第4話 空の器が増える朝
二日目の夜、私は少しだけ欲を出した。
昨日よりも大きな鍋を借りたのだ。
マルタさんは「どうせ足りなくなるよ」と笑っていたけれど、私はまだ信じきれなかった。昨日来てくれたのは数人だけ。エリアス様が二杯食べてくれたとはいえ、屋台というものがそんなに簡単に続くはずがない。
それでも、市場の端に荷台を出し、火を起こし、鍋をかけると、胸の中の不安が少しだけ静かになった。
今夜のスープは、昨日より具を多くした。
鶏の骨を水からじっくり煮出し、浮いてくる灰汁をすくう。白く濁りかけた湯が、やがて澄んだ金色に変わっていく。そこへ、炒めた玉ねぎを入れる。薄く切った玉ねぎは、鍋底でゆっくり甘くなっていた。焦がさないように、けれど白いままでは終わらせない。縁が琥珀色になったところで加えると、湯気に甘さが混じる。
蕪は大きめと小さめに分けた。歯の丈夫な人には大きいものを、年配の人には匙で崩れる小さいものを入れるためだ。人参は薄く、芋は少し厚く。丸麦は昨日より多め。腹持ちがよくなる。
最後に、少しだけ鶏の脂を残す。
脂は悪者ではない。冷えた夜には、唇に触れる薄い油の膜が、体の内側に火を運んでくれる。
木匙で三回、鍋を回した。
一度目、具を起こす。
二度目、塩をなじませる。
三度目、焦げつかせない。
湯気がふわりと上がる。炭火で温め直したパン端の匂いと混じり、夜の市場に小さな食卓が生まれた。
「リリアナ、今日は何杯分あるんだい」
隣のパン屋から顔を出したマルタさんが、腕を組んで鍋を覗く。
「昨日の倍くらいです」
「少ないね」
「倍ですよ?」
「腹ぺこは倍じゃ済まないんだよ」
そう言ってマルタさんは、焼きたてのパンを籠ごと置いていった。丸い田舎パンの端がいくつも入っている。皮はぱりぱりで、割れ目から白い湯気が覗いた。私はそれを見るだけで、胃が小さく鳴るのを感じた。
最初に来たのは、昨日の荷運びの老人だった。
「また来たよ」
「ありがとうございます。今日は蕪を昨日よりやわらかく煮ています」
「年寄り扱いかい」
「歯に優しい扱いです」
「なら、許す」
老人は楽しそうに笑った。私は小さめの蕪を選んで器によそう。スープを注ぐと、白い蕪が黄金色の汁をまとい、丸麦が底からぷかりと浮いた。パン端をひとつ添えると、老人は待ちきれない様子で椅子代わりの木箱に腰を下ろした。
ひと口飲んで、目を細める。
「昨日より甘いな」
「玉ねぎを長く炒めました」
「手間をかけた味がする」
手間をかけた味。
その言葉だけで、胸の奥がくすぐったくなった。
続いて、夜警の兵士が二人来た。片方はまだ若く、頬にそばかすがある。兜を小脇に抱え、目元が赤かった。眠れていない顔だ。
「温かいもの、ありますか」
「はい。少し薄めにしますか?」
「え?」
「お疲れの時は、濃い味だと喉が通りにくいので」
若い兵士は驚いたように瞬きしたあと、小さくうなずいた。
「じゃあ、それで」
私は鍋の上澄みを少し多めに取り、具は細かいものを選んだ。丸麦は少なめ。代わりに、柔らかく煮えた蕪を多くする。最後に湯冷ましをほんの少し足して、熱を落ち着かせた。
器を渡すと、彼は両手で包んだ。
指先が赤い。革手袋の跡が残っている。
「熱すぎたら、少し待ってください」
「いえ……ちょうどいいです」
若い兵士は、まず湯気を吸い込むように顔を近づけた。それから、そろそろと一口飲む。喉が動く。もう一口。匙が蕪をすくい、口に入れる。噛まなくても崩れたらしく、彼の肩から力が抜けた。
「うまい」
たった一言だった。
けれど、その声は少し震えていた。
隣の兵士がからかうように肘でつつく。
「おい、泣くなよ」
「泣いてない」
「泣いてる顔だぞ」
「湯気だ」
若い兵士は慌てて器に顔を近づけた。私は見ないふりをして、鍋をかき混ぜる。
湯気のせいにできる涙なら、その方がいい。
客は少しずつ増えた。
荷運びの若者は「腹にたまるやつを」と言ったので、芋と丸麦を多めにした。市場の花売りの老婆には、塩を控えて小さな蕪を入れた。遅くまで働いていた針子の少女には、パンを少し長めにスープへ浸して、匙で崩して食べられるようにした。
同じ鍋なのに、同じ器はひとつもなかった。
その人の手を見る。顔色を見る。歩き方を見る。急いでいるのか、座りたいのか、話したいのか、黙っていたいのかを見る。
侯爵家では、それをしても誰にも気づかれなかった。
ここでは、器が空になる。
空の器は正直だ。お世辞を言わない。名誉も飾らない。ただ、食べ終えた底だけを見せてくれる。
「繁盛してるな」
低い声に振り向くと、エリアス様が立っていた。
昨日と同じ黒い外套。銀の鎧は少し煤けている。けれど、昨日よりも目元の影が薄い気がした。
「いらっしゃいませ、エリアス様」
「一杯、頼む」
「パンも?」
「頼む」
短い返事。けれど、その声を聞くと、私はなぜか鍋の火が少し強くなったように感じた。
エリアス様には、昨日より丸麦を少し増やした。味が分からないと言っていたけれど、食べる速さや器の持ち方で、どのくらいなら負担にならないかは分かる。蕪は中くらい。芋は入れすぎない。パンは炭火で温め、皮の香ばしさを戻してから添えた。
器を渡すと、彼はいつものように両手で受け取った。
いつものように。
まだ二度目なのに、私はそう思ってしまった。
エリアス様は屋台の横の木箱に腰を下ろす。剣が邪魔そうで、少しだけ身体を斜めにする。その不器用な姿に、私はふっと笑いかけて、慌てて口元を引き締めた。
「何か」
「いえ。木箱が少し小さいかと」
「問題ない」
「問題なさそうには見えません」
言ってしまってから、まただと思った。
侯爵家にいた頃の私は、婚約者にこんな返し方はしなかった。いつも言葉を選び、機嫌を読み、飲み込んでいた。なのに、この屋台に立っていると、鍋の湯気に押されるみたいに、言葉が少しだけ素直になる。
エリアス様は真面目な顔で木箱を見下ろした。
「では、俺が大きくなりすぎた」
「木箱のせいにしてあげてください」
「承知した」
大真面目にうなずかれて、私は今度こそ少し笑ってしまった。
その時、若い兵士が空の器を持って戻ってきた。
「あの、ごちそうさまでした」
「足りましたか?」
「はい。あの……」
彼は言いにくそうに兜の縁を撫でた。
「昨日、眠れなくて。討伐の時の音が耳に残って、横になると起きてしまって。でも、今、少し眠れそうです」
私は手を止めた。
「それは、よかったです」
「ただのスープなのに、変ですね」
彼は照れたように笑う。
ただのスープ。
少し前の私なら、その言葉に傷ついたかもしれない。
でも、今は違った。
ただのスープでいい。眠れない人が眠れるなら。冷えた手が温まるなら。朝まで立っていなければならない人の腹に、少しでも残るなら。
「よければ、また来てください」
「はい」
若い兵士は頭を下げ、ふらつく足取りで仲間と去っていった。今夜はきっと、どこかの詰所で短くても眠れるだろう。
ふと視線を感じて、顔を上げる。
エリアス様がこちらを見ていた。
「何か?」
「いや」
「何か言いたそうなお顔です」
「顔に出ていたか」
「少しだけ」
彼は器を見下ろし、しばらく考え込む。
「君は、食べる者をよく見ている」
木匙を握る手が止まった。
「料理人なら、当然です」
「当然ではない」
その声は、昨日より少し低かった。
「少なくとも、戦場では当然ではなかった。王都でも、そうとは限らない」
何を思い出しているのか、彼の目が一瞬だけ遠くなる。
味を失った人。
眠れない夜を知っている人。
器の温度を、両手で確かめる人。
私は何か言いたかった。けれど、うまく見つからなかった。慰めの言葉は、砂糖を入れすぎた菓子みたいに重くなることがある。だから私は、ただ鍋の蓋を少しずらした。
「おかわり、できます」
エリアス様は瞬きをした。
それから、ごく小さくうなずいた。
「頼む」
夜は忙しく過ぎた。
鍋は、昨日より早く軽くなった。マルタさんのパン籠も空に近い。私は器を洗い、スープをよそい、パンを温め、客の顔を見て具を選んだ。寒さで指先はかじかんだのに、背中だけはずっと汗ばんでいた。
最後の客が去った時、東の空は薄く白み始めていた。
私は鍋の底を見つめる。
ほんの少しだけ、スープが残っている。
やっと、自分の分だ。
そう思ったのに、次の瞬間には残った分を明日の朝の粥にできるか計算していた。薄めれば二食分。パン屑を入れれば、もっと増える。昨日と同じだ。
私は苦笑した。
変わるのは、思ったより難しい。
「リリアナ」
呼ばれて振り向くと、エリアス様がまだいた。客はもういないのに、木箱に座ったままだった。空の器を両手で包み、こちらを見ている。
「食べたか」
「え?」
「君は、食べたのか」
返事が喉で止まった。
食べていない。
パンの端を昼に少し食べたきり、夜は客の器ばかり見ていた。
「……後で」
「後では、よくない」
命令のような言い方だった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。彼の声には、私を押さえつける響きではなく、火が消えそうな鍋を見つけた時のような焦りがあった。
エリアス様は自分の前に置いていたパンの半分を差し出した。
「食べろ」
「それは、エリアス様の」
「俺は二杯食べた」
「でも」
「機能維持に必要だ」
私は思わず笑った。
「また機能ですか」
「言い方を誤ったか」
「少し。でも、ありがとうございます」
差し出されたパンは、スープの湯気を吸って少し柔らかくなっていた。皮はまだ香ばしく、中はしっとりしている。私はそれを受け取り、ひと口かじった。
小麦の甘さが広がる。
冷えた身体の真ん中に、ゆっくり火が灯る。
ただのパンなのに、泣きそうになるほどおいしかった。
エリアス様は何も言わずに待っていた。急かさず、見つめすぎず、ただそこにいた。
空の器が増えるほど、侯爵家の食卓から人が減っていくことを、私はまだ知らなかった。




