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捨てられ令嬢の夜食屋台  作者: 九葉(くずは)


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6/10

第6話 守ることと、閉じ込めること

 屋台の前に並ぶ器が、日に日に増えていった。


 最初は荷運びの老人と、夜警の兵士が数人。それが今では、市場帰りの職人、夜勤明けの騎士、針子の少女、宿屋へ戻る途中の御者まで、火の明かりを見つけて足を止めるようになった。


 鍋の中では、鶏と根菜のスープがふつふつと小さく息をしている。


 今夜は、いつもより少しだけ贅沢にした。マルタさんが「昨日の礼だよ」と、焼きたての黒麦パンを安く分けてくれたのだ。皮は濃い茶色で、炭火に近づけるとぱち、と乾いた音を立てる。割れば中はしっとりしていて、黒麦らしい香ばしさと、ほんの少しの酸味が湯気に混じった。


 それを厚めに切り、器の縁へ立てかける。


 スープは、鶏骨で取った出汁に玉ねぎを溶かすように煮込んだものだ。蕪は角が丸くなるまで、芋は匙で割れるくらいまで。人参は薄く切って、口に入れた時に甘さが先にくるようにした。丸麦は昨日より多め。噛むとぷちりと弾け、鶏の旨みを吸った粒が腹の底へ落ちていく。


 パンを浸すと、皮は香ばしいまま、内側だけが黄金色の汁を吸ってとろりとやわらかくなる。匙で押せば、パンの白い部分が崩れて、スープに小さな雲みたいにほどけた。


「お嬢ちゃん、今日はパンがうまいな」


 荷運びの老人が、器を両手で包んで目を細める。


「マルタさんの黒麦パンです」


「どうりで腹に残る。こりゃ、朝まで荷が運べる」


「朝まで働くのはおすすめしません」


「言うようになったねえ」


 老人が笑う。


 私は少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、次の器によそう。若い兵士には塩を薄く、丸麦を少なめ。大柄な御者には芋を多め。針子の少女には、パンを少し長く浸してから渡した。


 同じ鍋なのに、器の中身は少しずつ違う。


 それが楽しかった。


 侯爵家にいた頃は、食べる人の違いを考えるほど、仕事は増えた。増えた仕事は誰にも見えず、失敗だけが責められた。けれど、この屋台では違う。小さく切った蕪を見て、老人が笑う。薄めの塩に気づいて、兵士が息をつく。浸したパンを食べて、少女が「指が痛くても食べやすい」と小さく言う。


 空の器は、私を責めない。


 空の器は、ここにいていいと告げてくれる。


「リリアナ」


 低い声に顔を上げると、エリアス様がいつもの木箱の横に立っていた。


 今日は外套に砂埃がついている。肩の留め具が少し傾いていて、頬には薄い擦り傷があった。きっと訓練か、巡回の帰りだ。


「いらっしゃいませ、エリアス様。今日は具を多めにしますか?」


「頼む」


 短い返事。けれど、最近はその短さにも少しだけ種類があると分かってきた。


 疲れている時の「頼む」は、語尾が硬い。お腹が空いている時は、返事が半拍早い。何か言いたいことがある時は、器を受け取る前に、ほんの少しだけ目を伏せる。


 今夜のエリアス様は、その三つ目だった。


 私は丸麦を少し多めにし、蕪は大きすぎないものを選んだ。パンは黒麦の端を炭火で温める。皮がぱりっと戻ったところで、器の横に添えた。


「熱すぎません。けれど、冷める前にどうぞ」


「分かった」


 エリアス様は器を受け取り、いつもの木箱へ座った。相変わらず少し窮屈そうで、剣の位置を直す仕草がぎこちない。本人は真剣なのに、木箱の方が毎晩試練を受けているようで、私は少しだけ笑いそうになる。


「何かおかしいか」


「木箱が、今日も頑張っているなと」


「俺が悪いのか」


「木箱との相性です」


「では、交渉する」


「木箱とですか?」


「必要なら」


 大真面目に返されて、今度は我慢できずに笑ってしまった。


 エリアス様は、なぜ笑われたのか分からない顔をしていた。けれど、その表情が少しだけ柔らかかったので、私の胸にも小さな火が灯った。


 その火が、次の瞬間、冷たい風に吹かれた。


「ここにいたか、リリアナ・フェルベット」


 屋台の客たちの会話が、ぴたりと止まった。


 市場の通りから、侯爵家の紋章をつけた男が二人近づいてくる。片方は家令補佐のダグラスだ。侯爵家にいた頃、厨房の出入りをいちいち咎めてきた男だった。


 彼は私の屋台を見回し、鼻で笑った。


「随分とまあ、落ちぶれたものだな。侯爵家の婚約者だった者が、市場で汁売りとは」


 手の中の木匙が、かすかに滑った。


 胸の奥に、昔の厨房の冷たさが戻ってくる。


「何のご用でしょうか」


「クラウス様からのご命令だ。屋台など畳んで戻れ。王宮晩餐の準備に人手が要る」


 戻れ。


 その言葉は、鍋の湯気を裂く刃みたいだった。


「私はもう、ラングレイ侯爵家の者ではありません」


「だからこそ、温情をかけてやると言っている。下働きとしてなら、使ってやってもいいそうだ」


 耳の奥で、血の音がした。


 下働き。


 使ってやる。


 客たちが息をのむ気配がする。マルタさんがパン屋の戸口から顔を出した。若い兵士が立ち上がりかける。けれど、誰より先に動いたのはエリアス様だった。


 彼は器をそっと置き、無言で立ち上がった。


 鎧が鳴る。


 それだけで、ダグラスの顔色が変わった。


「ヴァ、ヴァイス卿……」


「彼女は客に食事を出している。用件があるなら、営業時間外にしろ」


 声は低く、静かだった。


 怒鳴ってはいない。けれど、剣よりよほどよく切れる声だった。


 ダグラスは一歩下がった。それでも、侯爵家の威を借りる癖は抜けないらしい。唇を歪める。


「これは侯爵家の問題です。部外者は」


「俺は客だ」


 エリアス様は短く言った。


「そして、ここの食事で夜勤を終えた騎士が何人も助かっている。邪魔をするなら、騎士団に対する妨害と見る」


 ダグラスは完全に黙った。


 もう一人の男が袖を引く。二人は何か言いたげにこちらを睨んだが、結局、踵を返した。


「クラウス様には、そのように伝える」


「正確に伝えろ」


 エリアス様の声に、男たちは小走りで去っていった。


 市場に、少しずつ音が戻る。


 誰かが小さく息を吐く。マルタさんが「まったく、焦げたパンより嫌な連中だよ」と吐き捨てる。客たちは気遣うように私を見た。


 私は笑わなければと思った。


 平気です、と言わなければ。


 でも、木匙を持つ指が震えていた。


「リリアナ」


 エリアス様がこちらを見る。


「屋台を、騎士団の管理下に置くべきだ」


 その言葉に、私は瞬きをした。


「え?」


「今後も同じことが起きる。侯爵家が手を出せない形にする。騎士団専属の夜食処とすれば、安全は確保できる」


 正しい。


 きっと、それは正しい提案だった。


 騎士団の名があれば、侯爵家の使いは簡単に近づけない。嫌がらせも減る。食材の仕入れも安定する。夜道も安全になる。


 なのに。


 胸の奥が、きゅっと縮んだ。


 私は、鍋の前で息をすることを忘れそうになった。


「専属、ですか」


「不都合があるか」


「……あります」


 声が思ったより小さく出た。


 エリアス様の眉がわずかに動く。


「条件は相談できる。報酬も、場所も」


「そういうことではありません」


 言葉が喉に引っかかる。


 分かっている。エリアス様は私を助けようとしている。私を下働きとして使おうとしているわけではない。クラウス様たちとは違う。


 それでも、同じ形に見えた。


 誰かの名の下に入る。


 誰かの厨房になる。


 誰かの役に立つことで、そこに置いてもらう。


 足元の石畳が、侯爵家の厨房の床に変わっていくような気がした。


「私は、また誰かの厨房に入れられるのは嫌です」


 言ってから、息が詰まった。


 客の前だ。エリアス様の前だ。こんなふうに感情を出すべきではない。けれど、もう止められなかった。


「ここは小さな屋台です。古い荷台で、車輪は鳴りますし、鍋も借り物です。でも、私が火をつけて、私が閉める場所です。誰かの許可で置いてもらう場所に、戻りたくありません」


 エリアス様は黙っていた。


 怒ったのかと思った。


 けれど、彼の表情にあったのは怒りではなかった。驚きと、理解しきれない痛みと、それから自分の手を見て初めて血に気づいた人のような顔だった。


「俺は」


 彼は言いかけて、止まる。


 言葉を選んでいる。戦場では迷わないだろう人が、屋台の前で不器用に立ち尽くしている。


「守るつもりだった」


「分かっています」


「だが、閉じ込める形になった」


 その声があまりに静かで、私は胸が痛くなった。


 エリアス様は目を伏せる。


「すまない」


 謝罪は短かった。


 でも、そこに言い訳はなかった。


「命令ではなく」


 彼はもう一度、言葉を探す。


「客として、手伝わせてほしい。水を運ぶ。薪も運ぶ。夜道に立つ。屋台の持ち主は、君だ」


 屋台の持ち主。


 その言葉が、じわりと胸にしみた。


 私は木匙を握り直した。指の震えは、まだ完全には止まらない。それでも、鍋の湯気が少しずつ視界を戻してくれる。


「では、今日は水をお願いします」


「分かった」


「あと、薪は少しで大丈夫です」


「量は?」


「両腕で一抱えくらいです」


 エリアス様は真剣な顔でうなずいた。


 少し嫌な予感がした。


 しばらくして彼が戻ってきた時、両腕どころか、小さな薪山が屋台の横にできた。


「……エリアス様」


「一抱えだ」


「どなたの腕を基準にしましたか」


「俺の腕だ」


「屋台が見えません」


 エリアス様は薪山を見て、わずかに眉を寄せた。


「失敗した」


 そのあまりに真面目な反省に、私はとうとう笑ってしまった。


 少しだけ、涙も混じっていたかもしれない。


 その夜は早じまいにした。


 客たちは何も言わず、いつもより丁寧に器を返してくれた。マルタさんは黒麦パンを布に包んで持たせてくれた。私は残ったスープを小さな鍋に移す。


 冷めかけたスープには、昼間の熱ほどの華やかさはない。けれど、丸麦は汁を吸ってふっくらし、蕪はさらにやわらかくなっている。パンを落とせば、じんわり汁を吸って、匙で崩れる粥のようになる。


 私は自分の器によそおうとして、また手が止まった。


 そこへ、エリアス様が水桶を置いた。


「食べろ」


「命令ですか?」


 少し意地悪く聞いてしまった。


 エリアス様は真剣に考え込む。


「……頼みだ」


 その答えが不器用で、やさしくて、私は小さくうなずいた。


 冷めかけたスープを口に運ぶ。


 熱々ではない。けれど、舌を刺さない温度だった。丸麦がやわらかくほどけ、蕪の甘さが遅れて広がる。黒麦パンは汁を吸い、噛むと香ばしい皮と鶏の旨みが一緒になった。


 少し塩が薄い。


 今日の私の疲れが、そのまま出ている。


 それでも、おいしかった。


 自分のために食べるスープは、少しだけ泣きたくなる味がした。


 その夜、彼は初めて、私の屋台の前では剣ではなく水桶を持った。

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