第216話 王国の正義
玉座の間に、怒号が響いた。
「許せん……!」
ナラカイム王は、玉座の肘掛けを叩きつける。
硬い音が石の広間に反響し、居並ぶ重臣たちは一斉に身を固くした。
「ベスコを諸共に消し飛ばしたはずだ!」
「それがどうだ、ヒトシは生きている!」
「それどころか――シッパルも、カームも、フロンティアに取り込まれたと聞く!」
吐き捨てるような言葉。
その一つ一つに、王の苛立ちが滲む。
地図が、後退している。
王国の地図が後退するなど、百年ぶりだった。
国境線は、王国の威光そのものだ。
それが、魔物の王――ゴブリンキングの出現によって、削られている。
「なぜだ……」
「なぜ、魔物を人と対等に扱わねばならぬ!」
王の声は、憤怒というより、拒絶に近かった。
「奴隷解放だと?」
「秩序を壊す者を、正義として称えるだと?」
「そんな世界があってたまるか」
沈黙。
誰も口を開かない。
王は続ける。
「奴隷制度とは、弱者を守るための仕組みだ」
「力なき者が、勝手に滅びぬようにするための“管理”だ」
「それを壊すということは――世界を混乱に陥れるということだ」
視線が、宰相へ向けられる。
「スラトムは、何をしている」
宰相は一歩進み、頭を下げた。
「侯爵は……動いておりますが」
「フロンティアの影響力が、予想以上に――」
「言い訳はいい!」
王は遮る。
「手際が悪い」
「だから、こうなる」
再び、沈黙。
ナラカイム王は、ゆっくりと息を吐いた。
怒りの熱が、少しずつ引いていく。
そして――
その顔から、激情が消えた。
「……いや」
低い声。
「違うな」
王は、背もたれに深く身を預けた。
「怒りの上に、正義はない」
その言葉に、重臣たちは息を呑む。
王は、ようやく“王”の顔になっていた。
「我々がすべきは、感情的な報復ではない」
「世界に向けて、正しさを示すことだ」
視線が、玉座の間に掲げられた大陸図へ向けられる。
その一角――ベスコ。
「……ベスコの件は」
「フロンティアの星にしよう」
ざわり、と空気が揺れた。
「殲滅魔法の真相は伏せる」
「魔物の王が、街を破壊した」
「市民は、無残にも命を落とした」
「我々は――」
「哀しむ側に立つ」
王は、静かに宣言する。
「王国をあげて、ベスコ市民の追悼を行え」
「全都市に通達せよ」
「鐘を鳴らし、祈りを捧げ、涙を流せ」
「正義は、剣ではなく――物語で作る」
重臣たちは、理解した。
これは戦争ではない。
これは、世論の戦いだ。
「フロンティアは、奴隷を解放した」
「それは、甘美で、危険な力だ」
「ならば我々は」
「“自由の代償”を、彼らに背負わせる」
王の目が、冷たく光る。
「魔物と共に生きるという選択が」
「どれほど多くの命を奪うのか――」
「それを、世界に示せ」
玉座の間に、命令が落ちた。
その瞬間、
ナラカイム王国は、再び“正義”を装った。
スラトム侯爵は、王城の回廊を一人歩いていた。
重厚な石壁。
磨かれた床。
王国の威厳を示す装飾の数々。
それらを眺めながら、彼は小さく息を吐いた。
「……相変わらず、やることが汚い王だ」
誰に聞かせるでもない独り言。
殲滅魔法。
その責任を魔物に押し付け、
追悼という名の“正義”で世界を塗り替える。
(だが――)
スラトムは立ち止まり、窓の外を見た。
遠くに見える街並み。
王国が守ってきたはずの領土。
「これは効く」
認めざるを得なかった。
フロンティアに対してだけではない。
王の策は、フロンティアの内側にも刃を向けている。
奴隷を解放した。
人と魔物を同列に扱った。
それは理想であり、同時に――不安の種でもある。
(人は、自分が“正しい側”だと信じたい生き物だ)
王国が泣き、祈り、弔えば、
フロンティアは問われる。
――本当に正しかったのか?
――その選択で、誰かが死んだのではないか?
「……私の作戦との相乗効果は、高いな」
スラトムは静かに呟く。
彼自身もまた、動いている。
市民感情を揺らし、
都市内部に亀裂を入れ、
“選ばせる”準備をしている。
王の正義は、
その下地として、あまりにも優秀だった。
「皮肉なものだ」
スラトムは、苦笑する。
自分は王国のやり方にうんざりしている。
だが、今この瞬間、
その“汚さ”を利用しない理由もない。
「ナラカイム王の正義に、従おう」
それは忠誠ではない。
同意でもない。
ただの、選択だった。
(フロンティアが生き残れるかどうか――
それは、あのゴブリンキング次第だ)
スラトムは再び歩き出す。
王の描く大義。
自分の描く現実。
そして、ヒトシの選ぶ未来。
三つが交わる場所で、
次の局面が始まろうとしていた。




