表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
捨てられ令嬢の夜食屋台  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/10

第4話 空の器が増える朝

 二日目の夜、私は少しだけ欲を出した。


 昨日よりも大きな鍋を借りたのだ。


 マルタさんは「どうせ足りなくなるよ」と笑っていたけれど、私はまだ信じきれなかった。昨日来てくれたのは数人だけ。エリアス様が二杯食べてくれたとはいえ、屋台というものがそんなに簡単に続くはずがない。


 それでも、市場の端に荷台を出し、火を起こし、鍋をかけると、胸の中の不安が少しだけ静かになった。


 今夜のスープは、昨日より具を多くした。


 鶏の骨を水からじっくり煮出し、浮いてくる灰汁をすくう。白く濁りかけた湯が、やがて澄んだ金色に変わっていく。そこへ、炒めた玉ねぎを入れる。薄く切った玉ねぎは、鍋底でゆっくり甘くなっていた。焦がさないように、けれど白いままでは終わらせない。縁が琥珀色になったところで加えると、湯気に甘さが混じる。


 蕪は大きめと小さめに分けた。歯の丈夫な人には大きいものを、年配の人には匙で崩れる小さいものを入れるためだ。人参は薄く、芋は少し厚く。丸麦は昨日より多め。腹持ちがよくなる。


 最後に、少しだけ鶏の脂を残す。


 脂は悪者ではない。冷えた夜には、唇に触れる薄い油の膜が、体の内側に火を運んでくれる。


 木匙で三回、鍋を回した。


 一度目、具を起こす。


 二度目、塩をなじませる。


 三度目、焦げつかせない。


 湯気がふわりと上がる。炭火で温め直したパン端の匂いと混じり、夜の市場に小さな食卓が生まれた。


「リリアナ、今日は何杯分あるんだい」


 隣のパン屋から顔を出したマルタさんが、腕を組んで鍋を覗く。


「昨日の倍くらいです」


「少ないね」


「倍ですよ?」


「腹ぺこは倍じゃ済まないんだよ」


 そう言ってマルタさんは、焼きたてのパンを籠ごと置いていった。丸い田舎パンの端がいくつも入っている。皮はぱりぱりで、割れ目から白い湯気が覗いた。私はそれを見るだけで、胃が小さく鳴るのを感じた。


 最初に来たのは、昨日の荷運びの老人だった。


「また来たよ」


「ありがとうございます。今日は蕪を昨日よりやわらかく煮ています」


「年寄り扱いかい」


「歯に優しい扱いです」


「なら、許す」


 老人は楽しそうに笑った。私は小さめの蕪を選んで器によそう。スープを注ぐと、白い蕪が黄金色の汁をまとい、丸麦が底からぷかりと浮いた。パン端をひとつ添えると、老人は待ちきれない様子で椅子代わりの木箱に腰を下ろした。


 ひと口飲んで、目を細める。


「昨日より甘いな」


「玉ねぎを長く炒めました」


「手間をかけた味がする」


 手間をかけた味。


 その言葉だけで、胸の奥がくすぐったくなった。


 続いて、夜警の兵士が二人来た。片方はまだ若く、頬にそばかすがある。兜を小脇に抱え、目元が赤かった。眠れていない顔だ。


「温かいもの、ありますか」


「はい。少し薄めにしますか?」


「え?」


「お疲れの時は、濃い味だと喉が通りにくいので」


 若い兵士は驚いたように瞬きしたあと、小さくうなずいた。


「じゃあ、それで」


 私は鍋の上澄みを少し多めに取り、具は細かいものを選んだ。丸麦は少なめ。代わりに、柔らかく煮えた蕪を多くする。最後に湯冷ましをほんの少し足して、熱を落ち着かせた。


 器を渡すと、彼は両手で包んだ。


 指先が赤い。革手袋の跡が残っている。


「熱すぎたら、少し待ってください」


「いえ……ちょうどいいです」


 若い兵士は、まず湯気を吸い込むように顔を近づけた。それから、そろそろと一口飲む。喉が動く。もう一口。匙が蕪をすくい、口に入れる。噛まなくても崩れたらしく、彼の肩から力が抜けた。


「うまい」


 たった一言だった。


 けれど、その声は少し震えていた。


 隣の兵士がからかうように肘でつつく。


「おい、泣くなよ」


「泣いてない」


「泣いてる顔だぞ」


「湯気だ」


 若い兵士は慌てて器に顔を近づけた。私は見ないふりをして、鍋をかき混ぜる。


 湯気のせいにできる涙なら、その方がいい。


 客は少しずつ増えた。


 荷運びの若者は「腹にたまるやつを」と言ったので、芋と丸麦を多めにした。市場の花売りの老婆には、塩を控えて小さな蕪を入れた。遅くまで働いていた針子の少女には、パンを少し長めにスープへ浸して、匙で崩して食べられるようにした。


 同じ鍋なのに、同じ器はひとつもなかった。


 その人の手を見る。顔色を見る。歩き方を見る。急いでいるのか、座りたいのか、話したいのか、黙っていたいのかを見る。


 侯爵家では、それをしても誰にも気づかれなかった。


 ここでは、器が空になる。


 空の器は正直だ。お世辞を言わない。名誉も飾らない。ただ、食べ終えた底だけを見せてくれる。


「繁盛してるな」


 低い声に振り向くと、エリアス様が立っていた。


 昨日と同じ黒い外套。銀の鎧は少し煤けている。けれど、昨日よりも目元の影が薄い気がした。


「いらっしゃいませ、エリアス様」


「一杯、頼む」


「パンも?」


「頼む」


 短い返事。けれど、その声を聞くと、私はなぜか鍋の火が少し強くなったように感じた。


 エリアス様には、昨日より丸麦を少し増やした。味が分からないと言っていたけれど、食べる速さや器の持ち方で、どのくらいなら負担にならないかは分かる。蕪は中くらい。芋は入れすぎない。パンは炭火で温め、皮の香ばしさを戻してから添えた。


 器を渡すと、彼はいつものように両手で受け取った。


 いつものように。


 まだ二度目なのに、私はそう思ってしまった。


 エリアス様は屋台の横の木箱に腰を下ろす。剣が邪魔そうで、少しだけ身体を斜めにする。その不器用な姿に、私はふっと笑いかけて、慌てて口元を引き締めた。


「何か」


「いえ。木箱が少し小さいかと」


「問題ない」


「問題なさそうには見えません」


 言ってしまってから、まただと思った。


 侯爵家にいた頃の私は、婚約者にこんな返し方はしなかった。いつも言葉を選び、機嫌を読み、飲み込んでいた。なのに、この屋台に立っていると、鍋の湯気に押されるみたいに、言葉が少しだけ素直になる。


 エリアス様は真面目な顔で木箱を見下ろした。


「では、俺が大きくなりすぎた」


「木箱のせいにしてあげてください」


「承知した」


 大真面目にうなずかれて、私は今度こそ少し笑ってしまった。


 その時、若い兵士が空の器を持って戻ってきた。


「あの、ごちそうさまでした」


「足りましたか?」


「はい。あの……」


 彼は言いにくそうに兜の縁を撫でた。


「昨日、眠れなくて。討伐の時の音が耳に残って、横になると起きてしまって。でも、今、少し眠れそうです」


 私は手を止めた。


「それは、よかったです」


「ただのスープなのに、変ですね」


 彼は照れたように笑う。


 ただのスープ。


 少し前の私なら、その言葉に傷ついたかもしれない。


 でも、今は違った。


 ただのスープでいい。眠れない人が眠れるなら。冷えた手が温まるなら。朝まで立っていなければならない人の腹に、少しでも残るなら。


「よければ、また来てください」


「はい」


 若い兵士は頭を下げ、ふらつく足取りで仲間と去っていった。今夜はきっと、どこかの詰所で短くても眠れるだろう。


 ふと視線を感じて、顔を上げる。


 エリアス様がこちらを見ていた。


「何か?」


「いや」


「何か言いたそうなお顔です」


「顔に出ていたか」


「少しだけ」


 彼は器を見下ろし、しばらく考え込む。


「君は、食べる者をよく見ている」


 木匙を握る手が止まった。


「料理人なら、当然です」


「当然ではない」


 その声は、昨日より少し低かった。


「少なくとも、戦場では当然ではなかった。王都でも、そうとは限らない」


 何を思い出しているのか、彼の目が一瞬だけ遠くなる。


 味を失った人。


 眠れない夜を知っている人。


 器の温度を、両手で確かめる人。


 私は何か言いたかった。けれど、うまく見つからなかった。慰めの言葉は、砂糖を入れすぎた菓子みたいに重くなることがある。だから私は、ただ鍋の蓋を少しずらした。


「おかわり、できます」


 エリアス様は瞬きをした。


 それから、ごく小さくうなずいた。


「頼む」


 夜は忙しく過ぎた。


 鍋は、昨日より早く軽くなった。マルタさんのパン籠も空に近い。私は器を洗い、スープをよそい、パンを温め、客の顔を見て具を選んだ。寒さで指先はかじかんだのに、背中だけはずっと汗ばんでいた。


 最後の客が去った時、東の空は薄く白み始めていた。


 私は鍋の底を見つめる。


 ほんの少しだけ、スープが残っている。


 やっと、自分の分だ。


 そう思ったのに、次の瞬間には残った分を明日の朝の粥にできるか計算していた。薄めれば二食分。パン屑を入れれば、もっと増える。昨日と同じだ。


 私は苦笑した。


 変わるのは、思ったより難しい。


「リリアナ」


 呼ばれて振り向くと、エリアス様がまだいた。客はもういないのに、木箱に座ったままだった。空の器を両手で包み、こちらを見ている。


「食べたか」


「え?」


「君は、食べたのか」


 返事が喉で止まった。


 食べていない。


 パンの端を昼に少し食べたきり、夜は客の器ばかり見ていた。


「……後で」


「後では、よくない」


 命令のような言い方だった。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。彼の声には、私を押さえつける響きではなく、火が消えそうな鍋を見つけた時のような焦りがあった。


 エリアス様は自分の前に置いていたパンの半分を差し出した。


「食べろ」


「それは、エリアス様の」


「俺は二杯食べた」


「でも」


「機能維持に必要だ」


 私は思わず笑った。


「また機能ですか」


「言い方を誤ったか」


「少し。でも、ありがとうございます」


 差し出されたパンは、スープの湯気を吸って少し柔らかくなっていた。皮はまだ香ばしく、中はしっとりしている。私はそれを受け取り、ひと口かじった。


 小麦の甘さが広がる。


 冷えた身体の真ん中に、ゆっくり火が灯る。


 ただのパンなのに、泣きそうになるほどおいしかった。


 エリアス様は何も言わずに待っていた。急かさず、見つめすぎず、ただそこにいた。


 空の器が増えるほど、侯爵家の食卓から人が減っていくことを、私はまだ知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ