結の悪夢
「よし、そろそろ時間だ行くぞ」
私は手元の懐中時計を見下ろして呟く。残された滞在時間はおよそ二十六時間。バフォメットが住んでいる場所は家から十キロ程度の所にある。私達は変身し、ものの二十分でその距離を走破した。
「うわあ、凄いね」
香織が感嘆の声を上げた。目の前に聳えるのは石造りの堅牢な外壁だった。城から延ばされた城壁が城下街を抱き込む様にグルリと囲っている。
「バフォメットはこの中に?」
「ああ、街の最奥の城。その中の更に奥の謁見の間にいるはずだ。そして、謁見の間に一歩でも足を踏み入れれば即座に催眠に掛けられる」
五人が横一列に並び、それと向かい合って私は詳細を話す。すると、列から陽夏が飛び出し私を上目遣いに見上げた。
「ナあ、思ったんだけど。私達が眠っている間、バフォメットが攻撃してきたら不味くないか? 何も出来ないぞ」
「我々の内一人でも眠っていれば奴は不滅だ。もし戦闘の余波で眠っているものを刺激したり、殺してしまったら奴にとっても不利益になる。こちらからちょっかいを掛けない限りは戦闘にはまずならない」
「ん? えっと……あ、そっか!」
同じく理解が遅れていた香織に、凛が耳打ちすると一気に破顔して頷いた。それを見て透も陽夏に耳打ちしようとする。
「陽夏は大丈夫だぞ!」
「え、そ、そう?」
透は若干肩を落とした様に見えたが、すぐに表情を切り替えた。
「さて、皆んな。一昨日も言った様に、今回は勝つ事が目的では無い。あくまでも戦いの土俵に上がる事が目標だ。例えどんな悪夢であれ、気持ちを強く持てば目覚める事は難しくない。それでは、行くぞ!」
五人が揃って頷いた。
門を潜ると、退廃した町には灰が舞っていた。様々な様式の建物が建ち並ぶが、いずれも人の手を離れて久しいのだろう。その光景は物悲しく、そして、懐かしくもあった。
城の中も街とさほど変わらなかった。虫に食われて劣化したタペストリーや燭台を尻目に、薄暗い階段を登っていく。
広い廊下を進んでいくと細かく細工された観音扉が私達を待ち受けていた。
「この先だ。皆んな、心の準備はいいな?」
私はそれぞれの顔を見回して、扉に手を掛けた。それを開き、謁見の間でバフォメットと対面する。
筋骨隆々の人の体にヤギの頭が乗っかり、背中からはコウモリの羽が生えていた。しかし、私がその姿を拝めたのはほんの一瞬の事だった。
奴と目を合わせた途端に私の視界は黒一色で染め上げられた。
「お母さん」
——ルーク、か。
視線を落とすと、小さな男の子が私の顔を真っ直ぐに見上げていた。ルーク。私とハンスのたった一人の子。
「どうして? どうして僕を見殺しにしたの……?」
ルークは落胆を露わに眉目を歪めて、私に訴えた。
「お母さんは僕が嫌いだったの? 僕が何か悪いことしちゃったの?」
——いや、ルークは何も悪くない。
悪いのは全て私だ。肺炎で苦しむこの子に母として何もしてやれなかった。出来ることはあったのに。
「じゃあなんで!? どうして僕は死ななくちゃいけなかったの! 僕はもっとお母さんやお父さんと一緒にいたかったのに!」
——すまない……不出来な母親だった。恨みたいなら恨んでくれ。
「……ッ」
ルークは私の足元に駆け寄るとビスチェの裾にしがみつき、小さな手で叩いた。
「馬鹿! 馬鹿! お母さんの馬鹿!」
ルークの胸に渦巻く感情は七歳の語彙力では到底言い表せないのだろう。そんな悔しさからか息子の目には涙が溜まっている。
私はその場でしゃがみ、ルークの目線に高さを合わせた。
——でも、ルーク。君が私を恨もうと私は君を愛している。
「嘘だ! それなら見捨てるはずない!」
私が涙を拭おうと近づけた右手を、ルークが跳ね除けた。
——君がどう解釈しようが事実は変わらない。そして、だからこそ君やお父さんとの思い出が私を支えてくれている。
「……お仕事の為に、僕を見捨てるくらいなら、最初から僕なんか産まなきゃ良かったのに!」
——ルーク、
確かに、ルークの命に徹する事が出来ないなら産むべきではなかった。それは正しい。だけど、それでも私は後悔なんてした事はない。
——昔。大切な友達に会えなくて潰れてしまいそうだった私の心をハンス、そしてルークとの生活が癒してくれた。その時の暖かさは今も私の中にある。私はもう一生分の幸せを貰った。
私はルークの肩に手を回し強く抱きしめた。私の抱える暖かさが少しでも伝わって欲しかった。
——今の私は言わば残り滓の様な物だ。けど、雅達は違う。家族を持つどころか恋愛さえした事が無いだろう。そんなあの子達が成長して実力を身に付けるまで命に変えて守る。一人の犠牲も出さず勝つ為に。それが私の今の仕事だ。だから、見届けて欲しい。ルークを見捨ててまで優先した仕事で、お母さんが手を抜かないように。
私の腕の中でルークが首を横に振った。
「そんなの勝手すぎるよ」
——勝手な母親ですまない。いくら謝っても謝り足りないのは分かってる。だから、もしお母さんがそっちに行ったら。今度は私がルークの我儘をたくさん聞くよ。
「本当に? 絶対?」
ルークの胡乱げな青い瞳が私を見つめた。
——絶対だ。約束する。
私はルークを抱く腕から力を抜き、顔に笑みを浮かべた。タイムリープする前の菩提 結がどんな風に笑うかは覚えていないが、母親として自分がどう言う顔をするべきかは不思議な程、簡単に思い出せた。
「……お母、さん。お母さんだ!」
——ああ、当たり前だろう?
私の笑顔を見た為かルークは安心で口元を綻ばせる。
「お母さん、昔はもっと笑ってたのに」
——うむ。もっと笑った方がいいと思うか?
「う〜ん。お母さんが笑いたい時に笑えば良いと思うよ」
——そっか、そうだな。……ルーク、私は君を裏切った。
ルークは生前、一度として私の愛情を疑わなかった。そんな息子を私は見殺しにしたのだ。
——だけど、後一度だけ、信じて欲しい。
「……分かった。僕、待ってるから。お父さんと一緒に」
——ああ、ありがとう。心配せずとも、そう待たせはしないさ。
だから誓う。息子の命を捧げてまで立つこの戦場で、これ以上誰も、奪わせはしないと。




