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遅刻魔と百人一首  作者: 夢見るカルガモさん
遅刻魔の見た時間
22/32

3

 開場時間になり三人はコンサートホールに向かった。

「コンチェルト・ノスリ」は煉瓦色の建物だった。正面入り口には古代ギリシャの神殿を思わせる白い柱が二本立っていた。

 雪菜は勝利の歩くペースが落ちたのを察し、和子に声をかけて車いすを通路脇に寄せた。彼を待っているあいだ、雪菜と和子は屋根を見ていた。先端に金の像が飾られている。和子は金閣の鳳凰みたいだと言ったが、雪菜が目をこらすと、鳳凰ではなく鷹だった。羽を広げているためか、コンサートに来る者を狙っているように見えた。

「ごめんごめん」と言いながら勝利が戻ってきた。手にはチケットが二枚あった。

「勝利さん」と雪菜は呼びかけて、かばんから封筒を出した。

「こちらチケット代です」

 出しなに伊澄が渡してくれたものだった。

 しかし、勝利は受け取りを固辞した。雪菜がなお封筒を出していると、勝利はニッと笑みを浮かべて、車いすのハンドルを取って先に行ってしまった。

 雪菜は「困りますよ」と二人を追いかけた。車いすの前に回り込んで今度は和子に渡そうとした。ところが和子は、やめてと言う風に手の平を見せた。このままではせっかくの母の機嫌に水を差してしまう。雪菜は勝利に「受け取ってください」と封筒を押しつけたが、彼は手をうしろに回した。

 和子が「雪菜ちゃん」と呼んで、

「お弁当おいしかったよ。こちらが誘ったんだから本当に気にしないで。伊澄さんに、お気持ちだけ頂戴しますと伝えてね」

 三人はコンチェルト・ノスリに入場した。雪菜の視界に飛び込んできたのは豪華絢爛たる世界だった。

 エントランス付近の床は幾何学模様の大理石だったが、そこから進んで大ホールの扉の手前十メートルくらいまで行くと、深紅のモミジ柄のじゅうたんが敷いてあった。

 天井からはいくらかかるのかわからないシャンデリアが吊り下げられていた。パーツの一粒一粒が光の強弱のせいか異なって見える。雪菜の目には檸檬色に見えたり琥珀色に見えたりした。

 三人はエレベーターで二階に行き、唐草模様のドアから大ホールに入った。座席にはぽつぽつ人の姿が見えた。雪菜の鼻に、建築現場の木材とペンキに似た香りがやってきた。

 会場はAブロックからGブロックまであった。三人の席はBブロックの最後列だった。二階席と聞いたときには、きちんと見えるのかと雪菜は心配したが、ステージが高く設置されているため、ここからでも演奏者の顔がしっかり見えそうだ。

 座席最後列の端の席だけ一八〇度回転できる造りになっていた。近くに車いすを置けるスペースがあった。ここが和子の席だった。

 勝利が車いすにブレーキをかけた。和子を座席へと移動させるのだろう。彼は和子と同じ視線になるくらい腰を落とし、和子は彼の首に腕を回した。雪菜は二人と知り合って三か月以上になる。はじめて見る光景だった。その気持ちは献身や信頼といった単純な言葉だけでは言い表せない。思いがけず七條夫妻の生活をのぞいてしまったような戸惑いもあった。

 呆然と立ち尽くしている雪菜を、和子が隣に招いた。これまで和子の隣にはいつも勝利がいた。雪菜が二人の間に割って入るのははじめてだった。

 和子が「携帯切らなきゃね」とバッグからスマホを取り出した。

 和子の気がそれるのをうかがっていた雪菜は勝利に、

「全部で何席くらいあるんでしょうかね。三千……四千くらいですかね」と話しかけ、

「そう言えば、いつもS席で見ているんですか?」と小声できいた。

 勝利は顔を曇らせた。和子に隠れるようにして雪菜に耳打ちした。

「えっとね、S席以外にも車いす席はあるんだけど、ちょっと問題があってね……」

 彼にうながされるまま、雪菜は二階席のDブロックを見た。Dブロックはステージから見て一番遠い場所だった。

 雪菜の目に入ったのは、有刺鉄線のような光景だった。座席最後列のうしろにある柵の、さらにうしろに、置物のように車いすの人が並べられていた。彼らは背を丸めるように座っていた。柵の横棒はちょうど彼らの目あたりにある。そのせいか目を隠しているようにも見えた。そう、まるで未成年犯罪者の顔写真のように! あれでは視界の妨げになってコンサートに集中できなさそうだ。

 そして雪菜はわかってしまったのだ。和子がそこに加わらないように勝利が毎年S席を買っていたことに。

 コンサートにはたくさんの人がやってくる。車いすか否かにかかわらず、観衆は個を重視されるわけではない。それは雪菜も理解している。仕方ないと思っている。しかし感傷に浸りはじめた彼女の目に映ったのは、障碍者を現実に引き戻す、あからさまな区別だったのだ。

 雪菜はこらえきれず、七條夫妻に声をかけて席を外した。ホワイエは人いきれに後ずさりしたくなるほど混んでいた。彼女はひとまずジュースでも飲んで落ち着こうと思った。

 廊下に群がる人の間を縫うように歩いているときも、雪菜の頭に残っていたのは勝利に介助される和子の姿だった。強いショックを受けたかのように、ずんと心にのしかかっていた。彼女は和子と親しく付き合ってきた。しかし自分はきちんと和子を見ていたのだろうか。和子が車いす生活をしているのさえ、雪菜は和子の一部としてしかとらえず、じっくり考えなかった。いま見ているこの景色だって、和子の目に映る世界は自分のものとは異なるのかもしれない。

 雪菜は邪魔にならないように壁に寄った。そしてゆっくりしゃがんだ。見慣れた光景より五、六十センチ低い世界。目の前を行き交う人々は雲の上までそびえる壁のようにも、また助けを乞う雪菜をあざ笑う捕食者のようにも見えた。雪菜を見下ろすいくつもの視線が突き刺さった。冷たい視線もあれば色のない視線もあった。わざとぶつかったいじわるな人もいた。和子の見る世界がいま雪菜の見ているものとまったく同じなのかはわからない。しかし、はじめて見たときには言葉を失うほど悲しい思いをしたのは想像にかたくない。和子がこの現実を受け入れるまでどのくらいの時間が必要だったのだろう。どれほどの涙を流したのだろう。鉈で殴りつけられうずくまるくらいの痛みが雪菜の体を駆け抜けた。

 沈んだ顔を見せまいと大きく深呼吸をしてから雪菜は大ホールに戻った。勝利は席を外していた。和子はきょろきょろ見回していたが、雪菜と目が合うなり顔をほころばせた。

「どこ行ってたの?」

「長丁場なのでお手洗いに」

「そうなのね。途中でも休憩あるから大丈夫よ」

「あ、そうなんですか」

「うん。そうそう、雪菜ちゃん。『メサイア』聞いてみた?」

 雪菜は、きちんと勉強してきたと和子に示したい気持ちから、

「はい。何回か聞きました。恥ずかしながらオラトリオを知らなかったんですけど、オペラから演技、舞台装置などをのぞいたものだったんですよね。あとですね、レチタティーヴォ、アリア、コーラスの違いが説明できるようになりましたよ」

 雪菜の見た解説動画はどれもこの三つを説明をしていた。ヘンデルの『メサイア』の全体像を知るにはこれらの違いを押さえるのが必要だという。語るように朗唱するレチタティーヴォ、ソリストが情感たっぷりに歌い上げるアリア、そして合唱を意味するコーラス。おおむね順繰りにやってくるらしい。雪菜はこれらの切り替えは、映画の場面転換のように機能しているのだろうととらえた。

「すごいじゃない!」

 和子は公園で百人一首の話をするとき以上に雪菜をほめた。


 開演時間が近づくとオーケストラと合唱隊が入場した。指揮台を中心に扇形に並んだ弦楽器、その後ろに管楽器やパイプオルガン、そして左右に分かれた混声合唱団とつづいた。オーケストラはそれぞれ自前のスーツやドレスのようだが、合唱隊は衣装をそろえていた。雪菜が圧倒されたのはその人数だった。ステージにあふれんばかり、肩も触れそうなほどで、全部で百名近くいただろうか。彼らは姿勢よく立ち、開演を今か今かと待ちわびているみたいだった。

 定刻になると、大ホールに満ちていたざわめきがさっと引いていった。最後の雑音がシャボン玉みたいに弾けると、ソリストと指揮者が入場した。彼らは大きな拍手で迎えられた。

 指揮者は天然パーマの、なで肩をした男性だった。その頼りなげなたたずまいに、こんな大人数をまとめられるのだろうか雪菜は心配になった。ところが、彼が会釈すると会場の緊張がほどけ、台にのぼって指揮を構えると、オーケストラも合唱隊も、顔が引き締まったのを雪菜は見た。プロとはかくあるものなのか。

 コンサートがはじまった。はじまりのシンフォニーのあとテノールが独唱した。歌詞の日本語訳が電光掲示板に表示されている。難なくストーリーを追えそうだ。アリアはバス、アルトと続いた。ソリストは椅子に座っていて、出番が来たら中央に出てきて歌った。

 しっかり予習したおかげもあって雪菜は、第一部はキリストが誕生する場面であるとわかっていた。

 テノールの伸びやかな歌声が心地よかった。ヴァイオリンは弦が切れないようにそっと弾いていたかと思えば、合唱に合わせて跳ねるような音を出すときもあった。メシア誕生の機運が高まっていく過程が、雪菜の手にとるようにわかった。

 パイプオルガンの格式高い音が聞こえてくると、それに刺激されるように、雪菜の脳裏に、かつて合唱団で訪れた教会の──香料が焚かれた甘い香りがよみがえってきた。

 第二部になった。おだやかで牧歌的な雰囲気から一転して、イエスが人々から裏切られるシーンに変わった。

 予習のときに何度も聴いた場面である。しかし、会場で聴くと異なって聞こえるのに雪菜はおどろいた。ソリストや合唱隊が苦悶の表情を浮かべて歌った。オーケストラ奏者は短く音を切り、まるで軍隊が行進するかのように弾いた。

 鞭で打たれ亡くなるイエスに、自分たちにできることは限られていると雪菜は思った。傍観者として静かに眺めるだけだ。雪菜は自分が悪事に加担したやましさを覚えた。イエスが背負う十字架は物語の中の出来事に過ぎないのか、それともこの物語を見守っている自分たちにも及ぶものなのか。雪菜はわからなくなった。

 オーケストラが死の旋律を奏でると受難の苦しみが会場を包んだのを雪菜は察した。

 隣の和子が眼鏡の下に指を差し込んだのが見えた。反対の勝利に目をやると、彼はぐっとこらえるように鼻を押さえていた。まるで聴衆がそれぞれ物語に意味をつけて、自分自身と向き合っているようだ。

 キリストが復活すると、第二部の最後の大合唱がはじまった。出番が来るまで座っていたソリストが中央に並び、合唱隊も含めて「ハーレルヤ! ハーレルヤ!」と歌った。雪菜がテレビでもよく聞くコーラスだ。

 第三部になった。ラッパが華やかなメロディーを奏でた。

 キリストのおかげで死に対する勝利宣言がなされたのはつかめたけれども、第三部はキリストの復活と信仰に関する歌詞が多く、キリスト教に明るくない雪菜には理解できないところもあった。それでも、テノールとアルトの、『メサイア』唯一のデュエットは圧巻だった。

 フィナーレはフーガ形式の「アーメン」の合唱だ。神への賛美が繰り返された。雪菜もいつしか会場に満ちていた幸福感に取り込まれていた。

 演奏が終わって指揮者が手を下ろすと、嵐のような拍手が湧き起こった。

 圧倒的なものに出くわしたら、語彙力が壊れてしまうらしい。雪菜は「すごいもん、見ちゃった……」という感想しかなかった。

 肩の力がだらんと抜けて彼女は深く椅子にもたれた。ずっと緊張していたのだろう。その疲れにしばらく身を委ねていたいような、甘い虚脱が心地よかった。

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