第6話 守ることと、閉じ込めること
屋台の前に並ぶ器が、日に日に増えていった。
最初は荷運びの老人と、夜警の兵士が数人。それが今では、市場帰りの職人、夜勤明けの騎士、針子の少女、宿屋へ戻る途中の御者まで、火の明かりを見つけて足を止めるようになった。
鍋の中では、鶏と根菜のスープがふつふつと小さく息をしている。
今夜は、いつもより少しだけ贅沢にした。マルタさんが「昨日の礼だよ」と、焼きたての黒麦パンを安く分けてくれたのだ。皮は濃い茶色で、炭火に近づけるとぱち、と乾いた音を立てる。割れば中はしっとりしていて、黒麦らしい香ばしさと、ほんの少しの酸味が湯気に混じった。
それを厚めに切り、器の縁へ立てかける。
スープは、鶏骨で取った出汁に玉ねぎを溶かすように煮込んだものだ。蕪は角が丸くなるまで、芋は匙で割れるくらいまで。人参は薄く切って、口に入れた時に甘さが先にくるようにした。丸麦は昨日より多め。噛むとぷちりと弾け、鶏の旨みを吸った粒が腹の底へ落ちていく。
パンを浸すと、皮は香ばしいまま、内側だけが黄金色の汁を吸ってとろりとやわらかくなる。匙で押せば、パンの白い部分が崩れて、スープに小さな雲みたいにほどけた。
「お嬢ちゃん、今日はパンがうまいな」
荷運びの老人が、器を両手で包んで目を細める。
「マルタさんの黒麦パンです」
「どうりで腹に残る。こりゃ、朝まで荷が運べる」
「朝まで働くのはおすすめしません」
「言うようになったねえ」
老人が笑う。
私は少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、次の器によそう。若い兵士には塩を薄く、丸麦を少なめ。大柄な御者には芋を多め。針子の少女には、パンを少し長く浸してから渡した。
同じ鍋なのに、器の中身は少しずつ違う。
それが楽しかった。
侯爵家にいた頃は、食べる人の違いを考えるほど、仕事は増えた。増えた仕事は誰にも見えず、失敗だけが責められた。けれど、この屋台では違う。小さく切った蕪を見て、老人が笑う。薄めの塩に気づいて、兵士が息をつく。浸したパンを食べて、少女が「指が痛くても食べやすい」と小さく言う。
空の器は、私を責めない。
空の器は、ここにいていいと告げてくれる。
「リリアナ」
低い声に顔を上げると、エリアス様がいつもの木箱の横に立っていた。
今日は外套に砂埃がついている。肩の留め具が少し傾いていて、頬には薄い擦り傷があった。きっと訓練か、巡回の帰りだ。
「いらっしゃいませ、エリアス様。今日は具を多めにしますか?」
「頼む」
短い返事。けれど、最近はその短さにも少しだけ種類があると分かってきた。
疲れている時の「頼む」は、語尾が硬い。お腹が空いている時は、返事が半拍早い。何か言いたいことがある時は、器を受け取る前に、ほんの少しだけ目を伏せる。
今夜のエリアス様は、その三つ目だった。
私は丸麦を少し多めにし、蕪は大きすぎないものを選んだ。パンは黒麦の端を炭火で温める。皮がぱりっと戻ったところで、器の横に添えた。
「熱すぎません。けれど、冷める前にどうぞ」
「分かった」
エリアス様は器を受け取り、いつもの木箱へ座った。相変わらず少し窮屈そうで、剣の位置を直す仕草がぎこちない。本人は真剣なのに、木箱の方が毎晩試練を受けているようで、私は少しだけ笑いそうになる。
「何かおかしいか」
「木箱が、今日も頑張っているなと」
「俺が悪いのか」
「木箱との相性です」
「では、交渉する」
「木箱とですか?」
「必要なら」
大真面目に返されて、今度は我慢できずに笑ってしまった。
エリアス様は、なぜ笑われたのか分からない顔をしていた。けれど、その表情が少しだけ柔らかかったので、私の胸にも小さな火が灯った。
その火が、次の瞬間、冷たい風に吹かれた。
「ここにいたか、リリアナ・フェルベット」
屋台の客たちの会話が、ぴたりと止まった。
市場の通りから、侯爵家の紋章をつけた男が二人近づいてくる。片方は家令補佐のダグラスだ。侯爵家にいた頃、厨房の出入りをいちいち咎めてきた男だった。
彼は私の屋台を見回し、鼻で笑った。
「随分とまあ、落ちぶれたものだな。侯爵家の婚約者だった者が、市場で汁売りとは」
手の中の木匙が、かすかに滑った。
胸の奥に、昔の厨房の冷たさが戻ってくる。
「何のご用でしょうか」
「クラウス様からのご命令だ。屋台など畳んで戻れ。王宮晩餐の準備に人手が要る」
戻れ。
その言葉は、鍋の湯気を裂く刃みたいだった。
「私はもう、ラングレイ侯爵家の者ではありません」
「だからこそ、温情をかけてやると言っている。下働きとしてなら、使ってやってもいいそうだ」
耳の奥で、血の音がした。
下働き。
使ってやる。
客たちが息をのむ気配がする。マルタさんがパン屋の戸口から顔を出した。若い兵士が立ち上がりかける。けれど、誰より先に動いたのはエリアス様だった。
彼は器をそっと置き、無言で立ち上がった。
鎧が鳴る。
それだけで、ダグラスの顔色が変わった。
「ヴァ、ヴァイス卿……」
「彼女は客に食事を出している。用件があるなら、営業時間外にしろ」
声は低く、静かだった。
怒鳴ってはいない。けれど、剣よりよほどよく切れる声だった。
ダグラスは一歩下がった。それでも、侯爵家の威を借りる癖は抜けないらしい。唇を歪める。
「これは侯爵家の問題です。部外者は」
「俺は客だ」
エリアス様は短く言った。
「そして、ここの食事で夜勤を終えた騎士が何人も助かっている。邪魔をするなら、騎士団に対する妨害と見る」
ダグラスは完全に黙った。
もう一人の男が袖を引く。二人は何か言いたげにこちらを睨んだが、結局、踵を返した。
「クラウス様には、そのように伝える」
「正確に伝えろ」
エリアス様の声に、男たちは小走りで去っていった。
市場に、少しずつ音が戻る。
誰かが小さく息を吐く。マルタさんが「まったく、焦げたパンより嫌な連中だよ」と吐き捨てる。客たちは気遣うように私を見た。
私は笑わなければと思った。
平気です、と言わなければ。
でも、木匙を持つ指が震えていた。
「リリアナ」
エリアス様がこちらを見る。
「屋台を、騎士団の管理下に置くべきだ」
その言葉に、私は瞬きをした。
「え?」
「今後も同じことが起きる。侯爵家が手を出せない形にする。騎士団専属の夜食処とすれば、安全は確保できる」
正しい。
きっと、それは正しい提案だった。
騎士団の名があれば、侯爵家の使いは簡単に近づけない。嫌がらせも減る。食材の仕入れも安定する。夜道も安全になる。
なのに。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
私は、鍋の前で息をすることを忘れそうになった。
「専属、ですか」
「不都合があるか」
「……あります」
声が思ったより小さく出た。
エリアス様の眉がわずかに動く。
「条件は相談できる。報酬も、場所も」
「そういうことではありません」
言葉が喉に引っかかる。
分かっている。エリアス様は私を助けようとしている。私を下働きとして使おうとしているわけではない。クラウス様たちとは違う。
それでも、同じ形に見えた。
誰かの名の下に入る。
誰かの厨房になる。
誰かの役に立つことで、そこに置いてもらう。
足元の石畳が、侯爵家の厨房の床に変わっていくような気がした。
「私は、また誰かの厨房に入れられるのは嫌です」
言ってから、息が詰まった。
客の前だ。エリアス様の前だ。こんなふうに感情を出すべきではない。けれど、もう止められなかった。
「ここは小さな屋台です。古い荷台で、車輪は鳴りますし、鍋も借り物です。でも、私が火をつけて、私が閉める場所です。誰かの許可で置いてもらう場所に、戻りたくありません」
エリアス様は黙っていた。
怒ったのかと思った。
けれど、彼の表情にあったのは怒りではなかった。驚きと、理解しきれない痛みと、それから自分の手を見て初めて血に気づいた人のような顔だった。
「俺は」
彼は言いかけて、止まる。
言葉を選んでいる。戦場では迷わないだろう人が、屋台の前で不器用に立ち尽くしている。
「守るつもりだった」
「分かっています」
「だが、閉じ込める形になった」
その声があまりに静かで、私は胸が痛くなった。
エリアス様は目を伏せる。
「すまない」
謝罪は短かった。
でも、そこに言い訳はなかった。
「命令ではなく」
彼はもう一度、言葉を探す。
「客として、手伝わせてほしい。水を運ぶ。薪も運ぶ。夜道に立つ。屋台の持ち主は、君だ」
屋台の持ち主。
その言葉が、じわりと胸にしみた。
私は木匙を握り直した。指の震えは、まだ完全には止まらない。それでも、鍋の湯気が少しずつ視界を戻してくれる。
「では、今日は水をお願いします」
「分かった」
「あと、薪は少しで大丈夫です」
「量は?」
「両腕で一抱えくらいです」
エリアス様は真剣な顔でうなずいた。
少し嫌な予感がした。
しばらくして彼が戻ってきた時、両腕どころか、小さな薪山が屋台の横にできた。
「……エリアス様」
「一抱えだ」
「どなたの腕を基準にしましたか」
「俺の腕だ」
「屋台が見えません」
エリアス様は薪山を見て、わずかに眉を寄せた。
「失敗した」
そのあまりに真面目な反省に、私はとうとう笑ってしまった。
少しだけ、涙も混じっていたかもしれない。
その夜は早じまいにした。
客たちは何も言わず、いつもより丁寧に器を返してくれた。マルタさんは黒麦パンを布に包んで持たせてくれた。私は残ったスープを小さな鍋に移す。
冷めかけたスープには、昼間の熱ほどの華やかさはない。けれど、丸麦は汁を吸ってふっくらし、蕪はさらにやわらかくなっている。パンを落とせば、じんわり汁を吸って、匙で崩れる粥のようになる。
私は自分の器によそおうとして、また手が止まった。
そこへ、エリアス様が水桶を置いた。
「食べろ」
「命令ですか?」
少し意地悪く聞いてしまった。
エリアス様は真剣に考え込む。
「……頼みだ」
その答えが不器用で、やさしくて、私は小さくうなずいた。
冷めかけたスープを口に運ぶ。
熱々ではない。けれど、舌を刺さない温度だった。丸麦がやわらかくほどけ、蕪の甘さが遅れて広がる。黒麦パンは汁を吸い、噛むと香ばしい皮と鶏の旨みが一緒になった。
少し塩が薄い。
今日の私の疲れが、そのまま出ている。
それでも、おいしかった。
自分のために食べるスープは、少しだけ泣きたくなる味がした。
その夜、彼は初めて、私の屋台の前では剣ではなく水桶を持った。




