第2話 市場の端の夜食屋台
侯爵家を出た私は、夜明けまで歩いた。
行くあてがなかったわけではない。そう思いたかっただけかもしれない。
王都の石畳は朝露で濡れていて、靴底が何度も滑った。胸に抱えた布包みの中で、欠けた木匙がかすかに音を立てる。その音を聞くたび、私は自分が本当にあの家を出たのだと知った。
空腹は、まだ腹の底にいた。
悲しみよりしぶとい。怒りより正直だ。昨日から何も食べていない身体は、私の事情など知らない顔で、きゅう、と情けない声を上げる。
「……まずは、食べないと」
声に出してみると、少しだけ現実味が戻った。
市場の朝は早い。東の空が白む頃には、荷車がきしみ、魚屋が氷を割り、八百屋が葉物についた土を払っている。パン屋の煙突からは、他のどんな香りより先に人を起こす匂いが漂っていた。
焼きたてのパンの匂い。
小麦と酵母、焦げる寸前の皮、奥に少しだけ残る甘さ。鼻から胸へ落ちて、胸から胃へ落ちる。私は思わず足を止めた。
「リリアナじゃないか」
低く太い声が飛んできた。
市場の角にあるパン屋の戸口から、マルタ・ベネットさんが顔を出していた。腕まくりをした太い腕に、白い粉がついている。いつもなら侯爵家の厨房へ納品に来る人だ。私が市場側にいるのがよほど珍しかったのだろう。眉間に深い皺を寄せて、こちらへ近づいてきた。
「その顔、何があったんだい」
「少し……家を出まして」
「少し家を出る顔じゃないね」
マルタさんは私の返事を待たず、店の奥へ引っ込んだ。すぐに紙袋を抱えて戻ってくる。
「ほら」
袋を押しつけられた。
中には、パンの端がいくつも入っていた。食パンの耳ではない。大きな田舎パンの端だ。外側はこんがり褐色で、指で押すとぱり、と小さく鳴る。割れ目から、まだ湯気が逃げていた。中の白い部分はしっとりしていて、焼きたて特有の甘い熱を持っている。
「あの、お代を」
「昨日の売れ残りじゃないよ。今朝の焼きたてだ。泣きそうな顔した娘に、硬いパンなんか渡せるかい」
「泣いていません」
「腹は減ってるだろ」
その言葉で、またお腹が鳴った。
マルタさんは勝ち誇ったように鼻を鳴らした。私は恥ずかしさで耳まで熱くなりながら、パンの端をひとつ割った。
ぱりり、と皮が割れる。
中から白い湯気が上がった。噛むと、外側は香ばしく、内側はふわりと潰れる。小麦の甘さがじんわり広がって、空っぽだった胃が驚いたように動いた。何も塗っていない。ただのパンなのに、噛むたびに身体がほどける。
「……おいしいです」
「当たり前だよ。あたしのパンだ」
マルタさんは当然の顔で言い、それから少しだけ声を落とした。
「で、これからどうするんだい」
私は布包みを抱き直した。
欠けた木匙の形が、布越しに指へ触れる。
「料理をします」
「侯爵家に戻るのかい」
「いいえ」
そこだけは、すぐに答えられた。
自分でも驚くほど、迷いがなかった。
「戻りません。もう、あの厨房には」
言い切った途端、膝の力が少し抜けた。戻らない。たったそれだけの言葉なのに、ずいぶん重かった。マルタさんは何も聞かなかった。ただ、私の手の中の木匙をちらりと見て、うなずいた。
「なら、市場の端を使いな」
「市場の端?」
「古い荷台がある。昔は芋売りが使っていたやつだ。車輪は片方ぎいぎい鳴るけど、鍋くらいは置ける。夜はあそこ、人通りがあるんだ。夜勤帰りの連中や荷運びが腹を空かせて通る」
「でも、私、お店なんて」
「鍋を火にかけられるんだろ」
「それは、できます」
「なら半分できたようなもんだ」
それはずいぶん乱暴な理屈だった。
けれど、私の胸には不思議とすっと入ってきた。
侯爵家では、厨房の隅まで磨いても、献立を整えても、食べる人の体調を考えても、それは「雑務」だった。けれど市場では、鍋を火にかけられるだけで、半分できたと言ってもらえる。
私はパンの最後のひとかけを口に入れ、ゆっくり噛んだ。
小麦の甘さが喉を通る。
「やってみます」
「よし。じゃあまず、顔を洗いな。そんな捨てられた子犬みたいな顔で客の前に立たれたら、パンまで湿っちまう」
「子犬……」
「しかも腹ぺこのやつだね」
否定できなかった。
その日の夕方、私は市場の端に立っていた。
マルタさんが貸してくれた古い荷台は、確かに片方の車輪がぎいぎい鳴った。板は傷だらけで、端は少し反っている。けれど鍋を置くと、不思議とそこが厨房になった。
大鍋は借り物。火鉢も借り物。布は洗いざらし。看板は、マルタさんがパンを焼く合間に木切れへ炭で書いてくれた。
『夜食あります』
それだけ。
私はその看板を見て、少し笑ってしまった。あまりに素っ気ない。でも、今の私にはちょうどよかった。
鍋の中では、野菜スープが静かに煮えている。
今夜は鶏肉をたくさん使えなかった。代わりに、玉ねぎをじっくり炒めた。鍋底で薄茶色になるまで火を入れると、甘さが出る。そこへ水を注いだ瞬間、じゅわ、と音がして、立ちのぼった湯気に玉ねぎの甘い匂いが混じった。
小さく切った蕪と人参、少しだけ残っていた丸麦。安い部位の鶏を骨ごと入れて、灰汁を丁寧にすくう。脂は取りすぎない。夜の寒さには、少しの脂が必要だ。
最後に塩。
木匙で三回、鍋を回す。
一度目。具を起こす。
二度目。味をなじませる。
三度目。焦げつかせない。
湯気が頬に触れる。侯爵家の大厨房とは違う、狭くて頼りない火だった。それでも、この鍋は私のものだった。誰かに命じられてではなく、誰かの顔色をうかがってでもなく、私がここで火にかけると決めた鍋だった。
「一杯、いくらだい」
最初の客は、荷運びの老人だった。
「小銅貨二枚です。パン端をつけるなら三枚で」
「じゃあ、パンも」
木の器にスープをよそう。老人の手は節くれ立っていて、指先が赤く冷えていた。私は少しだけ温度を落とし、具を小さめに入れた。歯が弱そうだったからだ。
老人は器を両手で包み、ふう、と息を吹いた。
「……ああ」
ひと口飲んだだけで、目尻が下がる。
「玉ねぎが甘いな」
「よく炒めました」
「そうかい。そりゃ、うまいはずだ」
うまい。
その言葉が、胸の中でゆっくり広がった。
侯爵家にいた頃、料理を褒められても、それはクラウス様の采配になった。晩餐が成功すれば侯爵家の名誉で、騎士団が無事に食べれば当然のこと。私個人へ届く言葉は、いつも厨房の湯気の中で消えていた。
けれど今、老人の「うまい」は、まっすぐ私のところへ来た。
「ありがとうございます」
声が少し震えた。
老人は気づかないふりをして、パンをスープに浸した。焼きたてではなくなって少し硬くなったパン端が、黄金色の汁を吸ってやわらかくなる。老人はそれを口に運び、今度は何も言わずに目を細めた。
そのあと、客は三人来た。
荷運びが二人。夜警の若い兵士が一人。たったそれだけ。
鍋は半分以上残った。
夜が深くなるにつれ、市場の賑わいは薄くなっていく。店の戸が閉まり、石畳に落ちる灯りも減った。遠くで犬が吠え、どこかの酒場から笑い声が漏れてくる。
私は鍋の蓋を少しずらし、湯気を逃がした。
売れ残りを見つめるのは、思ったより苦しい。
侯爵家なら、残った料理は下働きや犬に回された。それでも大鍋が空にならないことを、私は失敗だと思っていた。今夜も、同じ気持ちが胸を刺す。
でも、違う。
これは、私が始めた一日目だ。
「明日の朝、薄めて粥にすれば食べられる」
自分に言い聞かせるように呟いた。
そして、気づく。
また私は、自分の夕食を後回しにしていた。
笑ってしまいそうになった。変わると決めたのに、こういうところだけしぶとく残る。私は小さな器を手に取った。自分のためにスープをよそう。それだけのことが、なぜかひどく難しい。
器を持ったまま迷っていると、冷たい風が市場を抜けた。
看板がかたりと揺れる。
その音に顔を上げた。
夜明け前。
湯気の向こうに、銀の鎧を着た人影が立っていた。




