第227話 逆流
夜だった。
フロンティアの灯は増えた。
人も、魔物も、難民も、そして新たな街区も。
だが、その灯の数に反して、夜は深く、静かだった。
ヒトシは簡素な執務室で地図を見ていた。
フェール、カーム、シッパル、ベスコ。
線で結ばれた街道。
人の流れ。
王国軍の位置。
――考えることは尽きない。
ノックの音。
「王……ウエスです」
ヒトシは顔を上げる。
「入れ」
扉が静かに開く。
ウエスは以前と同じ、いや――違って見えた。
背筋は伸び、視線は逃げない。
昼間までの「様子をうかがう目」ではなかった。
「遅い時間に申し訳ありません」
「構わない。どうした」
ウエスは一礼し、そして一歩前に出た。
「……改めて、お礼を」
「俺を……いや、私を、救ってくださってありがとうございました」
深く、深く頭を下げる。
ヒトシは黙っていた。
礼を求めたことは一度もない。
ウエスは頭を上げ、懐から小さな水晶を取り出した。
拳ほどの大きさ。
淡く、鈍い光を内包している。
「これは……」
「スラトム侯爵と繋がる通信水晶です」
ヒトシの眉がわずかに動く。
「……筒抜け、だったということか」
「はい」
ウエスは否定しなかった。
「ですが、今日で終わりにしたくて」
差し出される水晶。
ヒトシは一瞬、躊躇したが、受け取った。
ひんやりとした感触。
(……ただの魔道具だ)
そう思った、その時。
無意識に。
本当に、うっかりと。
ヒトシの中の魔力が、水晶へと流れ込んだ。
「――っ!」
ウエスが一歩踏み出す。
「まずい!!」
水晶を取り戻そうとした、その瞬間。
水晶が、はっきりと光を放った。
表面に、影が映る。
輪郭。
顔。
そして、聞き覚えのある、落ち着いた声。
『ウエス。やめたまえ』
空気が、凍った。
ウエスの動きが止まる。
水晶の中に浮かび上がったのは――
整った髭。
冷静な瞳。
余裕を崩さない微笑。
スラトム侯爵だった。
『昼間に奴隷魔法が解除された時点で、分かっていたよ』
静かな声。
責めるでも、怒るでもない。
『君がこちら側ではなくなったこともね』
ウエスの喉が鳴る。
『だから、この水晶が返ってくるのを待っていた』
視線が、水晶越しにヒトシを捉える。
『……そして』
一拍。
『ゴブリンキング・ヒトシ』
『こうして話せる時を、楽しみにしていた』
ヒトシも、ウエスも、言葉を失った。
王国の中枢。
辺境を束ねる侯爵。
その男が、予想以上に近くにいた。
ヒトシは、ゆっくりと息を吐く。
「……随分と、余裕だな」
『余裕がなければ、侯爵など務まらないさ』
スラトムは微笑む。
『それに』
『君がこの水晶に魔力を流す確率は高いと思っていた』
ヒトシは理解する。
(誘われた、か)
『安心したまえ』
スラトムの声は穏やかだ。
『これは罠ではない』
『ただの“逆流”だ』
「逆流?」
『情報は、一方通行とは限らない』
『フロンティアは私を見ていた』
『今度は、私が君を見る番だ』
ウエスが絞り出すように声を出す。
「侯爵……私は……」
『責めるつもりはない』
即答だった。
『君はよくやった』
『そして――よく、選んだ』
ウエスの目が見開かれる。
『ヒトシ』
『君は面白い』
『奴隷を解放し、街を作り、人を集め、思想まで変えようとしている』
『普通なら、もっと早く潰れている』
ヒトシは答えない。
スラトムは続ける。
『だから、確認したい』
『君は王国の敵か?』
重い問い。
ヒトシは、水晶を握ったまま答えた。
「俺は、誰かの敵になるつもりはない」
「ただ――」
一瞬、言葉を選ぶ。
「俺の国を、壊そうとするなら、守る」
スラトムは、満足そうに頷いた。
『なるほど』
『やはり、想定通りだ』
水晶の向こうで、スラトム侯爵は静かに微笑んでいた。
勝ち誇るでもなく、嘲るでもない。
ただ、すべてを見通した者の表情だった。
『……そういえば、だ』
その声が、わずかに低くなる。
『フェール、カーム、シッパル、ベスコ』
『四都市を“一気に解放した判断”だが――』
ヒトシは黙っていた。
水晶を見据えたまま、何も言わない。
スラトムは気にした様子もなく、言葉を続ける。
『君の案ではないだろう?』
空気が、張りつめる。
ウエスが息を呑んだ。
ヒトシの背後で、誰かが小さく身じろぎする気配。
ヒトシは――答えなかった。
沈黙。
それ自体が、肯定でも否定でもある沈黙。
スラトムは、ふうと息を吐いた。
『やはり、な』
『正直に言おう。あれは――』
少しだけ、言葉を選ぶような間。
『愚策だ』
その瞬間。
――ざわり。
ヒトシの内側で、何かが跳ね上がった。
『君らしくない』
スラトムは淡々と言い切る。
『君は本来、もっと慎重だ』
『一つずつ潰し、状況を固め、逃げ道を塞ぐ男だ』
『殲滅魔法を知った君が』
『“同時多発的に挑発する”など、普通は選ばない』
水晶越しに、視線が鋭くなる。
『だから私は考えた』
『誰の声を聞いた?』
ヒトシの指が、わずかに動いた。
その瞬間――
「おい」
低く、荒い声。
《魔剣の声》が、むき出しの感情を伴って響いた。
「今、俺のことを言ったか?」
スラトムは、初めて目を細めた。
『……なるほど』
『やはり、か』
ヒトシが、低く言う。
「黙れ」
《魔剣の声》は止まらない。
「は? 黙れだ?」
「四都市を救ったのは事実だろうが」
「奴隷は解放された」
「王国の喉元に刃を突きつけた」
「何が不満だ?」
スラトムは、静かに首を振った。
『結果の話はしていない』
『“選択の癖”の話だ』
『力がある者ほど』
『自分の衝動を“正義”と勘違いする』
その言葉に、ウエスの肩が震えた。
『ヒトシ』
スラトムは、名を呼ぶ。
『君は今、二つの王の間に立っている』
『“選ばせる王”か』
『“導いているつもりで、押し付ける王”か』
《魔剣の声》が、苛立ったように舌打ちする。
「だから俺が言ってるだろ」
「迷うくらいなら、焼き払えって」
「正義も、秩序も」
「後から付いてくるもんだ」
ヒトシは、ゆっくりと息を吐いた。
「……違う」
その声は、静かだった。
「俺は、あの四都市を」
「“従わせた”つもりはない」
「選択肢を出しただけだ」
《魔剣の声》が嗤う。
「言葉遊びだな」
スラトムは、わずかに口角を上げた。
『いいや。そこが君の最大の強みだ』
『だからこそ――』
一拍。
『その“声”を、私は危険だと思っている』
水晶越しの視線が、ヒトシの胸元を射抜く。
『力は借りてもいい』
『だが、判断まで預けるな』
『それを誤れば、君は』
『ナラカイム王と、同じ場所に立つ』
沈黙。
《魔剣の声》が、初めて言葉を失った。
ヒトシは、目を閉じる。
短く、しかし確かな沈思。
「……忠告として受け取っておく」
スラトムは満足そうに頷いた。
『それでいい』
『では、また会おう』
『次は――盤上で、だ』
水晶の光が、すっと消える。
夜の静けさが戻った。
ウエスが、恐る恐る口を開く。
「王……」
ヒトシは首を振る。
「いい」
そして、胸の奥でくぐもる声に向けて、はっきりと言った。
「俺は選ぶ」
「お前は、助言役に戻れ」
《魔剣の声》は、しばらく黙っていた。
やがて、低く笑う。
「……面白くなってきたじゃねぇか」
逆流は、始まったばかりだった。




