第二章 第一節
第二章
第一節
一
「本当に上手だねぇ。ゆかちゃんは。
鏡も見ないでよくお化粧出来るよ。
どうやってるの?教えてよ。」
「えへへ~わかんない。
でも何かわかるんだよね。自分の顔がどうなってるのか。
すごいでしょ?」
「うん、すごいすごいよ。ゆかちゃんは。
やっぱ良いなぁ好きだなぁ。
私のお嫁さんになっておくれよ。」
「え~またそれだ~。やだよ、私。
私「露歩き」が好きなんだから。」
「そんなに良いかなぁ。あの人が。
私の方が素敵だと思うけどなぁ。」
「素敵って……中身って事?」
「中身も勿論だけど、見た目も。」
「え?」
「勿論こうなる前の話だけどね。」
そう言ってゆめの目の前の青年、「霆燕」はその砕けた顎の代わりに嵌めこまれた鋼の顎を手の甲に載せて隻眼の瞳でにっこりと微笑んだ。
「霆燕」の顔の中で生まれたままの形であるのはこの瞳だけである。
女の様に長い睫毛に縁取られた銀色の瞳には、確かに美しいものがある。
「あ~、男に迫られてそうなった位だから綺麗だったんだよね、やっぱり。」
「ほっとけ。」
「霆燕」は、その場ではらりと衣を脱いでいた。
その様はまるで蕾が花開くようである。
幾重もの艶やかな衣の中から現れた「霆燕」の肌は白く輝き滑らかで、思わず息を飲む程であった。
「やだッ!いきなり脱がないでよ!」
「何恥ずかしがってんの?ゆかちゃん。
恥ずかしがるものが見えてないんだからいいじゃないの。」
「でも、裸は裸じゃん。」
「そう言ってちらちら見るゆかちゃんはどうなんだろ。」
「ッ!」
ゆめは手近の化粧箱を「霆燕」に向けて投げつけていた。
「霆燕」はひらりとそれを交わす。
「霆燕」はそこから一歩も動いていなかった。
一歩も歩く事なく数歩離れた所に上体を移動している。
「霆燕」の半身は、七色に輝く銀の鱗で覆われていた。
それは緩やかにとぐろを巻き、呼吸するかのようにうねうねと動いている。
背中から走る純白の羽尾ひれがふわふわと揺れていた。
「霆燕」は普段それを二本の足に擬態して隠していた。
彼はこの御殿で「極楽貪主」から舞手最高の栄誉「蝶華鳥」の名を下賜された舞姫の一人であった。
そう、男装で舞う舞手ではあったが、あくまで扱いは「姫」であった。
彼は体の擬態だけでなく、性別も偽っていたのである。
勿論「極楽貪主」はこの事を知っている。
それは「霆燕」の望みであった。
「極楽貪主」はその望みを「興がある」と嬉々として受け入れていたのである。
「どうして姫になってるの?」
「男に興味ない主に仕える身で、男に見られるのが嫌だったから。」
「…?普通反対じゃないの?」
「普通反対じゃないの。
そういう主に仕える綺麗で無力な男は、他の臣下に慰み者にされるんだから。
こういう場合、主の寵姫の方が断然安全なんだよ。」
以前ゆめの疑問に「霆燕」はそう答えていた。
「ま……もうそんな心配はあまりなさそうだけどね。念のため。」
潰れた瞼から顎にかけて手を滑らせながら「霆燕」はそう付け加えていた。
「霆燕」の顔は前の主の客人になされたものであった。
「霆燕」は、空気を震わせ鬼気迫る力強い舞の他に、伸びやかで女性的な美声とそれでいて凛とした涼やかな面ざしで人々を魅了していたという。
その日、主に持て成された客人もいたく魅了されたらしい。
そして「霆燕」は関係を迫られた。
「霆燕」はそれを拒んだ。
「霆燕」は半身を蛇身に変えそれを示した。
それが客人の逆鱗に触れてしまった。
「霆燕」は、名だたる武人であった客人の渾身の一撃で、顎は砕け鼻と片目は吹き飛ばされてしまったのである。
前の主はそんな醜く砕けた「霆燕」に興味を失った。
そしてただ同然で、「極楽貪主」に譲り渡されたのである。
人々に裏切られつくした「霆燕」は、ここで常に人を近付けない孤独の気を放っていた。
普段は無機質な面に隠されたその醜い顔としゃがれた声、何より以前にも増して怨念を孕んだ凄味のある舞に、誰もが近寄る事を恐れていた。
しかしゆめは違っていた。
勿論怖いとは思った。
けれどゆめは自分が「極楽貪主」の「お気に入り」である事を知っていた。
いくら怖い舞姫とはいっても、自分を傷つけはしないだろう。
ゆめはこれまで話に聞くだけで、噂の「舞姫」の素顔を見た事が無かったのである。
という訳で、誰も普段近づかない「霆燕」の住む一郭に忍び込み、そこで今の様に衣を脱いだ「霆燕」の肢体に直面したという次第であった。
その時、「霆燕」は蛇身ではなく足を生やした人体に擬態していた。
「う・・…わあ~~ぁあん。こわい~~~おとこォおぉ~~…。」
幼いゆめは、驚きのあまり泣き出してしまっていた。
「ちょっ…待ッ!……私が悪いのか?!」
そんなゆめを見た「霆燕」は、取り乱した。
あまりにゆめが泣いて泣きやまないので、とりあえず蛇身に半身を変えてそれを隠した。
別にゆめは男だから怖かった訳ではない。
予想以上に崩れたその顔に恐怖し、ついでに予想外だった性別を口にしていただけの事である。
はっきり言って余計怖さを増したその姿はさらにゆめの恐怖に火をつけ、ゆめはわんわんと泣き続けた。
――――――――――――――!
清流のせせらぎのような音色に、ゆめはぴたりと泣きやんでいた。
目の前で蛇身の「霆燕」がこほんと一つ咳払いをしている。
「きれい……今のあなた?」
「うん、幸い喉は潰れなかったから、震わす位なら今でも出来るんだ。」
ゆめはぱちぱちと涙の滴を弾きながら、大きく瞳を見開き目の前の異形の男を見つめていた。
「霆燕」が少し居心地悪そうに身体をよじらせ、一つ残された綺麗な瞳でそんなゆめを見つめ返していた。
「……別に怖くないからさ。」
こうして「霆燕」とゆめの密かな友情は、芽生えていったのであった。
「でも何で私なの?
私じゃなくても……ほら…例えば「さき」とかさ。
私より全然綺麗だよ?
何か最近よく色んな護兵に告白されてるし。」
「「さき」……?
あ~「先逝」ちゃん?
ん~~「先逝」ちゃんねぇ…・・」
「霆燕」はゆめの質問に答えながら、その裸体をするすると部屋の半分を占める深い湯殿の中に沈めていった。
「霆燕」の鱗は、日に一度は綺麗な水をこうして泳がないといけないらしい。
そうしないと身体の具合が悪くなり、病気にかかってしまうそうなのだ。
その為、「霆燕」の部屋には「浮魂癒」の湯が常に引かれていた。
この事も御殿のほとんどの者が知らなかった。
「霆燕」はまるで魚の様にすいすいと湯の中に身体を走らせる。
孤を描き、一跳ねし、また空中で孤を描くと盛大に飛沫を散らせて湯の中へと身を躍らせた。
一呼吸置いて「霆燕」の頭が水面に洗われる。
その肌は、桃色に温かく染まっていた。
「確かにぞくっとする程綺麗だよねぇ。
でもそれって気持ちのいい綺麗じゃないんだよね。」
「どういう事?」
「私が臆病だからなのかなぁ。
あの子の綺麗は、私には怖くて駄目なんだよ。
ゆかちゃんは怖くない?」
「霆燕」は下半身の動きだけで水平に泳ぎながら、ゆめにそう投げかけた。
ゆめも、それにうんと頷く。
「確かに……「さき」はちょっと怖いかも。」
「でしょ?
それにあの子「死人」でしょ?
子供作れないじゃない?
私子供は欲しいから。
やっぱりゆかちゃんが良いんだよね。」
「またそういう事言う~。」
「だって言っとかないと、誰かに先を越されるかもしれないじゃない?
それは嫌だし悲しいでしょ?
今を別にどうこうとは言わないよ。
私はゆかちゃんが大きくなるまでずっと待ってるから。
私が好きだって事、ずっと覚えていてくれると嬉しいな。」
「ふぅん、覚えてるだけだからね。」
「うん、今はそれだけで十分。」
そういうと「霆燕」は優雅に水面を滑っていった。
本当に気持ちよさそうに泳いでいる。
耳をすませば綺麗な鼻歌まで聞こえてきた。
「霆燕」の鼻歌は、ただその音色だけで美しかった。
まるで極楽蝶を間近にしているかのような至福感に満たされる。
ゆめはそっと脱ぎ捨てられた「霆燕」の衣の所まで行くと、その中にすっぽりと収まりころりと横になってその音に耳をすましていた。
「その声、皆が聞いたらきっと「霆燕」の事好きになるのになぁ。」
「やだよ。
怖がられてる位で十分。
下手に好かれても良い事なんてないもの。」
「う~~ん、そおかなぁ。」
「そうなの。」
ゆめはそうは思わなかった。
けれどそれで実際醜く崩れた「霆燕」に、それ以上強く言う事は出来なかった。
「霆燕」はするすると湯殿を滑り、その縁に両手を乗せる。
その醜悪な顔を支えるその手は、そこだけが嘘のように美しく際立っている。
「さ……そろそろお帰り。
夕餉の時刻はもうすぐだよ?」
「うん……。」
ゆめはのそりと起き上がった。
そっと遠くの床の上を見つめると、そこに先程投げた化粧箱が壊れて中身を散らしている。
「あ!ごめん!壊しちゃった。
片づけるね。」
「いいよ。そんなの幾らでももらえるし。後で侍女にでもやらせるから。
あ、大丈夫そうなのは持っていってもいいよ?」
「えッ!本当??」
ゆめはきらきらと瞳を輝かせて「霆燕」の方を向いた。
「霆燕」の瞳が、嬉しそうに柔らかく微笑む。
それは親しみに満ちた光があった。
でも何か、「露歩き」がゆめに向ける優しい瞳とは違う。
ゆめは、少し気恥ずかしくなるのを感じていた。
「ごめんね。
本当は新品をあげたいんだけど、そうするのはぬし様に申し訳ないから。」
「うん、わかってるよ。
もらえるだけで嬉しい。
それに新品なんて持ってったら、皆にどうしたのって言われちゃうもん。」
ゆめは床に散らばる化粧道具を丁寧に選り分けていった。
そっと袖から可愛らしい巾着袋を取り出す。
「わぁ、可愛いね、それ。
ゆかちゃん作ったの?」
「ううん、素敵な人からもらったの。」
「素敵な人ッ??」
「女の人だよ。
すごく素敵な人なの。」
「へぇ!誰だろ?」
「……それは、秘密。」
「え……?」
「秘密なの。」
ゆめはそれだけ言うとにっこり笑って、「霆燕」の部屋を後にしていた。
二
「おい!待てよッ!」
ゆめは、突然の男の怒声にひっと肩をすくませて、植え込みの中に身をひそめていた。
「霆燕」の部屋からの帰り道、人に見つからないようにと植え込みの中を移動していた時の事であった。
それはあと少しで、皆の住まう悲愴殿の東屋に辿り着くという所での出来事であった。
―――――まさか、私じゃないよね?
誰かに見つけられたとは思えなかった。
随分身体を低くして移動している。
これまで一度も、人に見とがめられた事はなかったはずだ。
「そんな態度取っていいと思ってんのか?」
「離して。」
――――「さき」?!
ゆめは聞き覚えのある冷めた声に、そっと茂みの隙間から声のした方を覗き見た。
そこには建物の壁に向かって立つ大柄の男の背中が見える。
その装具を見るに、おそらく護兵なのだろう。
その無骨な手は小さな細く青白い腕を握っていた。
血の気のないその色、そして見える衣の色。
顔は見えなかったが、男と壁の間にいるのは確かに「さき」であった。
――――え?……「さき」!!どうしたの??
ゆめははらはらとその様子を見守っていた。
男が怒声を上げて「さき」に向かって吠えている。
どうやら「さき」は男に告白されたらしい。
けれど「さき」はいつもの冷たさで、そっけなくそれを袖にしたようだ。
それが男の癪に障ったのだろう。
煩わしそうに何度も離してと呟く「さき」の腕を、首を縦に振るまでは頑として離す気配を見せないでいる。
――――何、あいつ!最低ッ!
「さき」嫌がってるのに…・。
ゆめはすくりと立ち上がっていた。
茂みががさりと音を立てる。
驚いた男が、びくりとゆめの方を振り向いていた。
ゆめは構わず大声を上げる。
「助けて「露歩き」ぃ~~~~ッ!!
「さき」が襲われてるよぉ~~~~ッ!!」
「おまッ…・…が……ぐうッ!」
ゆめに気を取られた男は、「さき」の腕を離していた。
その間隙に「さき」は男の獲物を奪い、それで膝裏を挫き膝をついた男の首の急所に強烈な一撃を叩きこんでいたのであった。
「ひッ……!」
ゆめは土煙を上げて倒れる大の男に驚き、後ずさりした。
と、その背が何かに行きあたる。
見上げるとそれは「露歩き」であった。
「「露歩き」ぃ~~。」
遠くで「とばねき」が「さき」を探す声が聞こえる。
「くるり」は場所がわかっているのだろう。
向こうからまっすぐ駆けてくる姿が小さく見えた。
「大丈夫か?「さき」。」
「露歩き」が「さき」に問いかける。
「さき」はつまらなそうに鞘に収まったままの男の獲物を、地面に叩きつけた。
得物は地面に深く突き立ったまま、倒れずその場で直立している。
「別に。」
「さき」はすたすたと男の体をよけてゆめの方へと近づいて行った。
「「さき」…・。」
「有難う、ゆめ。
お陰で楽に倒せた。」
「う……うん。」
「さき」が他人にはほとんど見せない優しい瞳を、青白い顔の中に浮かばせる。
しかしそれはほんの一瞬だけの事で、すぐまた不幸を刻みつけたかのような深刻な暗い瞳に戻ると、皆の暮らす東屋に向けて歩き始めていた。
「……にしても、ここまで来ると困ったねぇ。「さき」の美貌も。
とりあえずぬし様にお伺いを立ててみるかい?」
夕餉の席で「とばねき」が心配そうに「さき」を窺う。
ちなみに夕餉は御殿内に幾つか点在する台所で作られたものの一つで、ここで暮らす者達は特別な者でない限り、自分たちでそれを取りに行き自分の部屋で食べお膳を元の場所に戻す事になっていた。
「さき」は膳にほとんど手を付けず、すでに箸を戻している。
俯きがちに膳を見て頬に影を落としていた睫毛がゆっくりと持ちあがり、刃物のような怪しい煌めきを放つ瞳が「とばねき」を捉える。
幼いながらもすでにその面ざしには艶があり、質素なその装いに反して妖しい華のような危険な美貌を匂わせていた。
――――確かにこれは困るよね……。
私だってどきっとしちゃうもん。
ゆめは隣りに座る「さき」をちらちらと眺めていた。
「別にいい、「とばねき」。
そっちの方が煩わしい。」
「でもこんな事が度々あったらあんたも困るだろう?
あんたは確かに強いさ。
でもね……あんたは女の子なんだよ。
いつ……間違いがあるか……。」
「間違い……ね……。」
「さき」が口の端を上げてゆっくりと笑んだ。
それはとても挑戦的で暴力的な何とも不気味な笑みであった。
しかしそれは酷く危険である事がわかるのに、抗えない蠱惑的な魅力がにじみ出ていた。
まるで極楽蝶を狂わす「蛾禍蜍」の華のように……。
――――うん…・・「さき」のは怖い。
「さき」の綺麗は攻撃する為の綺麗なんだ…。
「霆燕」じゃなくても、これは皆怖いんじゃないかなぁ…。
ゆめは、ちらちらとそんな「さき」を眺め、そして「露歩き」に目を向けた。
「露歩き」は膝に椀と箸を持った手を置き、静かな瞳で「さき」をじっと見つめている。
―――――「露歩き」ってすごいなぁ……。
本当のお父さんじゃないのに、私達を大切にしてくれて「さき」の事も全然
そういう目で見ないんだもん。
やっぱり……かっこいいなぁ…。
ゆめは娘とは思えない熱い視線で「露歩き」をぼんやりと眺めてしまっていた。
そんなゆめの瞳を「露歩き」が捉え、ゆめがそれに驚くと同時に「露歩き」は「くるり」の方を眺めていた。
ぼんやりとしていた「くるり」が、「露歩き」の視線に気づきその透き通った瞳で「露歩き」を捉えたのを確認すると、「露歩き」は「さき」に視線を向けていた。
「私の側に常にいろというのは……「さき」には難しいのだろうな。」
「うん。」
「さき」がそっけなく「露歩き」の質問に答える。
「露歩き」はそんな無愛想な「さき」の態度に慣れたもので、特に表情を変える事もなく静かに次の言葉を紡いでいた。
「ではもし何か助けを覚えた時、ゆめか「くるり」にそれを伝えなさい。
それは嫌か?」
「……嫌じゃない。」
「さき」がそっけなく、けれど納得したというように静かにうなずく。
それを確認すると「露歩き」はゆめと「くるり」に視線を送り二人に向けて言葉を発した。
「二人共、必ずどちらか一人は私の側にいるように。
それは難しいか?」
ゆめは「くるり」に視線を送った。
心がそのまま透けて見えるような「くるり」の瞳の意味を、ゆめははっきり理解出来ていた。
「出来るよ。」
ゆめは「くるり」の分も、「露歩き」に答えていた。
「露歩き」はそれを確認すると椀と箸を持ち上げていた。
「明日から始めよう。」
その「露歩き」の言葉で、「さき」の問題はとりあえず解決を見せた。
「有難う、「露歩き」。じゃあとりあえず明日からそうしてみようね。」
「とばねき」がそれを受けて話をまとめる。
こうして「さき」と「くるり」以外のものが皆、食事を進め始めた。
ゆめは思わず笑ってしまいそうになるのを我慢し、お椀で隠しながらせっせと中の煮汁を掻き込んでいた。
――――やったぁ~明日から「露歩き」の側にずっといても良いんだぁ。
視線を感じたゆめは、ちらりとそちらへ視線を向ける。
それは「さき」であった。
不機嫌な顔をしているが決して責めるようなものではない。
ゆめにはそれが穏やかなものである事がよくわかった。
――――良かったね……。
「さき」の暗い瞳は、確かにそうゆめに伝えていた。
三
「そうだね……好きだからだろう。」
ゆめは、意外な「さき」の答えに頬を染めた。
「さき」が不機嫌そうな顔を向ける。
「どうして赤くなるの?気持ち悪い。」
「だっ……だってだって、「さき」が私にそういう事言うと思わなかったんだもん!!
うわぁ~~、何かびっくりぃ。
わぁわぁ~~、すっごい嬉しい。
え~~~、どうしよぉ~~~!!」
ゆめは両の手を頬に押し当ててきゃあきゃあと顔を振った。
「さき」が煩わしそうに目の前に広がる小さな池に目を向けた。
ここは「悲愴殿」に近い「慟哭塔」の最下層。
その欄干に寄り掛かりながら、ゆめと「さき」はおしゃべりをしていた。
ちなみにこの「慟哭塔」は御殿の周囲を見張る為の建物で、一番上の層には今「露歩き」がその任について周囲を警戒していた。
「うるさいな、もういい?」
「あっ…・…ごめんごめん、「さき」。
でも嬉しくって…。」
ゆめはまだその余韻でにこにことしながら、離れようとする「さき」を引きとめていた。
ゆめは先日の「さき」の優しさについて尋ねていた。
「さき」は自分が他人に構われる事を極めて嫌うが、同じ位他人に構う事も嫌っていた。
そんな「さき」がどうして自分の喜ぶ事をしてくれるのか疑問に思った。
そしてその質問に対して「さき」が返した答えが、先程の意外な言葉だったのである。
「本当はゆめのような人間は、一番煩わしくて嫌いなはずなんだけど……。」
「え~~~!!酷いッ!「さき」ぃ~~。
それを言うなら私もだよ?!「さき」ちょっと怖いんだもん。」
「でも……私はゆめが好きらしい。」
池に反射された木漏れ日が、「さき」の顔をゆらゆらと輝かせている。
黒い艶やかなほつれ毛がその白い頬をくすぐる様に流れていた。
光に照らされて不吉の薄らいだ穏やかな「さき」は、いつもとは違う静かな美しさがあった。
「「縁」の力のせいみたい。
ゆめが喜ぶと安心する。」
「っ……「さき」ぃ~~!」
「っ……ゆめ!!」
感極まったゆめは、「さき」に飛びついていた。
「さき」は勿論それを嫌がった。
けれどその抵抗は、大の男を叩き倒した者の力にしては、とても非力なものであった。
「さき」の性質としてそれは振り払うべき煩わしいものであったに違いない。
けれど、今の「さき」を「さき」たらしめる「縁」の絆が、その性を和らげていた。
「さき」はしばらく抵抗を見せていたが、どうにでもすればいいというように、抱きつく「ゆめ」を無視してまた池の煌めきに瞳を落としていた。
―――――「さき」ってとても冷たい。「くるり」もあまり温かい子じゃないけど「さき」はもっともっと全然冷たい。
でもこうしてぎゅうってすると、ほんの少しだけだけど内側が温かいのがわかる。
ゆめは「さき」の感触に心を澄ませていた。
おそらく「さき」もゆめの感触に心を澄ませていたに違いない。
ささやかな水面の煌めきが、二人の感覚を研ぎ澄ましていった。
――――このろうそくの炎みたいな温かい感じ……「さき」のこの感じ、大好き。
「ゆめは、温かい。」
「さき」が静かに呟いた。
「「さき」もあったかいよ。」
ゆめは心地よさそうに呟いていた。
「さき」からはほのかに甘い香木のような香りがする。
それはこうして身体を寄せていなければ気づけないような、ささやかな香りであった。
一人夕暮れに佇むような、懐かしく切ない想いにさせる不思議な香り。
「私のこの死んだ体が…・・?」
「さき」が優しくゆめの腕を自分の身体から引き離す。
ゆめはそんな「さき」の腕に自分の手を重ねながら、わずかに首を横に振った。
「うん、「さき」もほんの少しだけどあったかいんだよ。
ろうそくみたいに小さいけど、でもちゃんとあったかさがあるんだよ。」
「「さき」は気付いてないみたいだけど。」
そう言ってゆめは「さき」に向かってにっこりと微笑んでいた。
「さき」はぼんやりとした表情で、ゆめを見つめ返していた。
まるで「くるり」のような心静かな面ざしであった。
「そう……。」
それだけいうと「さき」は、ゆめの身体から離れ、そっとその細い指先を欄干に載せて、目の前の池を越えて遠く彼方を眺めるようにして固まった。
(「さき」の温かさは……「さき」の持ってる心の優しさなのかもしれない。)
ゆめは「さき」の横顔を見つめてふとそんな事を考えていた。
「ねぇ…「さき」。」
「何?」
「「さき」は誰かを好きになった事ってある?」
「異性の情の事なら、ない。」
「え~~!そうなの?!嘘だぁ~~!!
「さき」美人なのにぃ~~!!」
「美人とかそういう問題…・・?」
池をなでて温かい風が二人の元へ流れてきた。
その風は「慟哭塔」に当たるとそのまま天空へ消えていった。
「さき」はその流れを追うように空へと顔を向けた。
冥獄のはるかはるかその上に、「さき」の存在した前世が今も在る。
「もしかしたら……。」
「え……?」
ゆめは巻き上げられた髪の毛を整えながら、「さき」の呟きに耳を傾けた。
「さき」の瞳ははるか空高くを見つめている。
その先に何かの想いをたぐるように……。
「もしかしたら、時を重ねていれば、そういう情を抱いたかもしれない者はいた……。」
本当に、たまたまその考えに至ったというように、「さき」は何の感慨も示さず呟いていた。
ゆめは口を開きかけた。
だが、「さき」の次に見せた表情と言葉に、口をつぐんでいた。
「それも随分昔に死んだけど。」
「さき」はまた、その小さな身体に闇をまとい、憑かれた瞳に酷く近寄りがたい不機嫌を匂わせた。
四
―――――「露歩き」にも……たぶん大切なものがある。
ゆめはそれを何となく知っていた。
幼い頃、ゆめは「露歩き」にそれを人として無邪気に尋ねた事があった。
「露歩き」は静かな瞳で、そのような人はいないと告げていた。
告げていたけれど、時折見え隠れする「露歩き」の決意のような姿勢は己の為だけのものではないように感じられた。
それが人ではないにしても、確かに何かがある、そう感じさせる姿勢。
静かに、ひた向きに、悟りを目指す苦行人のように黙々と生きる「露歩き」…。
―――――「露歩き」は、自分の目的の為に、ぬし様に従ってそんなぬし様の命だから私達を大切にしてくれてる。少しは、好きになってくれてるかもしれない。けど……
―――――本当に大切なものの為に、大切にしてくれてる…。
ただそれだけのような気がする。
―――――聞きたい……でも……
―――――そんな事言われたら嫌だから……怖くて聞けないよ。
「そうだね……「露歩き」は何かの為に頑張ってる。
昔「丸嬰」もそんなような事言ってたよ。」
皆の衣を干すその手を止めて「とばねき」がぽつりと呟いた。
ゆめは昔「とばねき」が「露歩き」の事を好きだった事を知っていた。
けれど、いつの間にやらそうした雰囲気は消えていて、ゆめ達の側に「露歩き」と共にただあるだけの日々が続くようになって随分と久しい。
「「とばねき」は「露歩き」の事好きだったよね?」
「な……何だい?藪から棒に!!
ちょっ……よしとくれよ!誰かに聞かれたら恥ずかしいじゃないか!」
「とばねき」は、慌てて干しかけていた「露歩き」の衣を取り落としていた。
生乾きの衣が地面の泥を吸っている。
「あぁ!もう!ゆめがいきなり変な事言うから!!
しかもよりによって「露歩き」のじゃないかぁ。勘弁しとくれよ!」
「とばねき」はたったとまだ泡水を残しておいた盥の所まで行き、せっせと泥を落とし始めた。
「そんなに慌てる事?
三人に一人は「露歩き」の事好きって皆言うのに」
「そうだけど…私が嫌なんだよ、そういうの。」
「あ……!結構本気で好きだったんだ!」
「ッ……ゆめ!!……はぁ……全くこの子は……」
「とばねき」は朱を薄く引いた唇でやんわり微笑むと、赤らんだ両の手で泡を落とした衣をきつく絞りあげた。
「とばねき」はゆめ達がようやくよちよち歩きが出来るようになった頃、ぬし様の命を受けてゆめ達の元へやってきた。
それまでの「とばねき」は下女のような仕事をしていたという。
「とばねき」はこの御殿に住む下男下女の間に産まれた。
つまりこの御殿で生まれ育った人間であった。産まれも育ちも御殿暮らしという者は実は結構少ない。
そんな「とばねき」は何でもそつなくこなす事が出来ていた。
護兵のように一通り武を修め、舞姫楽師のように一通り芸を修め、それでいて両親の様に一通りの御殿の用を足す事が出来ていた。
ただしそれは一通り、特に突出して出来るもののなかった「とばねき」は、両親の様に大多数の下女の一人として埋もれていたのであった。
しかしある日突然ぬし様よりお呼びがかかった。
御殿の主、「極楽貪主」は全ての御魂を理解していた。
一見大多数に埋もれているような者でも、「極楽貪主」から見れば気心の知れた友の様に、その者の在り様が一つ一つわかるらしい。
男一人で三人の娘を育てる事は骨が折れる。
そう、判断した「極楽貪主」は「とばねき」にその命を下したのであった。
美人ではあるが、際立って美しい感じはしない。
大多数の中の美人といった感じであろうか…・・・。少し時間を置いたら忘れてしまうような…「とばねき」の美しさには、その能力同様埋もれてしまうものがあった。
ただ太めのきりっとした眉と、ぱっちりとしてやや吊りあがった瞳が勝気な印象を人に与える。
実際、「とばねき」ははきはきとした女性であった。
「まぁね……昔はちょっとそんな感じもあったけどさ…。
「丸嬰」に聞いたんだ。
「露歩き」はそういうの無理だって。」
「無理?」
「……うん。」
「そういうのって?どういうのが無理なの?」
「……う…それは…そのぉ……。」
「とばねき」は珍しくもじもじと歯切れを悪くした。
若干頬が赤らんでいる。
ゆめはそんな「とばねき」をじぃっと凝視していたが、軽く溜息をつくと「とばねき」から視線を反らしていた。
途端、「とばねき」が息を吐く。
それと同時に「とばねき」は呟いていた。
「………なんかさ…不老長寿の代償なんだって。
長く生きる代わりに、その……次の世代に血を残す事が出来ないとか……。」
「なんで……「露歩き」は永く生きたいのかな?」
「さぁ……そこまでは…。
おそらくそれが「露歩き」がぬし様に魂を差し出した理由だろうし……。
そんな事本人とぬし様位しか知らないんじゃないかねぇ…。」
――――「露歩き」の理由……。
長く、永く生きて「露歩き」は何をしたいんだろう……。
―――――私はそれを知る事が出来るのかな?
―――――私はそれを知るまで生きている事が出来るのかな?




