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捨てられ令嬢の夜食屋台  作者: 九葉(くずは)


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10/10

第10話 毎晩スープを飲みに来る人

 王宮晩餐の翌朝、王都には妙な噂が広がっていた。


 ラングレイ侯爵家が、同盟国の使節を迎える席で禁忌の食材を出したこと。


 侯爵令息クラウス様が、食卓作法も料理の意味も理解していなかったこと。


 ミレーヌ様の華やかな皿は、見た目だけで誰の腹も満たせなかったこと。


 そして、市場の端で夜食屋台を出している没落令嬢が、王宮の大広間で同じ食材から三つの皿を作り、使節と騎士たちの器を空にしたこと。


 噂は、焼きたてのパンの匂いより早く王都を駆け抜けた。


 マルタさんは昼過ぎ、私の屋台の前で大声を上げた。


「だから言っただろう! リリアナの鍋は腹だけじゃなくて根性まで温めるんだよ!」


「言っていませんよ、そんなこと」


「今から言うんだよ」


 そう言って、マルタさんは黒麦パンの山を荷台に置いた。


 焼きたてだった。


 皮は濃い茶色に張り、ところどころ粉をまとっている。割れ目から湯気が漏れ、小麦と黒麦の香ばしさが、冷えた市場の空気にふくらんだ。指で押すと、外はぱり、と乾いた音を立て、中はふんわり押し返す。昨日の王宮の銀皿より、ずっとあたたかく、ずっと眩しいものに見えた。


「こんなにいただけません」


「いただけるよ。今日は客が多い。王宮で勝った鍋を食べたいって連中が、夜になったら押し寄せる」


「勝った鍋……」


 私は苦笑した。


 勝った、という感じはまだしない。


 クラウス様は、王宮晩餐の担当を外された。侯爵家では後継者としての資質を疑われ、改めて実務教育を受け直すことになったらしい。ミレーヌ様も、社交界では「美しい皿の令嬢」と呼ばれているという。褒め言葉ではない。飾るだけで、食べる人を見ないという意味だ。


 さらに、朝一番に王宮の厨房へ届いた噂では、クラウス様は父であるラングレイ侯爵から、家紋の指輪を外すよう命じられたそうだ。


「その指輪の重さも分からぬ者に、家の名は預けられん」


 そう告げられたクラウス様は、青ざめた顔で何度も弁解したという。料理人が悪い、厨房の確認が足りなかった、ミレーヌ様は美しさを考えただけだ、と。けれど、王宮の広間で空になった器を見た者たちは、もう誰も彼の言葉を額面通りには受け取らなかった。


 後日、実務教育として厨房に立たされたクラウス様は、夜勤明けの兵士に冷めた脂の浮いた皿を突き返されたらしい。


「これを、あなたは同じだと言ったのですか」


 その一言に、クラウス様は顔を真っ赤にして怒鳴りかけ、けれど父侯爵の前で声を飲み込んだという。皿は空にならない。人は二口目を食べない。彼は初めて、食べてもらえない料理の前で立ち尽くしたのだと、ネスタさんが小さな声で教えてくれた。


 ミレーヌ様の茶会でも、砂糖細工の薔薇は以前のようには褒められなかった。


「美しいだけでしょう?」


 誰かが扇の陰でそう囁いた瞬間、ミレーヌ様は笑顔のまま固まったという。皿の上の薔薇は崩れず、白いクリームだけがぬるく溶け、招かれた令嬢たちは誰も手を伸ばさなかった。彼女はその日から、食材の意味を知らないまま飾る令嬢として、社交の席で遠巻きにされるようになった。


 それを聞いた時、胸がすっとしたのは本当だ。


 でも、それ以上に疲れていた。


 あの大広間の光。銀器の冷たさ。クラウス様の叫び。空になった器。すべてが身体の中でまだ渦を巻いていて、私は朝から何度も木匙を握り直していた。


 勝った鍋。


 そう呼ばれても、私の手はまだ少し震える。


「リリアナ」


 背後から声がした。


 振り向くと、セシリア王女が護衛を連れて立っていた。市場の端には不似合いなほど優雅な人なのに、彼女は泥はねを気にする様子もなく、屋台の前まで歩いてくる。


「殿下」


「今日は客として来ました。あまり畏まらないで」


「難しいご注文です」


「では、少しだけ畏まって」


 王女は微笑み、屋台の看板を見上げた。


『夜食あります』


 炭で書かれた文字は、少しかすれている。マルタさんが最初に書いてくれた、あまりにも素っ気ない看板だ。


「あなたに、王宮厨房の正式な席を用意できます」


 胸が、静かに鳴った。


「客員ではなく、正式に。待遇も保証します。あなたの知識と腕は、王宮に必要です」


 夢のような話だった。


 没落した伯爵令嬢の私に、王宮厨房の正式な席。侯爵家で下働きのように扱われていた私には、あまりに大きな話だ。


 安全。名誉。安定。


 どれも、喉から手が出るほど欲しかったはずのものだ。


 なのに私は、屋台の鍋を見ていた。


 古い荷台。ぎいぎい鳴る車輪。借り物から買い取った大鍋。薪山。黒麦パン。木の器。市場の端を行き交う人々。


 ここは立派ではない。


 けれど、私が火をつけ、私が閉める場所だった。


「ありがたいお話です」


 私はゆっくり言った。


「ですが、今すぐ屋台を畳んで王宮へ入ることは、できません」


 王女は驚かなかった。


 ただ、少しだけ目元を和らげる。


「理由を聞いても?」


「まだ、自分で自分の鍋を守れるようになったばかりです。誰かのために作るのは好きです。でも、また大きな場所へ入ったら、私は自分の空腹を後回しにしてしまう気がします」


 言葉にすると、少し恥ずかしかった。


 けれど、それが本音だった。


「だから、屋台を続けたいです。そのうえで、必要な時に王宮へ力を貸す形なら」


「客員料理師として?」


「はい」


 王女は扇を口元に当てた。


 怒ったのだろうか。


 そう思った時、彼女はふっと笑った。


「選べる者になったのですね」


 その一言に、胸の奥が熱くなる。


 王女はうなずいた。


「では、そうしましょう。王宮はあなたを必要とする時、正式に依頼します。あなたは、自分の鍋を持ったまま来ればいい」


「ありがとうございます」


「それから」


 王女の視線が、私の手元へ落ちる。


 欠けた木匙。


「今日は、私にも一杯いただけるかしら」


 その瞬間、緊張がふっとほどけた。


「もちろんです。塩スープでよろしいですか」


「昨日、使節がうらやましそうに食べていたものを」


「では、少しだけ具を小さめにします。外は冷えますから、丸麦は多めに」


「任せます」


 任せます。


 その言葉が、今は怖くなかった。


 夜になった。


 マルタさんの予想通り、屋台はこれまでで一番忙しかった。


 王宮の噂を聞いた人々が次々に来る。騎士たち、荷運び、針子、夜警、老人、王宮の下働きまで。けれど、私は一杯ずつ変えた。浮かれて同じ器を出すことだけはしたくなかった。


 大柄な荷運びには芋を多めに。針子の少女にはパンを長めに浸して。夜警には塩を少し強めに。年配の婦人には蕪を小さく。


 鍋の中で、鶏の出汁がゆっくり湯気を立てる。


 玉ねぎは甘く溶け、丸麦はぷっくり膨らみ、蕪は白くやわらかい。芋の角はほろりと崩れ、鶏肉は細く裂けて、匙ですくうたびに金色の汁をまとった。炭火で温めた黒麦パンは、皮が香ばしく、中はしっとり。スープに沈めると、じゅわりと汁を吸って、噛むたびに麦の酸味と鶏の旨みが混じる。


 客の器が、次々に空になった。


 空の器は、やはり好きだ。


 けれど、今夜はそれだけを見て終わらせないと決めていた。


 最後の客が帰った頃、東の空はうっすら白み始めていた。


 屋台の前に残っていたのは、エリアス様だけだった。


 いつもの木箱に座っている。少し窮屈そうで、剣の位置を何度か直していた。相変わらず木箱との交渉はうまくいっていないらしい。


「今日も、木箱が頑張っていますね」


「改善案がある」


「木箱にですか?」


「俺が座れる椅子を持参する」


「それはもう屋台の常連というより、住人です」


 エリアス様は真剣に考え込んだ。


「迷惑か」


 その声があまりに真面目で、私は笑ってしまった。


「迷惑ではありません」


 そう言うと、彼は少しだけ安心したように見えた。


 私は鍋の底を見た。


 スープが、ちょうど一杯と少し残っている。


 いつもなら、明日の朝の粥にしようと考える量だった。薄めれば二食分。パン屑を入れれば、もっと増える。そうやって私は、自分の空腹を何度も後ろへ押しやってきた。


 でも、今日は。


 私は木の器を一つ取った。


 鍋の中で一番温かいところをすくう。丸麦を少し。蕪を一つ。芋も一つ。細く裂けた鶏肉を、底から持ち上げる。最後に黒麦パンを小さく割り、器の端へ沈めた。


 自分のために。


 自分のための、一番温かい一杯。


 湯気が頬を撫でた。


 口に運ぶと、まず塩が来た。昨日より少しだけしっかりした塩。鶏の旨みが後から広がり、玉ねぎの甘さが舌の奥へ残る。蕪は噛まなくても崩れ、芋はほくりと割れて、丸麦がぷちりと弾ける。黒麦パンは汁を吸ってやわらかく、皮だけが香ばしさを残している。


 おいしい。


 そう思った瞬間、喉の奥が熱くなった。


 誰かに出すためではなく、誰かに認められるためでもなく、自分が温まるために食べるスープ。


 それは、少し泣きたくなるほどおいしかった。


「リリアナ」


 エリアス様が、静かに呼んだ。


「はい」


「よかった」


「何がですか」


「君が食べた」


 たったそれだけの言葉に、胸がいっぱいになる。


 私は照れ隠しに、もう一つ器を取った。


「エリアス様も召し上がりますか」


「頼む」


「今日は塩が少し強めです」


「分かるかもしれない」


 冗談のように聞こえた。


 けれど、エリアス様の顔は真面目だった。


 私は器によそう。彼には、いつもより丸麦を少し多めにした。厚手の器へスープを注ぐと、湯気が彼の頬に触れる。エリアス様は両手で器を包み、しばらくその温度を確かめていた。


 それから、一口飲む。


 静かな時間だった。


 市場は眠りかけている。パン屋の窯はまだ火を落としていない。遠くで朝一番の荷車がきしむ。空は青から淡い金へ変わっていく。


 エリアス様は器を見下ろした。


 長い沈黙のあと、彼は少しだけ眉を寄せた。


「……塩」


 私は息を止めた。


「塩、ですか」


「たぶん」


 彼はもう一口飲む。


「今日は少し、塩が分かる」


 その言葉は、奇跡というには小さかった。


 完全に味が戻ったわけではないのだろう。明日にはまた分からなくなるかもしれない。気のせいかもしれない。けれど、彼は確かにそう言った。


 今日は少し、塩が分かる。


 私は泣きそうになって、木匙を握りしめた。


「それは……よかったです」


「泣いているのか」


「湯気です」


「そうか」


「そうです」


 エリアス様はそれ以上聞かなかった。


 ただ、器を大事そうに包んで、ゆっくり飲んだ。


 食べ終えたあと、彼は立ち上がり、片づけを手伝うと言った。私は桶を渡した。彼は真剣な顔で木匙を洗おうとして、力加減を誤り、桶の水を盛大に跳ねさせた。


「……失敗した」


「木匙は敵ではありません」


「訓練が必要だ」


「訓練ではなく、手伝いです」


「手伝いの訓練をする」


「言葉が戻っています」


 私は笑いながら布巾を渡した。


 エリアス様は、少し濡れた袖を見て、それから私を見る。


「明日も来る」


「はい」


「明後日も」


「はい」


「迷惑でなければ、その後も」


 私は鍋の蓋を閉めた。


 夜食屋台の火は、もう消えかけている。けれど胸の中には、まだ温かいものが残っていた。


「迷惑ではありません」


 そう答えると、エリアス様は小さくうなずいた。


 味のしないはずの朝に、エリアスは空の器を見つめて、「今日は少し、塩が分かる」と言った。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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 この調子で味覚が戻ると良いな。2人の仲は進みそうに無いですけど
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