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第三章 第一節


          第三章


 

           第一節



                一



「とばねき」の死から三千五百余りの月日が流れた。

黒の赤子の西の指、そこで「極楽貪主」の「呆蝶宴(ほうちょうえん)」は変わる事なく続いていた。

「とばねき」の死を今この瞬間、(いた)むものはすでにいない。

ある者は忘れ、ある者は知らず、ある者は時折思い出しその記憶を懐かしむ、それはすでに過去の記憶の中に埋もれていた。


「ゆかちゃん?」


霆燕(じょうえん)」の声に、ゆめはふと我に返った。

そこは「霆燕」の住まう御殿の一角。

初めて出会った頃と、ほとんど変わらぬ姿をしている。

ここ御殿の建物は、自ら朽ちる事を知らない。

多少の傷なら数百年後には消えてなくなる。

樹木のように生きる、けれど決して成長する事のない「不変」を基調とする不思議な建物であった。


ゆめは「霆燕」に視線を映す。

「霆燕」も初めて出会った頃と、ほとんど変わらぬ姿をしていた。

変体術を心得ているからという訳ではなく、本当に成長が緩やかな種なのであろう。

しかしその砕けた顎は決して治る事なく、変わらず醜く歪んでいた。


「どうしたの?ゆかちゃん。

元気ないね。」


「ん……久しぶりに、「とばねき」の事思い出してたんだ。」

「「とばねき」?……えっと…・…誰だったかな?」

「霆燕」のその表情には嘘が無かった。

二千年程前のゆめだったらそこで絶交していた事だろう……。

しかしゆめはそれを小さなため息一つで許していた。

それだけ時が流れたという事なのであろう。


―――――――――私ももう……今では「とばねき」の顔をはっきり思い出せない…。


時の流れはゆめの心の傷を確実に癒してくれたが、同時にゆめの心の記憶も薄れさせていた。

ただの下女の一人である「とばねき」は生前姿絵などを遺した事はなかった。

特に文字を遺すでもない。

変わりゆく人々の心の中で「とばねき」の色は確実にあせていっていた。


――――――――ごめんね……「とばねき」…。

        もう…・…よく思い出せない。


「ねぇねぇ、ゆかちゃん。

それで誰なの?その「とばねき」って人。」

「……「露歩き」位私が好きな人。」

「えっ!……何その人!

何処の人?いつの間にそんな人が……ねぇ!」

「……「霆燕」には教えない。」

ゆめはいっと歯を出して「霆燕」に答えた。

「霆燕」が幾分傷ついた顔を見せる。

何となくおかしくなってゆめは笑った。



――――――――そう…・もう今では笑ってしまえる。

        私の心、随分変わっちゃった。

        ここはいつも同じような感じの所だけど、それでも私は変わっていく。



――――――――いつまで私は変わっていくんだろう…。



「ねぇ、ゆかちゃん。」

「何?「霆燕」。」

「私のお嫁さんになっておくれよ。」

「またそれ言う~。」

「……本気だよ。」

「霆燕」の声から余裕が消えている。

長年「霆燕」を見てきたゆめにはすぐにそれがわかった。

ゆめもその表情から笑いを消した。


「何かあった?「霆燕」。」

「………あった。

私はもうすぐここを出ていかなければならない。」

「えッ!何で…!」

「……飽いたのだって、私の事。」

かすれた声が「霆燕」の喉元から紡がれる。

隻眼の美しい瞳に惑いはなく、それはもう覚悟を決めた色を見せていた。

ゆめはただ何も言う事が出来ず、息を飲んだ。


――――――飽いた………。


それはよく「極楽貪主」が呟く言葉であった。

そう呟かれた物や者は、それ以上ここにいる事は叶わない。

何処かに売り渡されるか、御魂を食われるか、そのどちらかだった。


―――――――シハ、コワイ


「………それじゃ…どうなるの?」

不安げなゆめに対して「霆燕」は瞳だけで優しく微笑んだ。

「命はあるよ、ただ売られてしまうだけ。」

「そ、そっか…。」

ゆめはほっと胸をなでおろした。

視界が突如陰りを見せる。

ゆめがふと顔を上げるとすぐ目の前に「霆燕」の顔があった。

「「霆燕」……。」

「だからね、私のお嫁さんになってほしい。

私と一緒に生きてほしい。」


「お願いだ。」


――――――――………私、本気で告白されてる


目の前の「霆燕」の瞳は真っ直ぐゆめの瞳を捕えている。

全くぶれないその瞳は、明らかに本気である事を告げていた。


「わ……私は……。」


――――――――…「霆燕」は好きだよ。

         ちょっとだけど、男の人として好き。

         勿論一番は「露歩き」だけど…。

         でもこんなに本気で思ってくれてんだし…・・。

         「霆燕」となら幸せに――――――――


―――――――――「縁」……・。


―――――――――「縁」を断ち切って??


―――――――――「さき」や「くるり」を置いて??


―――――――――「霆燕」の為に今までの私を捨てて?


―――――――――「縁」に生きてる私が「縁」を捨てる?それは…・・・


――――――――――それは一度死ねという事?


――――――――――シハ、コワイ


「わかった、ごめんね。」

「ぇ…・・。」

気づけば目の前の「霆燕」はその手を伸ばし、しっとりとした指先でゆめの頬を拭っていた。

「あ…・・・。」

ゆめは涙していた。

心は酷く静かなのに、涙だけは流れている。

心のとても深い所が傷ついた証であった。

そしてそれは一つの事実を示していた。


ゆめはどうあっても「霆燕」と共に生きる事は出来ない。


「うぅん!待って!

違うの!「霆燕」の事泣く程嫌いとかじゃなくて…・・。

私、私「縁」で結ばれてるから…・・・。

だから、皆と別れるのはッ……出来なくてッ…・・。」

「うん、わかった、大丈夫。

困らせてごめんね、ゆかちゃん。」

ゆめは両手で顔を覆って涙した。

そっと優しく「霆燕」の腕がゆめを抱く。

常に歌姫を演じている「霆燕」の衣は、女性のように優しく甘い匂いに満たされていた。

けれどその衣の下から感じる腕の感覚は力強く、それが男性である事を告げていた。


「ごめん……・ごめん…ね。」

「大丈夫、私が無理を言っただけだから。

ゆかちゃんは「縁」で生きてるのだから、それは仕方ないよ。」


「そう……仕方ないよ。」

「霆燕」のかすれた声は、その心の色そのもののようにゆめには思えた。

「「霆燕」……。」

「あ、ゆかちゃん。

私の事は嫌いではないんだよね?」

「勿論だよ!大好き!」

「ではさ……。」


「一度だけ、接吻してもいい…?」

「霆燕」は泣きぬれたゆめの顔からその手を引き離しゆめの顔を覗き込んだ。

突然の事にゆめは瞳を丸くした。

そしてその言の葉の意味を悟り頬を染めた。

「霆燕」がやんわりと瞳で微笑む。

「…・それは…。」

「お願い。

私にこの気持ちの想い出だけくれないかな。」


――――――想い出…・…。


「恥ずかしくないよ。

ほら、私の顎は鉄で出来ているし。

冷たいだけで何も感じない。」


「本当に残念だけれどね……それでも……。」


「強い気持ちを私の心に遺しておきたい。」


―――――――心に遺す……。


「うん…・。」


「うん、わかった……。いいよ。」

「有難う……。」

そういうと「霆燕」はその醜い顔をゆめの顔に近づけた。

ゆめの唇に冷たい鉄の感触が染みわたる。

しばしそうしていた。

ゆめがそっと目を開くと、「霆燕」の綺麗な睫毛が目の前に広がる。


「ッ……!」


何となく気恥ずかしくなったゆめから、その時の終わりを告げていた。

「霆燕」が静かに瞳を開ける。

「温かかった…・。有難う。」

「そ…・・そう?でも……」

言葉を続けようとするゆめに対し、「霆燕」がゆっくりと首を振る。

そして自分の胸元に手を添え、しゃがれた声できちんと呟いていた。

「うん、とても温かくなった。

これで私は次の所でもきちんと生きていける。

この気持ちは決して忘れない…。」


「忘れない……。」



――――――――気持ちは忘れない……。


――――――――「とばねき」の顔はもうはっきり覚えていない。


――――――――でも私も気持ちは忘れてないよ。

        「とばねき」が髪を梳いてくれた時のあの気持ち。

        「とばねき」が一緒に添い寝してくれた時のあの気持ち。

        「とばねき」を本当に怒らせてしまった時のあの気持ち。


――――――――一つ一つは弱いけれど小さな小さな温かい気持ちが積み重なって、ちゃんと私の中にも生きてるよ。


「元気でね、「霆燕」。」

「うん、ゆかちゃんも元気で…・・。」


「きっと幸せになっておくれ。」


そう言葉を遺した「霆燕」は、次の宴休みの間にひっそりと車に揺られて見知らぬ地へ向かったという。



          

                二


―――――――――私が私を呼んでいる。


―――――――――怖い私、死を纏った私。


―――――――――必死の形相で私を掴もうとする。

          私はそれを必死で拒絶する。


―――――――――掴まれたら私も死んでしまう。


―――――――――だから私は逃げる。

         どこまでもどこまでも逃げる。


―――――――――けれどどこまでもそこは真っ暗で。

         進めば進む程にその深い闇に堕ちていく感覚が広がって……。


―――――――――私の形が消えていく。


―――――――――消えるのは怖い。


―――――――――消えたらそれは死んでしまうと同じ事。


―――――――――消さないで、消えないで。


―――――――――誰か私をッーーーーーーーーーーーー


「ゆめ……?」

「さき」の冷たい声にゆめは目を覚ました。

息が荒い。まるで全速力で走り抜けたかのような疲労感がゆめを襲った。

とてもこれまで寝ていたとは思えない。


「どうしたの?ゆめ。」

宵闇の光に照らされて銀髪が白く輝く「くるり」の頭もすぐそばで様子を窺っている。

そこでゆめは今自分が寝ていた事、そしてここは御殿の中の一つの寝殿である事に思い至った。

「ひどくうなされていたな…。

大丈夫?」

「さき」のひんやりとした手の平がゆめの額を覆う。

ゆめはその気持ちよさに心を澄まして瞳を閉じた。

「怖い夢だったの…。」

「どんな夢?」

幾分優しく「さき」が先を促した。

ちなみにこの一室には「くるり」と「さき」しかいない。

「露歩き」は隣りの部屋に床を敷いていた。

しかしおそらく今のやりとりを聞いている事だろう…。


「私が私を殺そうとするの…・・・。

ずっとずっと追いかけてきて、でも逃げて……ずっとずっと逃げて……。」


「そしたら起きて、ここだった……。」


ゆめはぼんやりと夢から覚めるまでの事を「さき」に語った。

「さき」がゆめの額からその手を離す。

その動きと同時にゆめは瞳をそっと開けていた。

「「とばねき」が死んでからしばらく見ていた夢だな…。」

「…うん。」

ゆめは小さくうなづく。

そう、「とばねき」が死んでからしばらく、ゆめはこの自分にとり殺されそうになる夢に何度も何度もうなされていた。

しかしそれもしばらくしたら見なくなっていたのだが…・・。


――――――そう……見なくなったのに…。

      今頃、どうして?



「夢は夢だ。気にするな。」


「夢は……夢…。」

「ゆめ…。」

ゆめと「くるり」がぽつりと呟く。

「もう寝よう。

もうすぐ奉公も始まる。

今休んでおかなければ良くない。」


「うん…。」


皆がそれぞれの床に戻った。

静かになった夜の寝室は動揺するゆめの心の熱を静かに冷やしていった。


――――――もうすぐ奉公…・



ゆめはあの長閑な茶屋を想い浮かべた。

そしてそこに至るまでの奇異な道筋を……。

今回はまた「丸嬰」が来るという…。

そして前回とは違う護兵が来るという…。

「とばねき」以降、護兵が変わるのは毎度の事であったが、これまでのようにただ「くるり」を運ぶ為だけに共に旅した大して力のない護兵達とは、少し違うらしい…。

ゆめもその者を数百年前の護兵の優劣を決める「決戦」で見た事があった。


――――――そう……「露歩き」を負かした人…。


「相」はゆめ達よりほんの少し上位の黒髪の青年。

黒と赤を基調とした武装を纏い、腰に二刀の刀を差していた。

御殿に来てそこまで時が経っていないにもかかわらず、すでにぬし様の御殿守りの任を授かっている。

利口そうな顔つきをしていたが、何となくそれを奢っている所があるように見えて、ゆめは何だか面白くなかった。


―――――――なんかやだな……。

       「相」の近い男の子って…。


―――――――でも…・・・ 強さは本物らしいから…・・・。

        きっと今回の旅は…・…安全…・よ…・・・ね


ゆめは次の旅に想いを馳せながら夢も見ない深い眠りへと落ちていった。




             三


―――――――何だろう…・・・。

       少し熱っぽいかも…。

       困ったな……。

       明日にはもう旅なのに…・・。



ゆめはぼんやりと宴休みを迎えようとする御殿の中をさ迷っていた。

ぬし様が宴休みを宣言して早二十日。

何百年と続けてきた「呆蝶宴」の片づけを終えた者達が、ようやく自分達の身の振り方に取りかかる時期である。

大体の者がぬし様の末の湯をもらいに湯殿「浮魂癒(ふたまゆ)」へと向かっていく。

そうして湯を浴びた者達は大体が眠りにつく。そのまま次の宴まで目覚めない者から途中起きて里へ帰る者など身の振り方は様々だ。

とりあえずあと少ししたら完全に静けさに満たされる。

その前の最期のにぎわいを御殿は見せていた。


――――――――最近よく眠れなかったから調子悪くなっちゃったのかな。

        そういうのすごく旅に影響するし…・・。


ゆめは視線を上に向けた。

そして斜め先の小さな塔に目を向ける。

それは「露歩き」が護兵の任についている「慟哭塔(どうこくとう)」…。


―――――――「露歩き」に言わなきゃ…。


ゆめは一人覚束ない足取りで「露歩き」の元へ向かっていた。

「大丈夫か?ゆめ。」

「慟哭塔」の最上層に足を踏み入れると、すでに心配そうな表情をした「露歩き」が得物を携えて立っていた。

おそらくゆめがそこに向かうという意思を持った時から、「露歩き」はその視線を感じていたのであろう。

「うん…・・ちょっと。」

最上層に上がるまでに随分息が上がってしまっていた。

けれどこの疲れはそれだけのものではない。

少し熱っぽいような、だるいような……。

ゆめは少しふらつきその場でたたらを踏んでいた。


――――――あれ…?


ゆめの足の裏がわずかに滑る。

床が濡れていたようだ。

ゆめはわずかに足の裏を上げる。

そして視線を下げてそれを見た。


それはまるで…・・・


まるで朱い血のような…・…・



何もない。

砂ばかり。

目の前に私がいる。

倒れ伏した私。

今にも死にそうな…。

苦しそう。

私も同じ。

苦しいよ。

だからね、こうして手をつないで…。

そうすれば少しは……


怖くないから……。



「ッ……!」

ゆめが気づくと、そこはいつもゆめ達が寝起きしている御殿の一角の建物であった。

布団の中に横たわっている。


――――――何だろ……今の。

      全部夢?


ぼんやりと布団の上で座るゆめの耳に、かすかな衣擦れの音が流れ込んできた。

それは、幼い頃からよく聞いた調子の衣擦れの音――――――


ゆめはそっと立ち上がると、襖を開けて縁側を見た。

そこには己の得物の掃除をする「露歩き」の姿があった。


「大丈夫か?」



――――――「大丈夫か」……じゃあ、さっきやっぱり……


「うん…・・・。」

ぼんやりとする頭で何が起きたのか振り返る。

「慟哭塔」、「露歩き」、そして足元の赤い、赤い―――――――――


それが何かは多くの人々と御殿暮らしをしているゆめにもわかっていた。

しかしそれが自分に訪れた事が全く信じられなかった。

自分の意志を越えて顕れた「生人」の証。

確実に変化を見せた自分の身体。

確実に変化し、死へと向かう自分の身体。


そこでゆめは己の衣が先程までのものと違う事に気付いた。

「露歩き」は何も言わない。

刀身を外し、銃身を獣脂で磨き上げている。


「「露歩き」が着せかえてくれたの?」

「いや、すぐに「さき」が来て、「さき」が替えた。」

「……「さき」は……?」

「……またどこかへ行った。」

「そう。」


――――――だけど……あれは「露歩き」に見られたんだよね……。


ゆめはすごく惨めな気分になった。

一方「露歩き」の声音や動きに変化は見られない。

いつもと変わらない後ろ姿をしてそこにいる。


その時ゆめは「露歩き」の瞳の色が気になった。

今その顔を見るのはきまずかった。

けれど「露歩き」の中に、そうした色が見られるならそれもいいと思った。

そっと「露歩き」の隣りの縁側に腰を掛け、そのままぱたりと横に倒れ込む。

そして「露歩き」の顔をそのまま見上げてみた。


「露歩き」の瞳の色は、いつもと変わらぬ蒼眼だった。

さざ波の様な静かな蒼、そこにはそれとわかる感情の色は見られない。

決して無感情な訳ではない。

凛とした意志の強さや優しさはある。

確実に生きる光はある。

けれどただそれだけ。

ありのままの心の色は、そこにほとんど見られなかった。


――――――――あんな事があったのに……全然…変わらない…。


ゆめは何となく腹が立った。


「「露歩き」は……」


「露歩き」の手の動きがぴたりと止まった。

「露歩き」の瞳が、見上げるゆめの瞳をとらえる。


「「露歩き」は、私が女だからとかでどきどきしてくれないんだね。」


「露歩き」の瞳がわずかに開かれた。

驚いたような表情。

驚く、それは気付いていなかったという事。

ゆめはその表情にさらに腹が立った。

腹が立って涙が出てきた。


―――――――――私が女の子に見えないんだ……。


涙にぬれた瞳が熱を持つ。

自然「露歩き」を見上げるゆめの瞳の色は責める色を帯びていた。

流れ落ちる涙もそのままに、「露歩き」を睨みつける。

「露歩き」の瞳がわずかに揺らいだ。

揺らぎ、そして色はわずかに乱れた。

一つ瞬きをする「露歩き」。

瞬きを終えると、またいつもの静かな瞳に戻っていた。

けれどしばらくしてから次に紡ぎだされた「露歩き」の言葉には、いつもと違う色が含まれていた。


「昔……姉上の障りを私が看た。

だから動揺が少ないだけで……。

別にゆめが女に見えない訳ではない。」


「姉……上?」


初めて聞く「露歩き」に関わる者の事。


「「露歩き」にはお姉さまがいるの?」


ゆめはつい今まで腹を立てていた事も忘れて、「露歩き」に尋ねていた。

「露歩き」は、一つ頷くと空を見上げた。

空を、「さき」がそうするようにその先にある現世を想う表情を浮かべて……。

懐かしさ、哀しさ、「露歩き」の持つ心の色をその表情にほんのり浮かべて。


「地獄の様な酷い世の中だった。

ここはいつも平和だから、その事をすっかり忘れてしまう。」


「地獄……?ここがそうなのにここより地獄?」

ゆめの疑問に、「露歩き」が静かに笑んだ。

嬉しくて笑う良い意味でのものではなかった。

ゆめに向けられたものでもなかった。

けれど、少し心を開いたような「露歩き」の横顔にゆめはとても嬉しかった。


「「露歩き」のお姉さまは何てお名前なの?」


空を見上げていた「露歩き」の瞳がゆめをとらえる。

「露歩き」は己の衣の袖を泣きぬれたゆめの顔にそっと近付けた。

優しく、その頬を流れる涙をぬぐう。

ゆめの顔を拭い、ゆめの瞳が閉じている間に、「露歩き」はそっと小さく呟いていた。


「「星呼(としこ)」と言う……。」

「としこ……。」


瞳の色を見なくても、紡がれた言葉に込められた心の色は、十分ゆめに伝わった。

ゆめは確かに「露歩き」の心の色を見た。



「露歩き」の衣が、ゆめの顔からそっとはなれる。

その時に見た「露歩き」の瞳の色はいつもの静かなものであった。


「良い名前だね。」


ゆめは、心から微笑んでいた。


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