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ホームパーティー当日になった。海秋沙駅の南口を出ると、夕空が鮮やかに染まっていた。涼しくなってヒヨドリが元気になったと雪菜は思う。「いーよ、いーよ」と励ますように鳴く者もいれば、ライバルに負けじと鳴き交わしする者までいた。百人一首を学んだおかげもあるのだろう、なおさら季節観が強くなったと感じる。
十五分ほど歩くと、胡桃色のマンションに着いた。外壁に映った夕陽は抽象画のようにぼやけて見えた。
エントランス前に砂利敷きの花壇があった。立派な竹が生えている。陽が落ちたらアッパーライトがきれいに竹を照らしそうだと雪菜は思った。
七條宅は三階の角部屋だった。光沢のある鉛白のネームプレートに「七條勝利・和子」と書いてあった。美月と「ああ、ここだね」と言いながらインターホンを押した。ドア越しに何かが倒れたような音とくぐもった声が聞こえた。
ドアが開いて出てきたのは、小太りでナチュラルボブの女性だった。亜麻色のニットセーターと藍色のデニムを着ていた。母と同じくらいだから五十すぎだろうかと雪菜は見た。
「七條香織と申します。お母さんから話は聞いてるよ。今日はよろしくね」
香織の足には子どもが二人くっついていた。以前和子が話していたひ孫だろうか。男の子は手かけ猿のように香織の袖をつかんで見上げ、女の子はコアラのように香織の足につかまって顔を半分だけ出していた。
玄関に入るとほんのりイグサの香りがした。
すりガラスのドアに人影が見えた。ゆっくり開いて和子が出てきた。
和子が子どもたちに「ほら、あなたたちもあいさつして」とうながした。男の子は香織から離れて「アサヒです」と元気よくあいさつした。女の子は指をくわえてのぞいていたが、雪菜と目が合うと、香織の足に顔をうずめた。
「ほらっ。名前は?」と香織が女の子の頭をぽんぽんと触った。すると女の子はちょこんと顔を出し、目は合わせずに「ユズハ……」と答え、また隠れてしまった。
ホールに上がった雪菜は、壁に飾ってある一枚の絵画が気になった。くすんだ真鍮の額縁に入っている。天の川のような星々の中、月面を背景にシャチが跳ねる絵だった。月光や水しぶきなど幻想的なシーンが写真のような筆致で描かれていた。
五時前に和子の教え子がやってきた。
一人は長谷川と名乗り、白髪まじりのおしゃれなオールバックで、すらっとした男性だった。ジャケットの下の杏子色のセーターがまぶしかった。
そしてもう一人はなんと山本先生だった。学校ではたいていスーツなので、こうして私服姿を見るのははじめてだ。空色のポロシャツに淡いスラックスと、雪菜の持っていた先生のイメージをくつがえす、さわやかな服装だった。
「先生、なんでここに」
「アホ。それはこっちのセリフだ」
雪菜がおどろきを隠せずにいると、
「雪菜ちゃんの先生って、やっぱり山本くんだったのね」と和子が言った。彼女は雪菜とはじめて会ったあの日、雪菜の口から「磯鴫高校」「山本先生」「古典」と出たのに、もしかしてと思ったらしい。
パーティーが始まったのはその後すぐだった。机の上にはラザニア、トマトとアボカドのシーザーサラダ、ローストビーフ、野菜たっぷりのテリーヌ、フランスパンが並んだ。
ムードメーカーの長谷川は陽気な人だった。ビールを飲みはじめてまもなく、
「トイレってどうして一人で行くのか知ってる?」と謎かけをして、
「思考と空想をするためだよ」と言ってみんなを笑わせたり、
「信じられないかもしれないけどさ、万有引力の法則って、質量と距離だけで決まるんだよ。だから理論上はね、このグラスとラザニアの間にも働いてるってわけ」と出し抜けに難しい話もした。
勝利と和子は雪菜と同じく、オレンジジュースやお茶を飲んでいた。
雪菜が「お二人はお酒飲まないんですか?」とたずねると、七條夫妻は顔を見合わせたが、雪菜の隣の和子が答えた。
「私が飲めなくなった日に、勝利さんも一緒に辞めるって言ってくれてね、それ以来飲んでないの」
「すごいですね。勝利さん、辞めるの大変だったんじゃないんですか?」
「うーん……。そうでもなかったかなあ。煙草を辞めたときもそうだったけど、みんな、意志が強いねって褒めてくれるんだよね。でも結局のところタイミングだと思うよ」
「へえ。なんか意外ですね」
「三日経つと体調が良くなったし、一週間もすればすっかり頭から抜けたものだよ。和子さんは飲んでいいよと言ってくれたんだけど、今までずっと同じもの口にしてきたわけじゃない? さすがに僕一人で飲む気にはなれなかったなあ」
和子がこっそりと言った。
「ちなみにね、勝利さんが料理はじめたのは、私が車いすになってからなのよ」
パーティーがはじまって一時間も経たないうちに、山本先生の顔は真っ赤になった。スキンヘッドだから顔面だけでなく後頭部まで染まっているのがわかる。
「やまーん、マッチ棒みたいだぞ」と長谷川が茶化すと、山本先生は自分の頭をパシン、パシンと叩いた。そのひょうきんな姿に雪菜は目を疑った。指導室で見慣れた先生と長谷川とふざけている先生のどちらが本当の姿かわからなくなった。
ラザニアはパスタよりもちもちした食感だった。チーズの焦げた薫り、ミートソースのこってりした風味が雪菜の食欲をそそった。
野菜のテリーヌはカステラほど大きさに切り分けられレタスに包まれていた。中にはトマト、キュウリ、パプリカがあり、そのあいだを寒天が埋めている。勝利が前日から仕込んだのだろうか。手の込んだ料理だった。
ローストビーフはぜいたくチャーシューみたいな厚さで、噛みごたえがあった。ソースはバーベキュー味と和風ニンニク味の二種類用意されていたが、子どもたちのせいでバーベキューソースはすぐになくなった。
雪菜は和子が食事に手をつけていないのが気になった。勝利が取り分けたラザニアやローストビーフ、どちらにも箸を入れた跡はあるけれど、香織や長谷川にきかれて「きちんと食べているよ。ありがとう」と答えるだけだった。雪菜が和子と一緒に食事するのはこれがはじめてだ。こってりした料理は体に負担があるのだろうか。
雪菜と美月が「満腹だね~」と休憩していると、アサヒがやってきた。アサヒは美月にきいた。
「どうしてつきなの?」
「名前のこと?」
美月がきき返すと、彼はこくりとうなずいた。美月はアサヒに向き直って、
「お月様を見たときみたいに、みんなが笑顔になれるためにだよ」
理解するにはまだ年端がいかないのだろう、彼はごまかすような笑みを浮かべた。
「アサヒくんはお月様すき?」と雪菜が口をはさんだ。
「たいようのほうがすき」
「どうして?」
「たいようはあかるくて、つきはくらいから」
美月が泣きまねをして、
「おねえちゃん、悲しいな」と言うと、アサヒは天使のような笑顔になって、長谷川に「なまえおしえて~」とききにいった。
宴もたけなわ。長谷川、山本先生、香織はお酒のせいか叫ぶように話していた。何を言っても許されそうな雰囲気だ。
「和子さん。山本先生は昔どんな生徒だったんですか?」と雪菜がきくと、
「私も知りたいです」と美月が便乗した。雪菜はさらに勢いづいて、
「私たちは真実を知りたいんです」
和子が「山本くん」と呼びかけた。先生は不意をつかれたようにお酒で赤くなった目を大きく開いた。
「話してもいいの?」
和子がたずねると、山本先生はあっさりと「はい」と答えた。意外な答えだったのか、和子は「そう?」と言ってゆっくりと話しはじめた。
「若かりし日の山本くんはね、リーゼント頭の、血気盛んな高校生だった。朝っぱらから血だらけで登校して職員室に連れていかれたり、よく警察の世話になったりと、とにかく目立つ生徒だったの。弱い者いじめを見過ごせないタイプで、自分をもっていたけれど、順序立てて話すのは苦手だったから、誤解されやすい子だったね。忍耐力はなかったかしら」
和子が山本先生にたずねるように言うと、先生は気恥ずかしそうに口をゆるめた。
「赤点取ったのに補習に出てこなかったり、ようやく出てきても途中で逃げ出すもんだから、彼をひっ捕まえて説教したり、放課後も課題が終わるまで居残り勉強させたの。時には取っ組み合いになって、ほかの先生に止められたのよ」
話しているうちに気持ちが入ったのだろう。和子は雪菜が大げさだと感じるくらいの手振りで話した。
「そんなこともありましたかね」
山本先生が頭をかいていると、アサヒが近寄った。
「ちからのつよいひとが、よわいひとをたたいちゃいけないんだよ」
「はい。勉強になります」
二人のやりとりに、どっと笑い声が起こった。
「夏休みではなかったと思うんだけど、とにかく暑い時期よ。職員室にいたら、山本くんが警察に補導されたって連絡があったの。普通なら引き取りに行くのは親御さんなんだけど、当時山本くんと折り合いが悪くてね。代わりに私が行ったのよ。部屋に通されたら、警察の人と山本くんが向かい合っていた。熊みたいな人でね、彼は、山本くんが相手を刃物で切りつけたなんて言うのよ。ワイシャツには血がついていないし、山本くんは否定もせず黙ったまま。だからすぐにわかった。誰かをかばっているんだな、ってね。事件になったらそれこそ将来に影響するでしょ。私はなんとかしなきゃって思って、『この子はそんなことしません!』と叫んだの。フフフ、なんか変よね。生徒はぶすっとして何も言わないし、教師は興奮しているんだもの。今思い出しても、その熊の人が困っていたのがおかしくて……」と和子は時折笑いをもらしていたが、
「その日山本くんを家に送り届けたのは夜遅くだった。やっぱり親御さんが怒って、家に入れてもらえなかったの。だからうちに連れてきて勝利さんと三人で話したの。学校では私が話しかけるたび『うるせえ!』と怒鳴るのに、勝利さんには、時間がかかりながらも自分の言葉で探していたからとても驚いた。でもいい機会でしょ? こんなチャンス、二度と来ないかもしれない。『嘘をつくなとは言わない。でもね、軽い嘘こそ、もっと大事なときに使いなさい』『あなたがどんな選択をしても私だけは味方でいるから!』とか訴えたかしらね。あんなに短い夜ははじめてだったなあ。ちょうどこんな感じよ。
──夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月宿るらむ」
美月が雪菜に小声でたずねた。
「誰の歌? どんな意味?」
「清原深養父って人。清少納言のひいおじいちゃん。『夏の夜はまだ宵だと思っているうちに明けてしまった。こんなに早かったら月は沈む暇がない。月はいったい雲のどこに宿っているのだろうね』という意味。夏の夜の短さを詠んだ歌」
「なるほど。ありがとう」
雪菜がふたたび和子を見ると、彼女はほほ笑んで、
「いいかしら? それから山本くんの謹慎が明けてしばらくよ。山本くんが私のところにやってきて、七條先生みたいな古典の先生になりたいから勉強教えてくれ、なんて言うのよ。あんなに反発してたのに何があったんだろうと思ったら、山本くんはこんなこと教えてくれたの」
雪菜には、大人たちのみならずアサヒやユズハも和子の話に引き込まれているように見えた。
「当時山本くんは暴走族に入っていて、上から理不尽な命令を受けて悩んでいた時期だったらしいの。山本くんは警察に真実を話しに行ったの。でもさすがに傷害事件でしょう? だから友人が捕まっちゃって、それがきっかけで山本くんはグループから追い出されてしまったの。そして山本くんはこう言ったの──『ずっと一緒にいようぜって約束したのに二年ももたなかったなんて、ほんと情けないよな。この間先生言ったろ? 古典って千年以上前の言葉なんだって。それってさあ、ほんとすごいことだよな』って。それまではこちらが身構えるくらいの目でにらんできたのに、この日は宝石のような目をしていたのを覚えているわ」
和子が山本先生に
「結局二年浪人したんだっけ?」とたずねると、先生はジェスチャーも交えて、
「はい。二年、予備校に通いました」
「青春のころの二年は長いでしょうけど、あなたにとっては特別な時間だったんじゃないのかしら?」
「そうですね……」と山本先生は虚空をながめて、
「私ももうじき定年ですが、寝食も忘れて何かに打ち込んだのは、あれが最初で最後じゃないですかね」
雪菜は和子の話を聞いて、また和子と山本先生のやり取りを見て、二人には二人だけの時間があったのだと知った。波間にたゆたう舟の上で、歩み寄ったりすれ違ったりしながら、長い間話をしてきたのだろうか。じんと胸が熱くなった。
和子の言葉がきっかけで山本先生が古典の道を志し、先生のおかげで今度は雪菜が百人一首に夢中になっている。それだけではなく、雪菜と和子は親しく付き合っている。それらがトライアングルのように共鳴し合っているのに、雪菜は因縁めいたものを感じた。
しんみりした空気を払拭するかのように長谷川が言った。
「やまーん。俺、何年も前から言ってたじゃん。優等生やるのも悪くねえぞ、ってさあ」
「ええ~。長谷川さんは優等生だったんですか?」と美月がまぜっ返すようにきいた。
「あったりまえよ。俺はすべての教科ね、優が一つだけじゃ足りなくて、三つか四つもらってたんだから。それに授業は全部、一番前の席で受けてたからね」
「全部ですか?」
「そうよ。国語も、算数も、体育も全部だよ」
「もう何からつっこんでいいかわからないんですけど」
長谷川と美月は流暢なやり取りをしていた。
雪菜の帰る時間が近づいた。アサヒとユズハが遊びに来た。ちびっ子たちはさっきから香織のグラスを倒したり、山本先生のおなかを触ったり、いたずらばかりしている。こらしめてやろうと、雪菜がお気に入りのお笑い芸人のモノマネをしたら、アサヒは「きんにく、きんにく」と大はしゃぎだった。ユズハもようやく慣れてきたようだ。アサヒと一緒に山本先生や長谷川のところに行き、「どっちなんだい?」「どっちなんだい?」と跳ねていた。




