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この日も雪菜はリーベに足を噛まれて目を覚ました。枕元のスマホを探ると、六時になるところだった。冬が近づいてリーベもねぼすけになっているようだ。
雪菜は彼を送り出してから横になった。しかし、今日のコンサートが頭に浮かぶと落ち着かなくなった。
雪菜は机の上の封筒からチケットを取り出した。チケットには太字で「S席」と印字されている。彼女はこの文字を見るたび、びっと気持ちが引き締まる。高額なチケット代を払ってもらうのだから、よくわからないうちにコンサートが終わっていたなんてことがあってはならない。
本日演奏されるヘンデルの『メサイア』は二時間半の大作だ。雪菜は数日前から繰り返し聴き、全体像を解説できる程度に詳しくなっていた。最後の仕上げとして通しで聴いた。
開演は午後一時なのに、どういうわけか七條夫妻との待ち合わせは三時間前である。調べてみたところ、海秋沙駅から魚鷹駅まで四十分あまりで、駅からコンサートホールまで十分もかからない。移動時間に余裕をもたせても二時間はあまる。悪い予感がした。これ以上お金を出してもらったら、七條夫妻の目を見られなくなってしまう。どうしようかと頭をひねっているうちに、名案をひらめいた。
「そうだ! お店に入れないようにお弁当を作ってしまおう」
彼女は丹精こめて作った。部屋に戻ったときには一時間近く経っていた。
昨晩ビデオ通話したとき、和子はサンダルやハーフパンツだと入場を断られる場合があると言っていた。
雪菜は押し入れから一年前に買った背伸びセットを取り出した。藤色のフォーマルブラウス、桜色のプリーツスカート、光沢のある墨色のローファーである。彼女はふだん地に足がつくような服しか着ない。勝負服もあったほうがいいだろうと買ったものだ。ところが、雪菜にとっては派手で使わずじまいだった。制服で行ったほうがいいだろうかとも迷った。けれども、せっかくの七條夫妻とのお出かけだ。勝負服に命運を託そうと思った。
まだ出かけるには早い時間だった。雪菜は百人一首でも読んで時間をつぶそうと思った。気持ちが浮ついているからだろう。読み慣れた本なのにどこか違和感があった。これまで気にならなかった歌が目にとまった。六十七首目の周防内侍の歌である。
──春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなくたたむ名こそ惜しけれ
(春の短い夜の夢のように儚い、あなたの手枕を借りたばかりに、つまらない浮き名が立ってしまうのが口惜しいのです)
雪菜はまず歌の背景に着目した。
二月の月の明るい夜。女房たちは夜通しおしゃべりをしていた。眠くなった周防内侍が「枕がほしいなあ」とつぶやくと、御簾の下からすっと手が出てきた。手を差し出したのは道長の孫である藤原忠家。そこで彼女が詠んだ歌だ。
音読しているうちに雪菜が気づいたのは、前後で詠み人の気持ちが変わっていることだ。上の句では「春の夜」「夢」「手枕」と甘い言葉が並ぶ。対して下の句では浮き名が立つのをきらう現実的な対応に変化する。
なんだか露骨すぎると気になりつつも、彼女はいつものように音読した。たしかに、夜通し物語をしたり、御簾から手を出す行為は平安時代ならではのものだろう。しかし空想を好んだり、恋の噂が立つのを避けたい気持ちは高校生の雪菜にもわかる。もしかして秀歌には、この矛盾するような二つの要素が含まれているのではないか。彼女はさっそく、これまで学んだ歌を確認した。
思ったとおりだった。柿本人麻呂の『あしびきの山鳥の尾のしだり尾の』にも、清少納言の『夜をこめて鳥のそら音ははかるとも』にも同じ特徴があったのだ。当時の慣習や生活などその時代を描くばかりでなく、千年の時を経ても共感できる人間の姿も浮き彫りにしていた。
ここ最近の雪菜は百人一首についてある疑問を抱いていた。それは、和歌の世界を現代の価値観で評価していいのだろうかということだ。彼女には評価の尺度がその一つしかなかった。しかし、「時代性」と「普遍性」の両面から探ればいいのかと気づいたとたん、知恵の輪がするっとほどけたような快感があったのだ。
せっかくいいところなのに、もう出かける時間になってしまった。雪菜は赤ペンで、二つのキーワードをノートに書き込んでから部屋を飛び出した。
雪菜は海秋沙駅で降りて待ち合わせ場所に向かった。すでに七條夫妻が待っていた。和子はレースのついた若芽色のドレスに白のジャケットを着て、薄く口紅を差していた。勝利は鈍色のジャケットに生成色のズボンだった。いつものポーチではなく、皮のリュックを持っていた。
魚鷹駅に着き、エレベーターで地上に出た。この日は雪菜が車いすを押した。
雲ひとつない快晴でいつもより空が高く見えた。駅前広場は家族連れやカップルなど、たくさんの人でにぎわっていた。雪菜の頭上をムクドリが鳴きながら飛び去った。制服の女子生徒が噴水の縁に座って、ちぎったパンをドバトにあげていた。なんだかルノワールみたいだ。雪菜はぼんやり考えながら眺めた。
勝利が言った。
「小春日和だねえ。あと一、二週間もすれば、ここもクリスマスの装いをはじめるのかな。昔はね、街を歩いてたらね、山下達郎の『クリスマス・イブ』が流れてきて、ああ、冬になったなあ、って感じたものだよ」
和子が首を回して、
「雪菜ちゃん、知らないでしょ? ワムの『ラスト・クリスマス』なら知っているのかしら」
「どちらも知っていますよ。この時期になるとデパートやスーパーでも流れますよね。クリスマスソングでは、マライア・キャリーのも有名ですよね」
雪菜が車いすの背から顔を出して答えると、
「ああ、懐かしいねえ」と和子は昔を思い出すかのように口元をゆるめた。
「『クリスマス・イブ』は勝利さんと和子さんが青春のころに流行ったんですか?」
「いや、もっと後だよ。香織、小さいころから吹奏楽やってたんだよ。たしか小六……だったかな、ソロ弾いた曲だからよく覚えているなあ」
勝利の言葉に和子は首をかしげて、
「違うでしょ。その曲が流行ったのは、あの子がセーラー服を着てたときよ。だって勝利さん、もしかして恋人できたんじゃないかって心配してたじゃない」
「あれ、そうだっけ?」
七條夫妻が言い合うのを見て、雪菜は以前和子がしてくれた金婚式の話を思い出した。五十年──長い時間だ。記憶違いがあるのも生活の一部なのだろうか。二人の記憶にそれぞれ根拠があるのがおかしく、雪菜は忍び笑いをした。
しばらく進むと前方にイチョウ並木があった。
「少し遠回りになっちゃいますけど、あそこ通りましょうよ」と提案し、三人で黄朽葉色のじゅうたんを歩いた。
幼稚園生くらいの男の子が自分の顔が隠れるほどの葉をつかみ、ジャンプしながら空に投げていた。
中央に差しかかったあたりで風が吹いた。イチョウがざわめき、空から幾枚かの葉が降ってきた。陽をまとって舞う様子は蝶みたいだ。雪菜は車いすを押すのも忘れて見惚れたほどだった。
一枚の黄葉がたわむれるように和子の頭に乗った。雪菜は声をもらした。和子は身を乗り出して見回していたから、自分がキクイタダキみたいな姿になっているのには気づいてなさそうだった。雪菜がなにげなく勝利を見ると、彼は静かにほほ笑み、そっと人差し指を口に当てた。
イチョウ並木を抜けた。勝利が言った。
「昼ごはんどうしようか?」
雪菜は思い出したかのように、
「あっ! そうそう。実はですね、今日お弁当作ってきたんです。外で食べませんか?」
和子が目を丸くして、
「作ってきてくれたの?」
「はい。でも作り過ぎてしまいまして……。多かったら無理しないで下さいね」
河口近くのテーブルベンチが空いていた。雪菜はお弁当を広げて二人に箸と紙皿を渡し、紙コップにお茶を注いだ。
お弁当のコンセプトは、七條夫妻がノスタルジーを感じるおかずだった。梅しそおにぎり、おかかおにぎり、卵焼き、ウインナー、ちくわの磯辺揚げ、前日の残りのきんぴらごぼうのほかに、見た目を整えるためのトマトやブロッコリーも入れた。
勝利は最初におかかおにぎりを、和子はきんぴらごぼうを食べた。
「伊澄さんに手伝ってもらったの?」と勝利がきいた。
「いえ、一人で作りました。普段から夕食は私が作っているんですよ」
「ええっ、ほんと?」
「はい。本当ですよ」
「へえ。すごいねえ」
「でも私、応用力がないんです」
「ん? どういうことだろう」
「レシピを見ればたいていのものは作れると思います。もちろん味見しますけど、少しだけ醤油足してみよう、試しにみりん入れてみようみたいに、調味料の配合は苦手なままなんですよね。他人の作った味の再現はできても、自分のイメージする味は出せないんです。母から聞いたんですけど、昔は一冊の料理本を徹底的に研究して感覚を磨いたり、頭を使いながら料理していたみたいなんです。つまり、下積みがあるわけですよね。でも私の使ってるレシピサイトでは、投稿している人はばらばらですし、体系立てて載っているわけでもない。完成度も高いので分量を守っていれば失敗しないんです。大事なのは頭を使わずにまねすることなんです」
「雪菜ちゃんってたまに、中の人が入れ替わったんじゃないかって思うときがあるよ」と勝利は笑って、
「きっと便利になった証拠だろうね。夕食のメニューは雪菜ちゃんが決めてるの?」
「はい。肉の日、アジアの日、魚の日の順番で回しています。迷ったら母に相談します。母は管理栄養士の資格もってるので、高カロリーのものばかり作ってたら、サタンになるんですよ」
雪菜は人差し指を角に見立てて、二人を順に見た。
それまで静かに食べていた和子は小さな笑みを浮かべて、
「ちくわの磯辺揚げなんてどこで覚えたの?」
「小学校の運動会のとき、母が作ってくれたんです」
「思い出の一品なのね」
「ん、この卵焼き、すごく美味しいよ」
頬ばったまま丸い目をしている勝利にうながされ、和子は卵焼きを小さく切って手皿で食べた。
「これ、どうやって作ったの?」
「生卵に醤油と砂糖と出汁を入れて、三回に分けて焼きました」
「一品一品手が込んでいるのね。形もきれいだし、ふわふわでおいしいし」
食後に勝利が缶コーヒーを買ってきてくれた。日光浴とそよ風を楽しみながら三人で話をした。
河口にはたくさんの鴨が泳いでいた。全部で五十羽近くいるだろうか。雪菜は七條夫妻の話に耳を傾けながら、頭の片隅ではライファーとの出会いに胸をおどらせていた。
ここからの東京湾は昼を過ぎると半逆光になってしまうらしい。川面が輝いていた。キンクロハジロかスズガモか見分けられず、雪菜はもやもやした。




