第3話 味のしない騎士様
湯気の向こうに立っていた人は、夜そのものをまとっているようだった。
銀の鎧は月明かりを薄く返し、肩には黒い外套。背が高く、姿勢がまっすぐで、ただ立っているだけなのに市場の端の空気が少し硬くなる。腰に佩いた剣は飾りではない。鞘の革が擦り切れ、手入れの跡があり、何度も抜かれてきた剣だと分かった。
けれど、その人の顔は怖いというより、ひどく疲れていた。
目の下に薄い影がある。髪は灰を溶かしたような銀色で、頬にはまだ消えきらない傷跡。美しい人だと思うより先に、眠れていない人だ、と思った。
「まだ、やっているか」
低い声だった。
私は慌てて背筋を伸ばす。
「はい。夜食でしたら、まだございます」
言ってから、胸が少し痛んだ。
まだございます、なんて立派に言えるほど売れてはいない。鍋には半分以上スープが残っている。けれど、残っていてよかったとも思った。こんな顔をした人に、空の鍋を見せずに済む。
その人は看板を見た。
『夜食あります』
炭で書かれた、あまりにも素っ気ない文字。マルタさんが勢いで書いたので、食の字だけ妙に太い。
「夜食」
「はい。小銅貨二枚です。パン端をつけると三枚で」
「では、パンも」
差し出された硬貨を受け取る時、彼の手袋に血の染みが残っているのに気づいた。古いものだ。洗っても落ちきらなかった色。討伐帰りか、もしくはそれに近い場所から来た人なのだろう。
私は木の器を手に取った。
この人には、熱すぎない方がいい。
鎧の隙間から見える首筋が冷えている。けれど、唇の色は少し悪い。強い熱を入れると、かえって身体が驚くかもしれない。鍋の表面を少し避け、下の方の落ち着いたスープをすくう。
野菜は大きすぎないものを選んだ。蕪は角が溶け、匙で押せばほぐれる。人参は甘く煮えて、丸麦は小さくふくらみ、鶏の旨みを吸っている。骨ごと煮た安い鶏肉は、脂が少し浮いて、湯気の中で金色の薄い輪を作っていた。
パン端は、炭火の近くで少しだけ温め直す。
硬くなりかけた皮が、熱を受けてぱり、と小さく鳴った。割ると中はまだしっとりしていて、湯気に小麦の匂いが混じる。スープへ浸せば、外側の香ばしさは残したまま、内側だけがふわりと汁を吸うはずだ。
「お待たせしました」
器を差し出すと、彼は両手で受け取った。
その手つきが、少しだけ意外だった。
武器を扱う人の手なのに、器を持つ時は慎重だった。落とさないようにというより、割らないように。まるで、自分の手の強さを信じていないような持ち方だった。
彼は屋台の横の木箱に腰を下ろした。
それだけで、木箱が気の毒になるほど窮屈そうだった。膝が少し余り、剣が邪魔そうで、それでも彼は何も言わない。
私は客の食べるところをじっと見るのは失礼だと知っている。
知っているのに、見てしまった。
彼はまず器に口をつけた。
湯気が頬にかかる。眉がわずかに動いた。けれど、それが熱さのせいなのか、味のせいなのか、私には分からない。
一口。
また一口。
彼は何も言わず、ゆっくり飲んだ。
蕪を匙ですくう。口に運ぶ。丸麦を少し。パンをスープへ浸し、やわらかくなったところを食べる。噛む速さは遅い。疲れている人の食べ方だ。けれど、途中で止めることはなかった。
静かな食事だった。
音といえば、匙が木の器に触れる小さな音と、鍋の中でスープがふつふつと息をする音だけ。市場の端に残っていた夜気が、少しずつ湯気に押し返されていく。
その人は最後の一口まで飲み干した。
器の底に、丸麦ひと粒残っていない。
胸の奥が、きゅっと熱くなった。
おいしかったのだろうか。
聞きたい。けれど、聞くのが怖い。侯爵家で何度も味を否定されたせいか、自分の料理について尋ねることは、傷口を差し出すことに似ていた。
「あの」
私が迷っていると、彼の方が先に口を開いた。
「名は?」
「リリアナです。リリアナ・フェルベット」
「フェルベット」
彼はその姓を知っていたようだった。けれど、余計なことは言わなかった。
「俺はエリアス・ヴァイス。辺境騎士団の者だ」
「ヴァイス卿……」
その名には覚えがあった。
魔獣討伐で名を上げた騎士団長。北方の戦線を守り、王都でも英雄と呼ばれる人。夜会の噂では、氷のような騎士だと言われていた。
氷。
目の前の人は確かに冷たそうに見える。けれど、空の器を両手で包んだまま離さない姿は、氷というより、火のそばに来た迷子の獣のようだった。
「お口に合いましたか」
結局、聞いてしまった。
エリアス様は少し沈黙した。
長い沈黙だった。
失敗したかもしれない。そう思った瞬間、手の中の木匙を握る指に力が入った。
「分からない」
彼は言った。
私は息を止める。
「味は、分からない」
市場の夜風が、鍋の湯気を横へ流した。
味が分からない。
その言葉を聞いた時、真っ先に浮かんだのは失望ではなかった。怒りでもない。胸の奥に落ちてきたのは、ひどく小さな痛みだった。
食べることは、生きることだ。
その喜びを失うとは、どんな夜を越えてきたのだろう。
「……申し訳ありません。知らずに」
「謝ることではない」
彼は空の器を見下ろした。
「討伐で毒を受けた。命は拾ったが、味覚は戻らなかった。それだけだ」
それだけ。
まるで、手袋を片方なくした程度のことみたいに言う。
けれど、器を包む指先は強くなっていた。厚手の木の器を通して残りの熱を探しているように見える。
私は鍋の蓋を少しずらした。
まだ湯気がある。まだ温かい。
「では、どうして最後まで召し上がったのですか」
言ってから、踏み込みすぎたと気づいた。
初対面の客に聞くことではない。しかも相手は騎士団長だ。侯爵家にいた頃の私なら、絶対に口にしなかった。
けれど、エリアス様は怒らなかった。
彼は少しだけ視線を上げ、私ではなく鍋を見た。
「温度は分かる」
「温度、ですか」
「熱すぎない。だが冷めていない。喉に引っかからない。具が大きすぎない。パンも、浸せば噛みやすかった」
私は思わず、目を瞬いた。
味は分からないと言った人が、私の料理をこんなふうに見るとは思わなかった。
「それから」
エリアス様は、言葉を探すように少し眉を寄せた。整った顔に困惑が浮かぶ。どうやらこの人は、感謝より戦況報告の方が得意らしい。
「急かされていない」
「え?」
「食べるのを急かされていない気がした」
その言葉で、胸の奥がまた熱くなる。
侯爵家では、料理は時間通りに出すものだった。冷める前に運ぶもの。皿の位置を揃えるもの。誰の手柄にもならず、失敗した時だけ名前を呼ばれるもの。
でも、この人は気づいた。
味ではなく、皿の上に置いた沈黙に。
急がなくていいという温度に。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは俺だ」
エリアス様は真面目な顔で言った。
「機能的な食事だった」
「機能的」
私は復唱してしまった。
褒められたのだろうか。
たぶん褒められたのだと思う。けれど、料理に対して機能的と言われたのは初めてだった。嬉しいような、首をかしげたいような、鍋の蓋を閉めて隠れたいような気持ちになる。
私が反応に困っていると、エリアス様も何かを間違えたと察したらしい。
「悪い。言い方を誤った」
「いえ。珍しい褒め言葉でした」
「褒め言葉として成立していたか」
「今、成立させました」
言ってしまってから、自分で驚いた。
私はこんな返し方をする人間だっただろうか。
エリアス様も少し目を見開いた。それから、ごくわずかに口元を緩めた。笑った、というには淡い。でも、たしかにその氷の表面にひびが入ったような表情だった。
「では、助かった」
彼は空の器を差し出した。
「もう一杯、あるか」
心臓が一度、変な跳ね方をした。
「はい。もちろんです」
私は二杯目をよそう。
今度は少しだけ丸麦を多めにした。彼の身体は疲れている。でも、胃は受けつけている。なら、眠る前に腹持ちがいい方がいい。蕪はやわらかいものを選び、人参は甘い端の部分を入れる。パンはもう半分、炭火で温め直した。
スープを注ぐと、器の中でパンの端が黄金色に染まっていく。皮はまだ香ばしく、汁を吸った中身はとろりとほどける。匙を入れれば、丸麦がぷちりと歯に当たり、鶏の脂と玉ねぎの甘さが舌の上に広がるはずだった。
味が分からない人に、私は味を想像している。
少し切なかった。
でも、それでもいいと思った。
味が届かなくても、温度は届く。具の大きさも、器の厚みも、急かさない沈黙も。料理は、舌だけに渡すものではないのかもしれない。
二杯目も、彼は黙って食べた。
私は今度こそじっと見ないようにした。鍋の灰汁をすくうふりをして、けれど匙の音だけは聞いていた。
最後に、ことり、と器が置かれる。
また空だった。
「明日も、ここにいるか」
エリアス様が尋ねた。
「はい。たぶん」
「たぶん?」
「まだ、一日目なので。屋台が続くかは分かりません」
「続けた方がいい」
断言だった。
命令ではない。けれど、剣を振る人の言葉は、どうしてこうもまっすぐ落ちてくるのだろう。
「なぜですか」
「俺が来る」
返答が短すぎて、私は一瞬、意味を取り落とした。
エリアス様は立ち上がり、外套を直した。空の器を丁寧に返す。厚い手袋の指が器の縁をそっと撫でる。その仕草だけが、不思議なほど名残惜しそうだった。
「ごちそうになった」
「ありがとうございました」
「リリアナ」
名を呼ばれ、私は顔を上げる。
「この器は、温かかった」
それだけ言って、彼は市場の夜へ歩いていった。
銀の鎧が闇に溶け、足音が遠ざかる。私はしばらく、空になった器を抱えて立っていた。
味がしないと言った人の器が、いちばん綺麗に空になっていた。




