。悔しさもあった。けれど、それよりも強かったのは、情けないほどの震えだった。身体がまだ覚えている。クラウス様の機嫌を損ねないように、言葉を飲み込んできた日々を。叱責の前に謝ってきた癖を。
平気です、と言いそうになった。
申し訳ありません、と言いそうになった。
代わりに、私は鍋を見た。
芋は崩れかけている。丸麦は汁を吸ってふくらみ、鶏肉は細くほぐれて湯に沈んでいる。雨の夜に来る人のために作ったスープだ。
侯爵家のためではない。
この鍋は、私がここで火にかけると決めたものだ。
「私は戻りません」
声はまだ震えていた。
でも、言葉は逃げなかった。
「侯爵家の厨房にも、クラウス様の下にも、戻りません」
クラウス様の顔から、薄い笑みが消えた。
「リリアナ。立場を分かっているのか」
「分かっています」
「君は捨てられたんだぞ」
その言葉に、心臓が一度、痛く跳ねた。
分かっている。
私は捨てられた。婚約者としても、侯爵家の一員としても。けれど、あの夜に持って出た木匙まで、私自身まで、捨てられたわけではない。
「はい。だから、拾い直しました」
「何?」
「自分のことを、私が拾い直しました」
言ってから、目の奥が熱くなった。
こんな言葉を、私はどこに持っていたのだろう。侯爵家の厨房では、一度も出せなかった。けれど、空の器を返してくれる人たちの前なら、言えた。
クラウス様は一瞬、何を言われたのか分からない顔をした。
それから、苛立ったように指輪を回した。
「くだらない感傷だな。たかが汁売りが」
その瞬間、エリアス様が静かに器を置いた。
ことり、という小さな音。
それだけで、空気が変わった。
「ラングレイ卿」
低い声だった。
クラウス様が、ようやくエリアス様に向き直る。そこで初めて、彼の顔色がわずかに変わった。
「ヴァイス卿。これは私と彼女の問題です」
「彼女は拒んだ」
「ですから、それは一時の」
「彼女は拒んだ」
二度目の言葉は、剣を抜く前の静けさに似ていた。
クラウス様の喉が動く。
エリアス様は立ち上がらなかった。剣にも触れない。ただ、木箱に座ったまま、真っ直ぐにクラウス様を見ている。
「この屋台は彼女のものだ。君の厨房ではない」
私の胸が、ぐっと詰まった。
私の屋台。
その言葉を、またこの人は正しい場所に置いてくれる。
クラウス様は顔を歪めた。
「……後悔するぞ、リリアナ。王宮晩餐は侯爵家の仕事だ。君がいなくても成功する。いや、君などいない方が、華やかな晩餐になる」
「そうですか」
「ああ。せいぜい市場で汁でも売っていろ」
クラウス様は外套を翻し、ダグラスを連れて去っていった。
足音が遠ざかる。
雨が、ぽつりと落ちた。
客たちは何も言わなかった。老人がそっと器を持ち直し、若い兵士が小さく頭を下げる。マルタさんは麺棒を下ろし、鼻をすすった。
「……営業を続けます」
私はそう言った。
声は少し上ずっていたけれど、客たちは何も指摘しなかった。
私は鍋をかき混ぜる。三回。いつものように。
でも、塩を入れる手が震えた。
次の兵士に出したスープを、ひと口味見して、すぐに気づく。
薄い。
雨の夜に出すには、少し頼りない。芋の甘さはある。玉ねぎの旨みもある。けれど、塩が足りないせいで、全体がぼんやりしている。心が揺れると味に出る。母が昔、言っていた通りだった。
「あの、作り直します」
兵士は首を振った。
「いいです。これはこれで、やさしいです」
「でも」
「今日は、店主さんも疲れた顔をしていますから」
私は返す言葉を失った。
兵士は器を両手で包み、ゆっくり飲んだ。薄いスープを、文句も言わずに。
その優しさが、痛かった。
閉店後、雨は細く降り続いていた。
客は帰り、マルタさんも店を閉めた。屋台の明かりだけが、濡れた石畳に揺れている。鍋には、薄いスープが少し残っていた。
私は器によそい、自分で飲んだ。
やはり薄い。
鶏の旨みも、芋の甘さもあるのに、どこか輪郭がぼやけている。黒麦パンを浸すと、パンの酸味と香ばしさが少し助けてくれた。汁を吸ったパンはやわらかく、噛むと麦の香りが広がる。けれど、それでも足りない。
今日の私は、この味なのだ。
悔しくて、情けなくて、でも温かかった。
「まずくはない」
隣から声がした。
エリアス様が、厚手の器を両手で包んでいる。
「味は分からないのでは」
「分からない。だが、温度は分かる」
彼は真面目な顔で続けた。
「それに、今日はいつもより手が震えていた」
「見ていたんですか」
「見えた」
「……恥ずかしいです」
「恥じることではない」
雨音が、屋台の布屋根を細かく叩く。
エリアス様は、空を見上げるでもなく、私を見るでもなく、器の中の湯気を見ていた。
「君が自分で断った。俺は、それを待つしかできなかった」
「待っていてくださったんですね」
「出過ぎれば、また閉じ込める」
その言葉に、胸が少し緩んだ。
この人は、前の失敗を覚えている。
守るために囲おうとしたことを、ちゃんと自分の中で直そうとしている。
「ありがとうございます」
「礼は不要だ」
「では、スープのお代わりは?」
「頼む」
私は少し笑った。
薄いスープをもう一杯よそう。今度は、ほんの少しだけ塩を足した。木匙で三回、静かに回す。
一度目、具を起こす。
二度目、塩をなじませる。
三度目、焦げつかせない。
湯気が上がる。雨の夜に、鶏と芋と黒麦パンの匂いが戻ってくる。
エリアス様は器を受け取り、いつものように両手で包んだ。
「明日は」
「はい」
「少し濃いめでいい」
「味、分からないのに?」
「君が、そうしたい顔をしている」
私は木匙を握ったまま、少しだけ泣きそうになった。
その涙も、湯気のせいにした。
晩餐の招待鐘が鳴るころ、侯爵家の鍋はもう底から焦げていた。




