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十一月も半ばを過ぎた。この日は山本先生が出張のため居残り掃除がなく、雪菜は美月と「遠征」に行こうと約束していた。二人の言う「遠征」とは、見知らぬ土地に行くことだ。スマホは使わない。頼りになるのは五感だけだ。廃屋に町の過ごした時間を見たり、工場脇の川のにおいから生活を想像したり、町民の会話に耳を澄ます。そうこうしているうちに不思議な錯覚が訪れる。姫鵜町から来た雪菜と今この町にいる雪菜との境界線があいまいになるのだ。一歩引いて町を観察していたはずなのに、いつしかその中に取り込まれたような。彼女はこの瞬間がたまらなく好きだった。
ところがこの日は運悪く、河野先生に手伝いを頼まれてしまった。校門を出たころには、一五〇センチあまりの雪菜の影法師がスレンダーマンみたいに伸びていた。
美月は雪菜のせいだとは言わなかったけれど、不満なのは雪菜の目からも明らかだった。ふくれっ面のまま、しつこく一つの小石を蹴っていた。
「今から出かけたら、着いたころには暗くなってるよね。行きたかったな」
「もうすぐ指導室の掃除終わるしさあ、そしたらたくさん出かけようよ」と雪菜は美月を見た。
美月はやはり石を蹴りながら、
「今日はどうしようか?」
美月はバードウォッチングには興味なさそうなので誘えばきっぱり断るだろう。それで彼女の行きたいところに連れて行けば機嫌がよくなるに違いない。雪菜はそう見越して、
「ここはだまされたと思ってさ、バードウォッチングしてみない?」
「バードウォッチング? まあ……、雪菜がしたいなら付き合ってもいいけど」
「えっ?」
「えっ?」
二人はしばし見つめ合った。
やがて美月は眉をひそめて、
「私、何か変なこと言った?」
「いや、そういうわけじゃなくてね、バードウォッチングって言うと断られるのかなって思ってたから。そんなあっさりオッケー出るとは思わなくて」
「ああ。なるほど」と美月は腑に落ちたらしく、
「雪菜、何回かバードウォッチングしたって言ってたじゃん? どんなのだろうって気になってたんだけど、なかなか誘ってくれないからさ」
「偏見ないの?」
「うん。たしかに私たちの年からすればめずらしい趣味だと思うよ。でも変だとは思わないよ」
「そうなんだ」
「あっ、でも、双眼鏡ないじゃん?」
「平気だよ。今日はカモやカモメが中心だろうから」
二人は信号を渡って海浜公園に入った。ヨットハーバー沿いの松並木を抜けて海に着いた。
「すっかり見慣れたけどさ、何年か前まで砂色の海岸だったの覚えてる?」
雪菜がきくと、美月は眼鏡のレンズを拭きながら、
「ああ。そうだね。たしか中一……のころだっけ? ニュージーランドだか、どっかの白砂に入れ替えられるって話題だったもんね」
入れ替え工事が終わったのはたしか夏の終わりだ。雪菜はそのときも美月と一緒に来た。
「はじめて見たとき、海岸が真っ白になっててさ、汚れが全部取れたようで感動しなかった?」
「そう? 私は、あまりに人工的すぎて気持ち悪いと思ったよ」
「え、そうだったの?」
海岸の感想なんてもっと前に話してもよさそうなものなのにと雪菜は思った。このように、同じものを見ても符号の異なる反応をしていたのが後でわかり、おどろくときがある。
この日、突堤には釣り人がぽつぽついたが、海岸は貸し切り状態だった。
雪菜は最近暇を見つけては野鳥図鑑を眺めたり、野鳥専門のSNSをのぞいている。シギやチドリなどバードウォッチャー泣かせの鳥は別にして、実際に見てなくとも、さっと名前を言えるくらいになっていた。
波打ち際に沿うように、ユリカモメが日浴びをしていた。気まぐれに集まったら円になりそうなものだ。しかし次に加わったユリカモメも、またその次の者も列を乱さずに並んだ。鷹に襲われた場合に備えるなど本能によるものだろうか、と雪菜は考えた。ずんぐりむっくりのユリカモメが、体操選手のように片足立ちしたり、水かきで頭をかく姿が愛くるしかった。彼女は群れの中に交じっているセグロカモメを見つけた。きっと仲間に入りたいのだろう。セグロカモメはユリカモメと比べて、大人と子どもくらい違う。遠くから見たら明らかに浮いているけれども、彼はしれっと同じ方向を眺めていた。
渚を西に進んで消波ブロックに着いた。磯の香りを強く感じた。
ヒドリガモが群れていた。ぷかぷか波に揺られて採餌する者もいれば、ブロックにこびりついた苔色の海藻をついばむ者もいた。ヒドリガモが水中に首を突っ込むと、ちょうどお尻だけが水上に現れた。美月はすっかり機嫌が直ったらしい。「タケノコみたい!」とはしゃいでいた。
野鳥観察する際、雪菜はある基準に従う。それは、あくまでも主役は鳥たちで自分は観察者にすぎないことだ。カラスやムクドリがよちよち歩きしたり、セキレイが走っていたら、驚かさないように立ち止まり、場合によっては遠回りする。
「雪菜って、こだわるとこはほんとこだわるよね」と美月はあきれた様子だったが、
「ドバトさんいるから避けようよ」と自分から言い出したり、
「あれ、なんていう鳥? え、ミユビシギ?……ああ、なるほど。指が三本のシギだからミユビシギ!」と質問したりと楽しんでいるようだった。
三十分ほど野鳥観察を楽しんだ。二人はベンチでひと休みした。
これまで雪菜には、十一月というとまだ秋というイメージしかなかった。そんな彼女にある変化が起きていた。和歌が好きになって二十四節気にも興味をもった。先日カレンダーを見たとき、「立冬」と書いてあっておどろいたものだ。この日は氷の粒子を含んだような風が頬を打ち、暦どおり冬が混じりはじめたように感じた。
空が茜色に染まり、雪菜の目にもはっきりと分かる速さで雲が流れていく。浜辺にわたる潮騒に耳を傾けながら、海面に現れる風紋を眺めた。
それにしても夕暮れを好きになったのはいつだろう。中学生になったあたりからその兆しはあったかもしれない。開花したのは百人一首に夢中になってからだろうか。雪菜はためしに美月にたずねた。しかし、彼女は質問の意味を取りちがえたらしい。「私は小学生のころだよ」と答えた。
二人はいつも一緒にいる。こう噛み合わない日も珍しくない。でもそれは自然な関係なのだろうと雪菜は思う。たしかに美月はよく秘密を打ち明けてくれる。しかし、自分は彼女をどれほど知っているのだろう。半分? そんなに多くない気がする。
雪菜は美月に百人一首の話をする際、表面的な知識にとどめている。逆に哲学の話になったら、美月も同じように手加減しているのだろう。美月の世界がどれほど広いのか、これからも知ることはできないだろうと雪菜は思う。
夕焼けが深紫の層を支えきれなくなった。マジックアワーだ。雪菜はベンチに押されたかのようにすっと立ち上がった。キリンのように余裕をもって見ていたはずなのに、美しさと儚さがない交ぜになった幻想世界に目を奪われた。
「ねえ雪菜……。こういうのを神秘って言うのかな」
「うん。きっとそうだよ」
雪菜が鼻歌を歌いながら制服の埃を取っているとスマホが鳴った。和子からだった。
「今、時間大丈夫?」
「はい。大丈夫ですよ」
「ええとね、毎年勝利さんと香織とクリスマスコンサートに行っているの。今年はコンフィル──あ、わかるかしら? コンヒタキ・フィルハーモニーを聴きに行く予定だったの。雪菜ちゃん、名前は知ってる?」
「はい。名前だけですけど」
雪菜は夏休みや年末に、コンフィルの広告を目にする。
「そういえば、雪菜ちゃん、子どものころ、合唱してたのよね」
「はい」
雪菜が合唱団に入っていたのは幼稚園のときだ。意味はわからずミサ曲を歌っていた。うっすらした記憶しかない。
「それでね、私たち、楽しみにしていたんだけど、香織に急用が入っちゃったみたいで、チケットが一枚余っちゃったの。それで、もし良かったらだけど、雪菜ちゃん一緒にどうかしら?」
「あ、そうなんですか。コンサートはいつなんですか?」
「急で申し訳ないけど、来週の木曜日なのよ」
和子の声がいつになく弾んでいるように聞こえた。雪菜はがっかりさせてはいけないと頭が働き、
「楽しみにしています」と答えてしまった。
電話を切ってからさっそくオフィシャルサイトを調べた。ドイツ語で書かれていた。雪菜がさっそく日本語翻訳をすると、こんなことが書かれていた──
『コンクール優勝者などの一流プレイヤーたちが奏でる奇跡のハーモニー』
自分のような、音楽に心得のない者が参加していいのだろうか。雪菜は不安になった。
やがて彼女の興味はコンサート代に移っていった。ディズニーランドのフリーパスくらいなら母の力も借りないといけない。でもコンサート代なんてせいぜい二、三千円だろう。まずは交渉してみて、もし断られたら、懐には痛いけれどお小遣いから出せばいいかと、雪菜は高を括っていた。
ところが彼女の目に飛び込んできた数字は想像だにしないものだった。なんとお小遣い六か月分である。
夕食の準備をはじめて、まもなく伊澄が帰ってきた。
「あら、鯖の味噌煮? おいしそうね」とか、
「駅で近藤先生に会ったのよ。覚えてる? あの年になると、男の人のほうが変わるものなのかしらね」と、仕事終わりと思えないほど饒舌に話した。
雪菜がさっそくコンサートについて相談した。
「あら、今度はオーケストラに興味でてきたの? 百人一首って言ったり、鳥って言ったり、本当にまとまりがないわねえ。──仕方ない。七條さんに出してもらうわけにはいかないから私が払うよ」
「よっ、セレブ! 総理大臣!」とはやし立てると、母は腰に手を当てて、
「任せなさい。いくらくらいするの?」
「S席が二万円を少し超えたくらいなんだけど……」
「えっ?」
また伊澄の強い声が返ってきた。雪菜は控えめに言って様子を探るつもりだったけれど、
「三万円!」と隠さず言った。
「はぁっ? そんなの払えるわけないでしょ。寝言を言うなら寝てきなさい。はじめてなんだから一番安いとこでいいでしょ」
「B席でも一万円するんだけど」
「断りなさい!」
普段の雪菜なら、さっき払ってくれるって言ったじゃんと文句を言うところだ。しかし、今回は値段が値段である。
素直に断りの電話を入れた。数コールで応答があった。お金がないからとやんわり断るつもりだったけれど、
「いいのいいの。お金のことなら気にしないで」
「そういうわけにはいきませんよ。私、アルバイトしていませんし、肩たたき券を発行するくらいしかできませんし」
「雪菜ちゃんとお出かけしたいの」
和子の声が空気が抜けた風船のようにしぼんだのがわかった。
「違うんです。私も本当は行きたいんです。でも、お金を考えるとですね」
「うーん……。そうねえ、」と和子は考えているようだったが、
「あっ、そういえば雪菜ちゃん。この間スマートフォンの授業してくれたでしょ。勝利さんとね、アルバイト代払わなきゃいけないね、って話していたの。それじゃあ、チケットのお金はその代わりでもいいのかしら?」
思いもよらぬ返答に、雪菜はすっかり困ってしまった。へどもどしていると、
「本当にお金の心配はいらないからね」と和子は念を押して、
「あっ、ごめんなさい。これからごはんなの」と電話を切ってしまった。
雪菜がうまく行かなかったと伝えると、伊澄は「えっ!」とまた声を張り上げた。母はこうなるのを予想していたはずだ。雪菜はそのわざとらしい反応にむっとしたが、ぐっとこらえて、
「だってさ、思ったより和子さんの押しが強くて……」
「だってじゃないわよ! お金についてはきちんと線引きしなさいって、何度も言ってるでしょ。どうするのよ」
「わかったよ。明日電話してみるよ」
「今すればいいじゃない」
「いろいろあるんだよ。和子さん忙しい人だし、私もごはん作らなきゃだし。電話かけろって言うならお母さんが料理代わってくれるの?」
「あんたの仕事でしょ!」と伊澄は怒鳴るように言った。
雪菜が鯖に煮汁をかけながら煮詰めていると、トントントンとせわしない音が聞こえた。ちらっと見ると、伊澄は椅子の背にもたれるように座り、指先で机を叩いていた。さっきまで笑顔だったのに、すっかり機嫌を損ねてしまったみたいだ。
しかし、雪菜はどうしてそこまで怒られるのかわからなかった。彼女はサンドウィッチのように、和子と母の間にはさまれてしまっただけなのだ。二人で話し合ってくれればすぐ解決することなのに。雪菜はそう思ったけれど、口には出さなかった。
その晩、彼女は『一冊でわかる物語百人一首』を読んでいた。ところが、母と口論した日は自分の部屋にいても落ち着かないものだ。一階から荒い音が聞こえるたび、籠に閉じ込められた小鳥のような窮屈さを覚える。すぐに解決したいけれども、経験上このわだかまりは明日まで解けなさそうである。
気が紛れる歌がないか探したら、六十八首目の三条院の歌が目にとまった。
──心にもあらで憂き世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな
(心ならずもこのつらい世に生き永らえたならば、きっと恋しく思うに違いない、今夜の美しい月を)
雪菜は以前、百人一首には悲劇の天皇が多く選ばれていると和子に教えてもらった。歌の背景を調べるうちに、百人一首歌人で一番不幸なのはこの三条院ではないかと思った。
内裏が二度も炎上した。治療をしたけれども、当時はその技術が不正確だったらしく、余計に視力が悪化した。物の怪にも憑かれた。さらに権勢をふるっていた藤原道長に圧されて孤立し、即位してからわずか五年で譲位を迫られた。
これらを踏まえて雪菜は歌を次のように整理した。「心にもあらで」「憂き世に」と苦しい状況のなか、それでもなお月を「恋しかるべき」ものと見る。繰り返し音読しているうちに、これは三条院が本心から詠んだものではなさそうだと思った。まだ月を鑑賞できる視力は残っている。しかし、じきにその月さえも見られなくなる。
身につまされる思いから雪菜は小窓をのぞいた。この日は満月だった。三条院が見ていた月も今夜と同じく、完全な円だったのだろうか。失意の中、もの言わぬ月とどんな会話をしたのだろう。
三条院の歌に、雪菜をつかんで離さない言葉があった。それは五句目の「夜半の月かな」である。彼女はほかの歌にも同じ言葉があったのを明瞭に覚えていた。紫式部の歌である。
──めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲がくれにし夜半の月かな
雪菜は本の目次に戻った。目次には百人一首の歌が一覧表のようにのっている。
たしかこの言葉は別の歌にもあったなと、彼女はひとつずつノートに書き留めていった。
「あっ!」と雪菜は声を上げた。一句まるまる同じもの、同じではないにせよ酷似しているものの使われる回数にはルールがあったのだ。意図せずに秀歌を選んだら、人気のある言葉は何首にも使われそうなものだ。しかし、百人一首では二首一組に限られていた。雪菜が数えたところ、同じ句が同じ場所で使われているのが十七組あり、一字だけ異なるのは三組あった。なんと四十首である。これは藤原定家の仕掛けた謎と見て間違いなさそうだ。
百人一首のミステリーに興奮しているうちに、母に叱られくさくさしていた気持ちはすっかり晴れていた。明日もう一度和子に相談してみよう。雪菜は明るい気持ちになった。




