第1話 捨てられた夜食鍋
夜明け前の厨房は、いつも少しだけ世界から取り残されている。
広い石床はまだ冷たく、天井近くの明かり窓は藍色に沈んでいた。けれど、竈の前だけは別だ。薪がぱち、と小さく弾けるたび、鍋底から白い湯気が持ち上がる。煮込んだ鶏の脂が薄い金色の輪になって浮かび、匙を入れると、やわらかくなった蕪と人参がほろりと崩れた。
今夜の夜勤明けの騎士たちは、魔獣討伐帰りだと聞いている。
だから、香辛料は控えめにした。胃が疲れている人に、強い味は重い。鶏骨で取った出汁に、細かく裂いた胸肉、丸麦、蕪、人参、少しだけ葱。最後に塩をひとつまみ。喉を通る温度まで落ち着かせれば、眠れなかった人でも飲める。
木匙で鍋を三回、ゆっくり回す。
一度目は具を起こすため。二度目は塩をなじませるため。三度目は、焦げつかせないため。
母が教えてくれた手順だった。
「……うん」
小皿に少しだけよそい、味を見る。熱い湯気が唇を撫でた。塩は薄め。でも、疲れた身体にはこのくらいがいい。噛まずに飲み込めるほどやさしくて、けれど腹の底にはちゃんと残る。
本当は、私も一口食べたかった。
昨日の昼から、まともに食事をしていない。クラウス様の昼餐の下準備、ミレーヌ様のお茶会用菓子の手配、夜会後の軽食、そしてこの騎士団用の夜食。気づけば、自分の皿だけがいつも空だった。
空腹で指先が少し震えたので、私は木匙の柄を握り直した。
大丈夫。騎士たちに配ったあと、鍋底に残った分をもらえばいい。
そう思った時、厨房の扉が開いた。
「まだこんなところにいたのか、リリアナ」
振り向くより先に、クラウス・ラングレイ様の声が石壁に響いた。
侯爵家の嫡男であり、私の婚約者。金の髪は夜会帰りでも乱れひとつなく、胸元の飾り釦が竈火を受けて冷たく光っている。
その腕には、ミレーヌ・オルニエ様が寄り添っていた。薄桃色のドレスに、砂糖菓子みたいな笑み。彼女の手には、銀の盆があった。白いクリームを山のように盛り、砂糖細工の薔薇を飾った小さな菓子が並んでいる。
「まあ……リリアナ様、まだ厨房仕事を? お可哀想に」
言葉は甘いのに、視線は私の指先で止まった。
湯気と煤で赤くなった手。爪の間に入り込んだ小麦粉。侯爵家の令嬢なら隠すべきものを、私は隠せなかった。
「騎士団の方々が戻られると伺いましたので。夜食を」
「夜食?」
クラウス様は鍋を覗き込み、眉を寄せた。
「なんだこれは。汁か?」
「塩スープです。討伐帰りの方には、重い肉料理よりも」
「貧乏くさいな」
言葉は、熱い鍋に落とされた氷のようだった。
私は木匙を握ったまま、息を止める。
クラウス様は気づかない。気づかないまま、ミレーヌ様の盆に目を向けた。
「見ろ、ミレーヌは夜会の後でもこうして華やかな菓子を用意できる。客に出すなら、こういうものだ」
「そんな、クラウス様。わたくしは少し飾っただけですわ」
ミレーヌ様は頬を染める。けれど、その砂糖薔薇がどれほど美しくても、夜勤明けの騎士の胃には重すぎる。空腹で冷えた身体に、甘いクリームは沈む。眠れない人は、胸焼けで朝を待つことになる。
言えばよかった。
けれど、クラウス様は私の言葉を聞く顔ではなかった。
「リリアナ。君はいつまで厨房に入り浸るつもりだ。侯爵家の婚約者が、下働きの真似ばかりしていては困る」
「ですが、今夜の夜勤明けの方々には、軽いものが必要です」
「必要かどうかなど、君が決めることではない」
クラウス様がため息をついた。
「君はいつも、自分の仕事を大げさに言う。料理など、腹を満たせば同じだろう」
胸の奥で、何かが小さく潰れた。
同じ。
このスープと、砂糖薔薇の菓子が。
眠れない騎士に合わせて薄くした塩も、歯を痛めた老料理人のために具を小さく切る手間も、熱で倒れた侍女に冷ました粥を渡した夜も。
全部、同じ。
木匙の先から、ぽたりと雫が落ちた。鍋の表面に小さな波紋が広がる。
「クラウス様。食べる方によって、必要なものは違います。今夜の騎士の方々には」
「もういい」
彼は私の言葉を切った。
それから、まるで夜会の席順を告げるような軽さで言った。
「リリアナ・フェルベット。君との婚約は解消する」
薪が爆ぜる音だけが響いた。
私は、一瞬、意味が分からなかった。いや、分かりたくなかったのだと思う。
「……婚約、解消」
「ああ。父上にも話は通してある。侯爵家には、もっとふさわしい女性が必要だ。華やかで、人前に出せる女性が」
ミレーヌ様が小さく息を呑んだ。驚いたふりが上手な人だと思った。指先はもう、クラウス様の袖を嬉しそうにつまんでいる。
「君には感謝しているよ。厨房仕事や雑務は助かった。だが、それは婚約者でなくともできることだ」
私は鍋を見る。
鶏の出汁が静かに揺れていた。蕪はちょうどよく煮えている。人参の角も取れて、丸麦はふくらんで、匙ですくえばきっと舌の上でほどける。今出せば、冷え切った誰かの手を温められる。
それなのに、私はその鍋の前で、捨てられていた。
「この鍋はどうなさいますか」
自分でも、どうしてそんなことを聞いたのか分からない。
クラウス様は呆れたように笑った。
「まだ料理の心配か。捨てておけ。騎士たちにはミレーヌの菓子を出せばいい」
「討伐帰りの方に、クリーム菓子を?」
「腹を満たせば同じだと言っただろう」
その時、厨房の隅で皿を洗っていた下働きの少年が、思わずこちらを見た。彼はすぐに目を伏せたけれど、唇をきゅっと結んでいた。
小さな、ほんの小さな沈黙。
でも、その沈黙だけが、今の私には味方に思えた。
私は鍋の火を落とした。蓋をして、まだ熱の残る鉄鍋に布をかける。
「承知しました」
声は思ったよりも落ち着いていた。
クラウス様は満足げに頷いた。ミレーヌ様は、勝った人の顔をしている。けれど私は二人を見ていなかった。
棚の隅に置いた、欠けた木匙を手に取る。
侯爵家に来た日から使っていたものだ。柄の端は少し黒ずみ、先は片側だけ欠けている。けれど、鍋底を傷つけず、具を崩さず、塩をなじませるにはこれがいちばんよかった。
「それも置いていけ」
クラウス様が言った。
「侯爵家の厨房のものだろう」
「これは、母の形見です」
初めて、私は彼の目をまっすぐ見た。
クラウス様が言葉に詰まる。ミレーヌ様の笑みが少しだけ硬くなる。
私は木匙を布で包み、胸に抱いた。
捨てられたのは私だ。けれど、この匙まで捨てさせるつもりはない。
「お世話になりました」
そう言って頭を下げた時、お腹が小さく鳴った。
恥ずかしくて、悔しくて、笑いそうになった。こんな時まで、身体は正直だ。悲しみより先に、空腹を訴えてくる。
私は唇を噛み、厨房を出た。
背後で、ミレーヌ様が甘い声で何かを言う。クラウス様がそれに笑う。銀盆の上の砂糖薔薇は、きっと美しいまま冷えていく。
廊下に出ると、夜明け前の空気が頬を刺した。
手の中の木匙だけが、まだ少し温かい。
私は最後に、空の器ではなく、欠けた木匙だけを持って侯爵家を出た。




