表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
捨てられ令嬢の夜食屋台  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/10

第3話 味のしない騎士様

 湯気の向こうに立っていた人は、夜そのものをまとっているようだった。


 銀の鎧は月明かりを薄く返し、肩には黒い外套。背が高く、姿勢がまっすぐで、ただ立っているだけなのに市場の端の空気が少し硬くなる。腰に佩いた剣は飾りではない。鞘の革が擦り切れ、手入れの跡があり、何度も抜かれてきた剣だと分かった。


 けれど、その人の顔は怖いというより、ひどく疲れていた。


 目の下に薄い影がある。髪は灰を溶かしたような銀色で、頬にはまだ消えきらない傷跡。美しい人だと思うより先に、眠れていない人だ、と思った。


「まだ、やっているか」


 低い声だった。


 私は慌てて背筋を伸ばす。


「はい。夜食でしたら、まだございます」


 言ってから、胸が少し痛んだ。


 まだございます、なんて立派に言えるほど売れてはいない。鍋には半分以上スープが残っている。けれど、残っていてよかったとも思った。こんな顔をした人に、空の鍋を見せずに済む。


 その人は看板を見た。


『夜食あります』


 炭で書かれた、あまりにも素っ気ない文字。マルタさんが勢いで書いたので、食の字だけ妙に太い。


「夜食」


「はい。小銅貨二枚です。パン端をつけると三枚で」


「では、パンも」


 差し出された硬貨を受け取る時、彼の手袋に血の染みが残っているのに気づいた。古いものだ。洗っても落ちきらなかった色。討伐帰りか、もしくはそれに近い場所から来た人なのだろう。


 私は木の器を手に取った。


 この人には、熱すぎない方がいい。


 鎧の隙間から見える首筋が冷えている。けれど、唇の色は少し悪い。強い熱を入れると、かえって身体が驚くかもしれない。鍋の表面を少し避け、下の方の落ち着いたスープをすくう。


 野菜は大きすぎないものを選んだ。蕪は角が溶け、匙で押せばほぐれる。人参は甘く煮えて、丸麦は小さくふくらみ、鶏の旨みを吸っている。骨ごと煮た安い鶏肉は、脂が少し浮いて、湯気の中で金色の薄い輪を作っていた。


 パン端は、炭火の近くで少しだけ温め直す。


 硬くなりかけた皮が、熱を受けてぱり、と小さく鳴った。割ると中はまだしっとりしていて、湯気に小麦の匂いが混じる。スープへ浸せば、外側の香ばしさは残したまま、内側だけがふわりと汁を吸うはずだ。


「お待たせしました」


 器を差し出すと、彼は両手で受け取った。


 その手つきが、少しだけ意外だった。


 武器を扱う人の手なのに、器を持つ時は慎重だった。落とさないようにというより、割らないように。まるで、自分の手の強さを信じていないような持ち方だった。


 彼は屋台の横の木箱に腰を下ろした。


 それだけで、木箱が気の毒になるほど窮屈そうだった。膝が少し余り、剣が邪魔そうで、それでも彼は何も言わない。


 私は客の食べるところをじっと見るのは失礼だと知っている。


 知っているのに、見てしまった。


 彼はまず器に口をつけた。


 湯気が頬にかかる。眉がわずかに動いた。けれど、それが熱さのせいなのか、味のせいなのか、私には分からない。


 一口。


 また一口。


 彼は何も言わず、ゆっくり飲んだ。


 蕪を匙ですくう。口に運ぶ。丸麦を少し。パンをスープへ浸し、やわらかくなったところを食べる。噛む速さは遅い。疲れている人の食べ方だ。けれど、途中で止めることはなかった。


 静かな食事だった。


 音といえば、匙が木の器に触れる小さな音と、鍋の中でスープがふつふつと息をする音だけ。市場の端に残っていた夜気が、少しずつ湯気に押し返されていく。


 その人は最後の一口まで飲み干した。


 器の底に、丸麦ひと粒残っていない。


 胸の奥が、きゅっと熱くなった。


 おいしかったのだろうか。


 聞きたい。けれど、聞くのが怖い。侯爵家で何度も味を否定されたせいか、自分の料理について尋ねることは、傷口を差し出すことに似ていた。


「あの」


 私が迷っていると、彼の方が先に口を開いた。


「名は?」


「リリアナです。リリアナ・フェルベット」


「フェルベット」


 彼はその姓を知っていたようだった。けれど、余計なことは言わなかった。


「俺はエリアス・ヴァイス。辺境騎士団の者だ」


「ヴァイス卿……」


 その名には覚えがあった。


 魔獣討伐で名を上げた騎士団長。北方の戦線を守り、王都でも英雄と呼ばれる人。夜会の噂では、氷のような騎士だと言われていた。


 氷。


 目の前の人は確かに冷たそうに見える。けれど、空の器を両手で包んだまま離さない姿は、氷というより、火のそばに来た迷子の獣のようだった。


「お口に合いましたか」


 結局、聞いてしまった。


 エリアス様は少し沈黙した。


 長い沈黙だった。


 失敗したかもしれない。そう思った瞬間、手の中の木匙を握る指に力が入った。


「分からない」


 彼は言った。


 私は息を止める。


「味は、分からない」


 市場の夜風が、鍋の湯気を横へ流した。


 味が分からない。


 その言葉を聞いた時、真っ先に浮かんだのは失望ではなかった。怒りでもない。胸の奥に落ちてきたのは、ひどく小さな痛みだった。


 食べることは、生きることだ。


 その喜びを失うとは、どんな夜を越えてきたのだろう。


「……申し訳ありません。知らずに」


「謝ることではない」


 彼は空の器を見下ろした。


「討伐で毒を受けた。命は拾ったが、味覚は戻らなかった。それだけだ」


 それだけ。


 まるで、手袋を片方なくした程度のことみたいに言う。


 けれど、器を包む指先は強くなっていた。厚手の木の器を通して残りの熱を探しているように見える。


 私は鍋の蓋を少しずらした。


 まだ湯気がある。まだ温かい。


「では、どうして最後まで召し上がったのですか」


 言ってから、踏み込みすぎたと気づいた。


 初対面の客に聞くことではない。しかも相手は騎士団長だ。侯爵家にいた頃の私なら、絶対に口にしなかった。


 けれど、エリアス様は怒らなかった。


 彼は少しだけ視線を上げ、私ではなく鍋を見た。


「温度は分かる」


「温度、ですか」


「熱すぎない。だが冷めていない。喉に引っかからない。具が大きすぎない。パンも、浸せば噛みやすかった」


 私は思わず、目を瞬いた。


 味は分からないと言った人が、私の料理をこんなふうに見るとは思わなかった。


「それから」


 エリアス様は、言葉を探すように少し眉を寄せた。整った顔に困惑が浮かぶ。どうやらこの人は、感謝より戦況報告の方が得意らしい。


「急かされていない」


「え?」


「食べるのを急かされていない気がした」


 その言葉で、胸の奥がまた熱くなる。


 侯爵家では、料理は時間通りに出すものだった。冷める前に運ぶもの。皿の位置を揃えるもの。誰の手柄にもならず、失敗した時だけ名前を呼ばれるもの。


 でも、この人は気づいた。


 味ではなく、皿の上に置いた沈黙に。


 急がなくていいという温度に。


「……ありがとうございます」


「礼を言うのは俺だ」


 エリアス様は真面目な顔で言った。


「機能的な食事だった」


「機能的」


 私は復唱してしまった。


 褒められたのだろうか。


 たぶん褒められたのだと思う。けれど、料理に対して機能的と言われたのは初めてだった。嬉しいような、首をかしげたいような、鍋の蓋を閉めて隠れたいような気持ちになる。


 私が反応に困っていると、エリアス様も何かを間違えたと察したらしい。


「悪い。言い方を誤った」


「いえ。珍しい褒め言葉でした」


「褒め言葉として成立していたか」


「今、成立させました」


 言ってしまってから、自分で驚いた。


 私はこんな返し方をする人間だっただろうか。


 エリアス様も少し目を見開いた。それから、ごくわずかに口元を緩めた。笑った、というには淡い。でも、たしかにその氷の表面にひびが入ったような表情だった。


「では、助かった」


 彼は空の器を差し出した。


「もう一杯、あるか」


 心臓が一度、変な跳ね方をした。


「はい。もちろんです」


 私は二杯目をよそう。


 今度は少しだけ丸麦を多めにした。彼の身体は疲れている。でも、胃は受けつけている。なら、眠る前に腹持ちがいい方がいい。蕪はやわらかいものを選び、人参は甘い端の部分を入れる。パンはもう半分、炭火で温め直した。


 スープを注ぐと、器の中でパンの端が黄金色に染まっていく。皮はまだ香ばしく、汁を吸った中身はとろりとほどける。匙を入れれば、丸麦がぷちりと歯に当たり、鶏の脂と玉ねぎの甘さが舌の上に広がるはずだった。


 味が分からない人に、私は味を想像している。


 少し切なかった。


 でも、それでもいいと思った。


 味が届かなくても、温度は届く。具の大きさも、器の厚みも、急かさない沈黙も。料理は、舌だけに渡すものではないのかもしれない。


 二杯目も、彼は黙って食べた。


 私は今度こそじっと見ないようにした。鍋の灰汁をすくうふりをして、けれど匙の音だけは聞いていた。


 最後に、ことり、と器が置かれる。


 また空だった。


「明日も、ここにいるか」


 エリアス様が尋ねた。


「はい。たぶん」


「たぶん?」


「まだ、一日目なので。屋台が続くかは分かりません」


「続けた方がいい」


 断言だった。


 命令ではない。けれど、剣を振る人の言葉は、どうしてこうもまっすぐ落ちてくるのだろう。


「なぜですか」


「俺が来る」


 返答が短すぎて、私は一瞬、意味を取り落とした。


 エリアス様は立ち上がり、外套を直した。空の器を丁寧に返す。厚い手袋の指が器の縁をそっと撫でる。その仕草だけが、不思議なほど名残惜しそうだった。


「ごちそうになった」


「ありがとうございました」


「リリアナ」


 名を呼ばれ、私は顔を上げる。


「この器は、温かかった」


 それだけ言って、彼は市場の夜へ歩いていった。


 銀の鎧が闇に溶け、足音が遠ざかる。私はしばらく、空になった器を抱えて立っていた。


 味がしないと言った人の器が、いちばん綺麗に空になっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ