第四話 これが最後なのに
翌朝、腫れた目を冷たい布で押さえながら、ローゼリアは次の茶会を申し込む手紙を書いた。
彼を解放するための、最後の約束。
指定したのは、二人が何度も会った王都のサロン。
アルベルトは、約束の時刻より早く現れた。
いつも隙のない彼が、今日はひどく落ち着かない様子で手袋を外している。
ローゼリアの顔を見ると、その眉がわずかに寄った。
また自分に会わなければならないことを、煩わしく感じているのだろうか。
そう受け取ってしまい、胸の奥が軋んだ。
「ローゼリア様。先日の夜会では、急にいなくなられたので心配しました。具合が悪かったのですか?」
「……いいえ」
「では、俺が何か」
「アルベルト様」
このまま優しくされれば、決意が揺らぐ。
ローゼリアは彼の言葉を遮り、膝の上で両手を握った。
爪が食い込む痛みで、震えを押さえる。
「今日は、大切なお話がございます」
アルベルトの表情が固くなった。
給仕が紅茶を置き、部屋を出ていく。
扉が閉まる音を聞いてから、ローゼリアは顔を上げた。
最後くらい、きちんと彼の目を見て伝えたかった。
「アルベルト様。この婚約を、やめませんか?」
青い瞳が大きく見開かれた。
彼の顔から、見る間に血の気が引いていく。
「……なぜですか?俺が何か、あなたを不快にさせましたか?」
「いいえ。あなたは、いつもお優しい方でした」
「なら、なぜ」
掠れた声だった。
「悪いのは、私です」
「それでは分かりません。理由を教えてください」
アルベルトが身を乗り出した。
ローゼリアは逃げそうになる視線を懸命に留める。
彼に責任を負わせてはならない。
婚約解消を望んだのは自分なのだと、そういうことにしなければ。
「……面倒になったのです」
「面倒……?」
アルベルトの呼吸が止まった。
「はい」
「俺と会うことが、あなたにとって面倒だったと?」
傷ついた声だった。
ローゼリアの決意が崩れそうになる。
違う。
あなたと会える日だけが、私の喜びだった。
「そうです」
「嘘だ」
「嘘ではありません」
「では、なぜ泣いているんですか」
頬に触れる冷たさで、初めて涙に気づいた。
慌てて拭おうとしたけれど、次から次へと溢れてくる。
「……これで、あなたは自由になれます」
「自由?」
「もう、私の顔色を窺う必要もありません。体調を崩す私を気遣って、早く帰る必要も……好きな方に会うことを我慢する必要もありません」
「待ってください。一体、何の話をしているんです?」
「私があなたにとって面倒なのでしょう!?」
抑えていた声が、とうとう弾けた。
アルベルトが息を呑む。
「聞いたのです。王宮のバルコニーで……私を早く帰したあと、面倒で仕方がないと、おっしゃっていたでしょう?」
「違う。あれは」
「それに、私と別れたあと、いつも楽しみにしている方と会っているのでしょう?」
「誰のことですか」
「あなたの幼馴染です!昨日もお邸でお会いしたと、なんでも話してくださると、おっしゃっていました!」
最後まで言い終える前に、アルベルトが立ち上がった。
椅子が床を擦り、鋭い音を立てる。
今まで見たこともないほど険しい顔だった。
「彼女が、そんなことを……」
低く呟くと、アルベルトは出口へ向かった。
ローゼリアは動けなかった。
言い訳することすらなく、彼女を選ぶのだ。
分かっていたはずなのに、胸の奥が引き裂かれる。
「……どちらへ行かれるのですか?」
背に向けて声をかけると、アルベルトは足を止めた。
それでも振り返らなかった。
「彼女のところへ」
やはり、そうなのだ。
視界が涙で滲み、彼の背中さえぼやけていく。
最後まで、笑って送り出したかった。
けれど、もう何も取り繕えなかった。
「……これが最後なのに」
震える声がこぼれた。
「最後なのに、やっぱり私を置いて、その方のところへ行ってしまうのですね」
アルベルトの肩が揺れた次の瞬間、勢いよく振り返る。
「違う!」
彼はほとんど駆けるように戻ってくると、ローゼリアの前に膝をついた。
「違う。最後になんてしない。あなたを置いていくわけがないでしょう!」
「でも、今、彼女のところへ……」
「虚言を撤回させるためです!あなたに何を言ったのか確かめ、二度と近づかないよう告げるつもりだった!」
「……え?」
「俺は彼女と会っていません。昨日、彼女が母を訪ねて邸に来たことは事実です。廊下で顔を合わせましたが、話があるという申し出は断りました。あなたと婚約している俺が、ほかの女性と二人で会うはずがない」
「けれど、なんでも話してくださると……」
「ここ数年、まともに言葉を交わしたことすらありません」
アルベルトの声が震えていた。
ローゼリアの手を取った彼の指先は、初めて会った日とは違い、ひどく冷たい。
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