第215話 内側から崩れる
シッパルは、割れていた。
フロンティアの名が掲げられ、
奴隷魔法が解かれ、
王国軍が街から姿を消しても――
街の空気は、軽くならなかった。
むしろ、重く、澱んでいた。
「……おかしいだろ」
小さな声が、路地裏で漏れる。
「急に“自由だ”とか言われてもよ」
「俺たちは、何をすりゃいいんだ?」
解放された元奴隷たちは、戸惑っていた。
解放された“元市民”たちは、苛立っていた。
そして、その溝を――
誰かが、丁寧に、広げていた。
夜。
シッパルの裏通りにある、小さな酒場。
客は少ない。
だが、耳は多い。
「聞いたか?」
「フロンティアに従えば、王国に逆らうことになるらしい」
「そりゃそうだろ」
「王国は正義だ。秩序だ」
「魔物に従うってのは、どう考えても異常だ」
男たちは、知らぬ間に同じ話題を繰り返す。
そこに、一人の“旅商人”風の男が口を挟む。
「だがな」
「ベスコを見たか?」
一瞬、空気が凍る。
「あれは……仕方なかった」
「王国の殲滅魔法だ。不可抗力だろ」
男は、わずかに首を傾げる。
「本当に、そうかな?」
「フロンティアが余計なことをしなければ」
「あそこまで事態は悪化しなかったんじゃないか?」
言葉は、毒のように染み込む。
誰も、反論しない。
その“旅商人”は、
夜が更けると姿を消した。
別の場所。
簡素だが警備の整った屋敷。
スラトム侯爵は、窓辺に立っていた。
遠く、シッパルの街明かりが見える。
「……ふぅ」
ため息。
「ここから市民感情を焚き付けても」
「ナラカイム王国が有利になるわけがないか……」
独り言。
机の上には、簡易地図。
赤と青で塗り分けられた勢力図。
フロンティアは、確実に力を持ち始めている。
正面から潰すには、代償が大きすぎる。
「やるしかないわけだが……」
侯爵は、苦い顔をする。
「大体、殲滅魔法を撃った本人が」
「この尻拭いをやるべきでは?」
視線は、王都の方角へ。
怒りというより、呆れに近い。
「正義、正義と掲げて」
「街一つ消し飛ばしておいて」
「その後始末を、全部こちらに押し付けるとはな……」
だが、口には出せない。
スラトムは知っている。
王国の“正義”とは、
責任を取らないための装置であることを。
「……だから、壊すなら中からだ」
彼はそう結論づけた。
翌日。
シッパルの広場で、口論が起きた。
「だから言っただろ!」
「フロンティアに従えば、こうなる!」
「何がこうなるだ!」
「王国軍が戻ってきたわけでもない!」
「でも、噂が出てる!」
「王国は、フロンティアを敵視してるって!」
「次に殲滅されるのは、ここかもしれない!」
声が大きくなる。
元奴隷の若者が、震える声で言う。
「……俺たちは」
「また、捨てられるのか?」
その一言で、火がついた。
「縁起でもない!」
「お前らが騒ぐからだ!」
「違う!」
「元はと言えば、俺たちを奴隷にしてたのは誰だ!」
殴り合い。
止める者はいない。
誰かが叫ぶ。
「フロンティアを追い出せ!」
「そうすれば、王国は戻ってくる!」
別の誰かが叫ぶ。
「違う!」
「フロンティアがいなければ、俺たちは今も鎖だ!」
混乱。
その様子を、
屋根の上から静かに眺める影があった。
――スラトム侯爵の配下。
「……予定通りだな」
誰も、命令されたわけではない。
ただ、“不安”と“恐怖”を
正しい方向に転がしただけだ。
夜。
スラトム侯爵は、報告を聞き終え、静かに頷いた。
「死者は?」
「今のところ、軽傷のみ」
「上出来だ」
彼は椅子にもたれかかる。
「フロンティアは、剣で街を守れる」
「だが、人の感情までは守れない」
「王国は剣を振るう」
「フロンティアは選択を迫る」
「……そして、人は」
「選択を、最も恐れる」
窓の外を見る。
シッパルの灯りは、まだ消えていない。
「さて……」
「ゴブリンキングよ」
「君は、この“内側の戦争”をどう裁く?」
その問いに答える声は、
まだ、届かない。
だが――
確実に、次の衝突は近づいていた。




