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コンチェルト・ノスリを出ると、和子が振り向いた。
「雪菜ちゃん。時間大丈夫?」
コンサートは予定より早く終わった。おまけに、今晩の夕食の支度は母が代わってくれた。帰るには早い時間である。
「はい。大丈夫ですよ」
「それじゃあ、紅葉見て行きましょうか」
「はい。そうしましょう」
「懸巣坂」と書かれた石碑を越えて、ゆるやかな坂を上っていくと、十分ほどで高台にある公園に着いた。
モミジ、イチョウ、マツが公園を隠すように並んでいる。その三色が夕陽をまとう姿に、雪菜は感嘆のため息をついた。都会のあわただしさから切り離され、まるで時間が止まっているような場所だ。子どもたちがジャングルジムや滑り台で遊んでいた。犬のリードを引く男性はスマホばかり見ていた。
陽だまりの落ちている公園北側のベンチが空いていた。雪菜は車いすを隣に止めてそばに腰を下ろした。勝利は和子にブランケットを渡して、電話をかけてくると言って席を外した。
松葉と砂の混じり合った風の香りが遊びに来た。
芝生に一羽の鳥がいた。素早く歩いてはぴたっと立ち止まって胸を張り、数歩進んではまたビッと胸を張った。
「あの鳥は何かしら」
和子もその様子を見ていたようだった。
「ツグミですよ。かわいいですよね。冬鳥なので日本で越冬するんですよ」
「どこから来るの?」
「シベリアからですよ。来るのは十月くらいですかね。遅い子は翌年の五月くらいまでいるみたいですよ」
「へえ……。そんな遠くから」と和子は柔らかい目でうなずいたが、やがて思い出し笑いをするように、
「なんだか『だるまさんが転んだ』をしているみたいね」
「そうなんですよ! ツグミはこの動きが特徴で、冬鳥の中でも人気の鳥なんですよ」
「元気もらえたね」と和子は伸びをして、
「私の一番はツグミにしようかしら」
「それはいいですね」
「雪菜ちゃんの一番は?」
「私はミユビシギという鳥です。スズメよりひと回り大きい渡り鳥なんです。浜辺で群れになって、波と追いかけっこしているようにも見えて、とにかくかわいいんですよ。一日数十キロも走るらしく、『浜千鳥』とも呼ばれています」
「ああ。浜千鳥のことなのね」
和歌にくわしい和子は、すぐにわかったようだった。
「あっ、そうだ、和子さん。ミユビシギは春先までうちの近くの海岸にいると思うので、今度一緒に見に行きましょうよ! また私が車いす押しますから」
「そうね」
「約束ですよ?」
「楽しみにしてるね」
それから雪菜は和子とたくさん話をした。話題を探さずとも会話が咲いた。
話に夢中で気がつかなかったけれども、いつのまにか子どもたちの姿はなく、ハシブトガラスの声も聞こえなくなっていた。ベンチに座ったときに比べて、ジャングルジムの陰が伸びていた。
夕空を見上げると、紺青色と山吹色の二層に分かれ、その境目はグラデーションのようにぼやけていた。
見惚れていた雪菜を呼び戻すように和子が言った。
「雪菜ちゃんに話しておきたいことがあるの」
いつもの柔らかさの消えた、平面的な声だった。雪菜はとっさに和子を見た。
「はじめて私たちが会った日を覚えてる?」
「はい。たしか八月の、お盆を過ぎたあたりでしたよね。自然公園の池のほとりで、勝利さんとスイレンを見ていましたよね」
「うん。雪菜ちゃん、勝利さんがしゃがんでいたって言ったでしょ?」
「はい」
「あのときね、勝利さんと大事な話をしていたの。実は私ね、余命宣告を受けているの……。雪菜ちゃんに会ったのは、勝利さんにも自分の気持ちを打ち明けられなくて、会話も減っているころだった。でもあの日は勇気を出して伝えたの。もう命を延ばしたくない、長生きしたくない。……そう伝えたの」
雪菜の脳裏に、あの日うなだれていた勝利の姿がよみがえった。
「この年になるとね、昔、悩みを打ち明けた友人とも連絡を取るのが難しくなるの。まだ生きているのか、それすらわからない。ちょうどこんな感じよ。
──誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに
今までは、一日でも長く生きなきゃいけないと思っていたんだけど、だんだん私の中で考えが変わってね、治療をやめて残りの時間を自分らしく過ごそうと思うの」
雪菜はすぐに、和子が引いたのは藤原興風の歌だとわかった。みなまで言われなくても和子の気持ちを察するのは十分だった。一人、そしてまた一人と親しい人が亡くなっていく。誰を私の友人にしようか、残されたのは年老いた私と松だけだ。松の木は話しかけても答えてくれないのに……。
雪菜の鼓膜に「余命宣告」「命を延ばしたくない」「治療をやめる」などの強烈な言葉がこびりついた。視界がせばまっていくのがわかる。思考が止まったわけではない。余命はどれくらいなんだろう。そもそもなんの病気なの? 気になることはたくさんあった。しかし、無遠慮にたずねてもいいのだろうか。処理しきれないほどの思いが、大雨で水位の上がった川のように、雪菜の頭を打ちつけた。使っていい言葉が限られ、そこかしこに地雷が埋まっているようだ。
「勝利さんは……、勝利さんはなんて言ったんですか?」
「何も言わなかった。優しすぎるからつい我慢しちゃうんだろうね。もうちょっとがんばろうよと言いたかったんじゃないのかな。あの日勝利さん、『今日会った子、おもしろかったね。また会えるといいね』とだけ言ったの」
「私もまたお話したいと思っていました」
「こうしてクリスマスコンサートに来られるのは、もうこれが最後みたい……。だからあなたにもきちんと、さよならを伝えなきゃって思った。勝利さんと香織に相談したらね、香織が『私はいいから雪菜ちゃんと行ってきなよ』と言ってくれて。あの子、ずっとトランペットやっていたし、久しぶりのコンフィルだから楽しみにしていたはずなのにね。今日はみんなが私のわがままを聞いてくれた特別な日。あなたと一緒に来られてよかった」
雪菜にとってはまた訪れそうな一日だ。なのに、特別だと言い切る和子がいじらしかった。
「そんな……。私、これからも和子さんとたくさん話がしたいです」
「ありがとうね。最近はね、朝起きて体を動かす気力もなくて、隣から聞こえてくる勝利さんの声に耳を傾けるのでせいいっぱい。ちょっと前なら、なにくそ負けるものかって思えたはずなのに、いつからこうなっちゃったのかねえ……。私ね、ベッドから体を起こすのも、勝利さんに手伝ってもらわなきゃできないの。トイレだってそうよ、一人じゃできないの……」
雪菜は家でも学校でも、幾度となく介護の話を耳にした。年を取ると排泄が困難になるのも知っていた。ところが雪菜にとって、それはおとぎ話のような、架空の世界の話に過ぎなかった。勝利がしたあの介助を見て、そしていま和子の口から語られて、その現実ははじめて雪菜の世界で形を持ったのだ。
和子はつづけた。
「今まで何も考えずにできたのに、一つ、また一つとできなくなっていくの。そんな自分がいやになる日もあるの。だから急な知らせがあっても、雪菜ちゃんは驚かないでね。忘れられるのは寂しいけど、雪菜ちゃんには自分の人生を生きてほしい。私は雪菜ちゃんから大切なものを分けてもらった。ありがとうね。あなたに会えてよかった」
いつもにこにこしていた和子がそこまで思い詰めていたなんて知らなかった。ずっと一緒にいたのにどうして気づかなかったのだろう。いやもし気づいたとして、自分に何ができたのか。雪菜は頭のもやを払いのけるように、勢いよく立ち上がった。
「いやですよ! 私は和子さんのこと、絶対にあきらめませんから! だってまだわからないじゃないですか。これが最後みたいな言い方しないでくださいよ。言葉にしたら本当にそうなってしまいますよ。私にとって和子さんの存在は大きいんです。何かあったら驚くに決まってるじゃないですか。悲しいに決まってるじゃないですか! 忘れられるわけないじゃないですか!」
「ごめんね……」
和子は一度たりとも、もっとも直接的なあの言葉を使わなかった。しかし和子のそうした行動がかえって雪菜にその言葉を強く植えつけたのだ。
叫んだ興奮から手先がわなわな震えた。足に力が入らなくなった。糸の切れた操り人形のように、雪菜はその場にくず折れた。
「私……、和子さんみたいな古典の先生になりたいんです。勉強が思うように進まないって悩んでいた私に、音読がいいと教えてくれたじゃないですか。本だけではわからなかった歴史もわかりやすく教えてくれたし、いつも私の理解の一歩先の内容を教えてくれたじゃないですか。古典の世界ってこんなに広いんだってわかったのも和子さんのおかげだし、私もいつかは和子さんみたいな大人になりたいって思ったんです。私、頭悪いからなれるかわからないですけど、和子さんを見て『教師になりたい』って思ったんです。でも……。今の私には何もできません。和子さんにどんな言葉かけていいのかもわからないんです。もし私が大人だったら、和子さんの言葉をそのまま受け容れられるのでしょうけど、今の私にはそれができないんです。自分の正直な気持ちさえ伝えられなくて、もどかしくてたまらないんです。だからその……」
そして雪菜は思い出したのだ。あの車いすの世界を。あの息苦しい世界で一日一日重ねていくのは大変なのだろう。たった一日でいいからがんばろうと思うのでさえ、血反吐を吐くほどの苦痛を伴うかもしれない。雪菜は和子に感謝の気持ちしかない。しかしそれでも、勇気がなくて、生きてほしいと伝えられなかった。
「雪菜ちゃん、ありがとう。本当にありがとう。古典の先生になりたいの?」
「はい。山本先生のおかげで百人一首に夢中になって、和子さんと知り合ってたくさん話をしているうちに、もっともっと和歌が好きになって。それだけじゃないんです。和歌が好きになってから鳥も好きになって、世界が今までとは違うように見えてきたんです。たしかに私は毎日似たような生活をしているかもしれません。朝起きて高校に行って授業受けて、放課後は夕食の準備してそれ以外はだらだら過ごして……そんな生活の繰り返しですけど、それでもまったく同じなんて日、一日だって存在しないじゃないですか。見慣れた風景だっていつもとどこか違う顔をしていますし、なにげなく視線を逸らしたらそこには万華鏡のような世界が広がっているじゃないですか。今の私の世界は、ほかの人にも見てほしいくらい素敵な世界なんです。部屋の隅で体育座りになって泣いている人に見せたら、ふっと立ち上がって吸い込まれるように見てくれると思うんです。それがほんのわずかな時間だったとしても、いやなこと忘れるはずなんです。だから私は古典の先生になって、みんなのおかげで広くなったこの世界を、今度は私が伝えたいんです!」
和子が雪菜の頭をなでた。
「今の話、内緒にしてくださいね。私、とても不器用で、まわりの人よりも時間がかかるし、先生になれなかったらきっとみんなに笑われちゃうし」
「人より時間がかかってもいいじゃない」
和子の思いがけない言葉に、雪菜が反応できずにいると、
「ホームパーティーの日、山本くんの雪菜ちゃんを見る目は特別なものに見えたよ。違うのかなあ。雪菜ちゃんを優しく見守っているけど、あなたにすべて任せている。そんな目をしていた。そのときね、こう思ったの。私と山本くんがそうだったように、山本くんと雪菜ちゃんもいろいろあったんだろうなって」
ガーゼに血が広がっていくように、雪菜の目に涙があふれた。和子の顔がゆがんだ。その上に山本先生が浮かんだ。
「山本先生は古典については教えてくれるんです。でもそれ以外はヒントを言うだけで、あとは自分で考えろって言うんです。でも私が今の自分を好きになれたのは山本先生のおかげなんです。絶対にそうなんです!」
「きれいな服着てるんだから泣かないの」と和子は小さく笑った。
「さっきみんなに笑われるかもしれないって言ってたけど、そんなはずないでしょ? 雪菜ちゃんには味方のほうが多いんだから。あなたがいるとまわりが明るくなるの。あなたの知らないところで、感謝している人だっているはずよ。真っすぐに生きている自分を褒めてあげてね。さっきの言葉、とてもうれしかった。勝利さんにも内緒。私だけの宝物にする。本当にありがとう」
肌寒さを感じはじめたころにはすっかり薄暮になっていた。遊具の輪郭が暗がりにまぎれ、木々の隙間から町のネオンが見えた。
帽子をかぶったおじいさんが自転車を止めた。猫たちがやってきた。おじいさんが餌をばらまくと、猫たちは我先にと飛びついた。すべてを明かさない影絵の世界が無言で雪菜に寄り添ってくれるようだった。
「雪菜ちゃん、恋人はいるの?」
「いるわけないじゃないですか。最近はそういう気持ちも起こらなくて」
「あらあら。今の男の子たちは見る目がないのね」
「いえ、そんなこと……。和子さんはモテたんですか? あ、答えたくなかったらいいんですけど」
和子はふふっと笑いをもらして、
「雪菜ちゃんの秘密教えてもらったから、私のも教えてあげる」
「ほんとですか?」
「私ね、三人にプロポーズされたのよ。何十年も前の話だけどね」
「三人もですか。すごいです!」
「一人目は証券会社に勤めている人だった。『僕が養うから仕事辞めて家庭に入ってほしい』って言われたから断った」
「それはさすがにひどいですよ。もし結婚していたら、今ごろ『人形の家』みたいになっていましたよ。私たちは所有物じゃないですし、そんな生活、ぞっとします」
「そうよね。二人目はテレビ局に勤めていた人だった。私、猫を飼っていたのよ。ねえ、保健所に送られた犬や猫って、殺処分されるまでどれくらいか知ってる?」
「うーん。二、三週間くらいですか?」
「ううん。数日から長くても一週間なんだって」
「そんなに短いんですか?」
「そうなの。それがその子たちに残されている時間かと思うと、居ても立ってもいられなくなってね。保健所に行ってもらった子たちだった。引き取ったときにはかなりの年の子もいたから、すぐにぼけちゃって。深夜に騒いじゃうことがあったの。そのときよ、優しかった彼が『騒ぐなら追い出すぞ!』って叫んだの。こんな言葉使う人いるんだって、全身の血が音を立てて引いていくのがわかった。プロポーズされたのは、そのすぐ後だったかしらねえ。ほかには不満なかったんだけど、どうしてもその一言が許せなくて断ったの」
暗くて和子の目は見えなかったが、雪菜が気づくほど彼女は鼻をすすっていた。
「動物に冷たくする人は、自分より弱い存在を、平気で攻撃できる人なんですよ。きっと結婚したとたんに態度が変わって、家政婦みたいに扱ってくるんですよ。捨てて正解ですよ」
「そうね。そして三人目がとても変わった人だった。知り合ったのは友達の紹介だったんだけど、大学卒業してからお花屋さんでアルバイトをしていた人。まじめに司法試験の勉強してたかと思えば、久しぶりに会ってみると、やっぱり昔の夢を追いかけてジャズで食べていきたいなんて言うのよ。とにかくふらふらして心配だったんだけど、花で人を笑顔にしたいと思ったみたいでね、自分でお店を開いた人なのよ」
「ええっ、そうなんですか? まったく知りませんでした。あ、でも、なんていう名前のお店だったんですか?」
「絶対に笑っちゃだめよ?──『VICTORY』ってお店」
雪菜がこらえきれず噴き出すと、和子は
「笑っちゃだめっていったのに」と言いながらもどこか楽しそうだった。
「そして、お付き合いして三年目くらいだったかしらね、その人、急にまじめな顔して『ずっと隣にいていいですか?』って、たどたどしく言ったの。色気もないし、プロポーズかどうかすらわからないでしょ?」
「そうですよね」
「でも、どうしてかしらね。言葉ではうまく説明できないのだけど、ああ、きっとこの人なんだって思ったのよ」




