第5話 侯爵家の冷めた食卓
侯爵家の食堂には、美しい料理が並んでいた。
銀の燭台。磨かれた皿。白い卓布。薄く切った肉を薔薇の形に巻き、金箔を散らした前菜。蜂蜜を塗って艶を出した鴨の丸焼き。砂糖細工の小鳥を飾った果実の菓子。
見た目だけなら、夜会の客たちは褒めたかもしれない。
けれど、厨房の副料理人ネスタは、皿が運ばれていくたび胃の奥が重くなるのを感じていた。
鴨は焼き上がりが早すぎた。皮は美しい飴色だが、冷めるまで食堂の隅に置かれたせいで脂が白く固まり始めている。切り分ければ、本来なら肉汁がふわりと湯気を上げるはずだった。だが今は、刃を入れても静かだった。皿の縁に流れた脂だけが、蝋のように光っている。
肉料理の隣には、香草を山のように載せた煮込みがあった。
これも見た目は華やかだ。緑の葉、赤い実、白い根菜。けれど味を見る前から分かる。塩が強すぎる。具の大きさもばらばらで、柔らかい蕪は煮崩れ、固い芋は芯を残している。鍋の中で、それぞれが勝手に沈み、勝手に崩れ、ひとつの料理になるのを諦めていた。
リリアナ様なら、こんな火入れはしない。
ネスタは思わずそう考え、慌てて唇を噛んだ。
今、その名前を口にするのは禁物だった。
「どう? 華やかでしょう」
ミレーヌ・オルニエが、厨房の中央でくるりと身を回した。
薄桃色の袖口が揺れ、甘い香水の匂いが湯気の上にかぶさる。彼女は楽しげだった。少なくとも、見た目は。だが近くで見れば、笑みの端が少しこわばっている。彼女も、厨房の者たちが黙っている理由に気づき始めているのかもしれない。
「ええ、たいへん美しゅうございます」
ネスタはそう答えた。
嘘ではなかった。美しい。美しいだけだ。
「クラウス様は、こういうお料理をお望みなの。リリアナ様のような……その、地味な汁物ではなくて」
ミレーヌは、汁物という言葉を少し笑った。
ネスタの脳裏に、あの塩スープが浮かぶ。
鶏骨からじっくり取った出汁。黄金色の湯気。丸麦のぷちりとした歯触り。匙で押せばほろりと崩れる蕪。体調の悪い騎士には熱を落として、腹を空かせた荷運びには芋を多めにする。そんな手間を、リリアナは誰にも見えないところでしていた。
地味な汁物。
そう呼ばれたものの方が、よほど食べる人の顔を見ていた。
「ネスタ」
鋭い声に、彼は肩を跳ねさせた。
厨房の入口に、クラウス・ラングレイが立っていた。夜会服の上着を着ているが、襟元がわずかに乱れている。苛立っている時、彼はいつも指輪を回す。今も右手の親指で、家紋入りの指輪を何度もなぞっていた。
「騎士団の連中が、夜食に手をつけなかったそうだ」
「……はい」
「なぜだ」
なぜ。
その問いに答えられるなら、どれほど楽だろう。
夜勤明けの騎士に、甘いクリーム菓子と冷えた肉料理を出したからです。塩気も脂も重すぎて、喉を通らなかったからです。リリアナ様のように、疲れた胃に合わせた食事ではなかったからです。
だが、ネスタは言えなかった。
「お疲れが強かったのでは」
「疲れているからこそ食べるんだろう。料理など、腹を満たせば同じなのだから」
その言葉を聞いた瞬間、厨房の空気が一段冷えた。
誰も鍋をかき混ぜない。誰も包丁を動かさない。薪の弾ける音だけが、やけに大きく聞こえる。
ミレーヌが小さく笑った。
「騎士の方々は、少し舌が庶民的なのではありません? 豪華なお料理に慣れていないのかも」
クラウスはその言葉に少し機嫌を直したようだった。
「そうだな。夜食にまで品を求めるのは難しいか」
ネスタは、胸の奥がひやりとした。
違う。
豪華だから食べられないのではない。品があるから残されたのでもない。
食べる人を見ていないから、料理が皿の上で独りよがりになっているのだ。
「それで、王宮晩餐の準備は進んでいるのか」
クラウスが問う。
ネスタは喉を鳴らした。
「はい。ただ、同盟国の使節団の食卓作法について、確認がまだ」
「そんなもの、王宮側がどうにかするだろう」
「ですが、リリアナ様は以前、使節団の方には避ける食材があると」
「またリリアナか」
クラウスの声が低くなる。
ミレーヌも袖口を握った。
「ネスタ。君まで、あの女がいなければ何もできないと言うつもりか?」
「い、いえ」
「ならば黙って準備しろ。侯爵家の厨房だぞ。料理人なら、料理くらい作れるだろう」
料理くらい。
その言葉は、鍋の底に焦げつく黒い膜のように、ネスタの胸へ張りついた。
作れる。確かに作れる。
肉を焼くことも、野菜を煮ることも、菓子を飾ることもできる。だが、リリアナがしていたのは、それだけではなかった。何を先に出せば胃が動くか。どの皿を冷まし、どの皿を熱いまま運ぶか。兵士と貴族と使節が同じ席に座る時、誰の皿をどう変えるか。
それは、料理の形をした采配だった。
ネスタは口を開きかけた。
しかし、クラウスの視線に負けて閉じた。
ミレーヌが明るい声を出す。
「そうですわ。王宮晩餐なら、もっと華やかにいたしましょう。たとえば、南方の赤い実を使ったお料理などどうかしら。とても美しい色ですもの」
ネスタの背筋が凍った。
南方の赤い実。
同盟国の使節団が、葬儀に用いるため祝いの席では避ける食材だと、リリアナが何度も資料を確認していたものだ。
「それは」
「美しいな」
クラウスが言った。
ネスタの声は、誰にも届かなかった。
その日の晩餐は、半分以上が残された。
食堂から戻ってきた皿には、薔薇の形の肉が崩れずに残り、白く固まった脂が縁へ張りついていた。砂糖細工の小鳥は首だけ折れ、甘いクリームは室温でだれて、皿の上にぬるく広がっている。
豪華なはずの料理は、誰にも食べてもらえないと、こんなにもみじめに見えるのか。
ネスタは皿を下げながら、ふと厨房の隅を見た。
そこには、もうリリアナの欠けた木匙はない。
彼女はいつも、最後の見回りで鍋を三回かき混ぜていた。一度目は具を起こすため。二度目は塩をなじませるため。三度目は、焦げつかせないため。
あの音がしない厨房は、広すぎた。
「ネスタさん」
下働きの少年が、小さな声で呼んだ。
見ると、彼はまかない用の鍋を抱えていた。中身は、昼の残りを水で薄めただけのスープだった。脂は浮き、塩は強い。野菜は煮崩れて、何の味か分からなくなっている。
「これ、どうしますか」
ネスタはしばらく鍋を見つめた。
本当なら、下働きたちが食べるものだ。腹を満たせば同じだと、主人は言うのだろう。
けれど少年は、空腹なのに嬉しそうではなかった。
ネスタは棚を開け、残っていた丸麦と小さな蕪を取り出した。リリアナがよく使っていた安い食材だ。包丁を握る。小さく切る。火を弱める。固まった脂を少しだけすくう。
「待っていろ。作り直す」
「でも、クラウス様が」
「これは、私たちのまかないだ」
少年の顔が少しだけ明るくなる。
ネスタは鍋をかき混ぜた。
一度目。具を起こす。
二度目。塩をなじませる。
三度目。
焦げつかせない。
それだけでリリアナになれるわけではない。けれど、何もしないよりはいい。
やがて、薄い湯気が立った。華やかさなどない。皿に盛っても見栄えはしない。けれど蕪はやわらかく、丸麦は汁を吸ってふくらみ、強すぎた塩は少しだけ丸くなった。
少年がひと口飲み、ほっと息をつく。
「あったかいです」
その言葉に、ネスタはなぜか泣きそうになった。
食堂では、美しい皿ばかりが並んでいた。
そして誰も、二口目を食べなかった。




