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第一章 第四節

  第四節           


          一



「―――でねでねでね!

歩ってたら目の前にいきなり大きな扉が現れてね!

その両端からこうぴゅーんって鉄の柱がね!!

それで壁なんだって!びっくりしちゃった!

変だけどすごく綺麗なの!!」

ゆめは、その日団欒(だんらん)の席で、昼間自分が体験した事を口弁師のごとくぺらぺらと語っていた。


皆はまだ食事の最中である。

ゆめは「露歩(つゆある)き」や「とばねき」におしゃべりで(はし)の進まない事をたしなめられた為、大急ぎで先に食事を済ませたのだ。

今では米粒を一粒のせた頬を紅潮させ、きらきらと瞳を輝かせておしゃべりに花を咲かせている。


「全く……人の背中で茶屋までぐっすり眠りこけてたもんだから、すっかり元気になっちまってるよ。」


丸嬰(まるえい)」は胡坐(あぐら)をかいた太ももに片肘をついて、わずらわしそうに湯をしばいた。

「ごくろうさま。」

閼伽(あか)注((つぐ)」がその隣で、全く心の色を映さない笑顔をその顔面に浮かべながら、「丸嬰」の湯呑にお湯を継ぎ足している。

「露歩き」は静かに、「とばねき」は興味深げに、「くるり」はぼんやりと、「さき」は胡散臭そうな顔をしてゆめの話に耳を傾けていた。



「―――――で、その人が何だかいやらしくて素敵なのぉ~~。」


ゆめはここぞとばかりに「鎖葉詩(さばし)」について、説明をした。

和装と亜装を混ぜた奇異な装い、そして自分に優しく接してくれた事。

それはゆめが今まで触れた事のない優しさであった。

不躾(ぶしつけ)ないやらしさとは少し違う、女性として見ながら品良く接する仕草。

いやらしいのが素敵とは何だという顔を皆していたが、「紳士」という言葉がない世界で産まれ育ったゆめには、それを表現する言葉がそれ以外に思い浮かばなかった。

他にもゆめは「堕烏苑(だなんえん)」の館の内部についても覚えている限りの事を事細かに説明した。

鯉の扉、朱塗りの燭台、瑪瑙(めのう)の壁、極楽蝶の(かご)、そしてその奥に腰かける夫人の事。


「へぇ!天人なのかい?その人は!珍しいねぇ!!」


「とばねき」は、素直に驚きを見せた。

その驚きが嬉しくて、ゆめはさらにそこでの会話についても事細かにおしゃべりした。

勿論「丸嬰」にお茶をぶっかける一件についても……・。

そこにいる皆がなにがしかの笑いを示した。

「丸嬰」がまたちっと舌打ちをして、湯をしばく。

ゆめも笑いながらその時の「丸嬰」の様子を詳しく話した。

「本当!すっとしちゃった!

で、そこにいる皆もやっぱり笑っちゃって。

「丸嬰」は夫人の髪の毛引っ張って怒っちゃって……あ、夫人は髪が長いから全然痛くなさそうににこにこ笑ってるの……それで「鎖葉――――」


ゆめは無意識に「鎖葉詩」の名前を呟きかけていた。

けれどそれはふいに止められていた。

「丸嬰」がゆめの紅潮した頬に指先を押し付ける。

ゆめが何事かと「丸嬰」の方に向き直ろうとすると、その指先はそのままゆめ唇に触れ、尖った爪先が鼻の下の肉に触れていた。


「米粒付いてるよ。」


そう言って「丸嬰」は指先で頬から導いてきた米粒を、ゆめの口の中にそっと押しいれていた。



――――「鎖葉詩」の名前だけは、間違っても茶屋で口に出すんじゃないよ。


「あ……。」


――――そうだった……危ない……今私言っちゃいそうだった。


「ありがと……。」

ゆめは一粒の米を噛み下すと、また「堕烏苑」での出来事についておしゃべりを続けていた。


その夜、ゆめは布団の中で音を聞いた。

それが夢だったのか、(うつつ)だったのか、よくわからない。

ゆめは枕元の床を鳴らすその音を聞いていた。

まるで誰かの足音のような音であった。

けれどそれを足音と言っていいものか、ゆめには少しわからなかった。

草鞋(わらじ)とも裸足とも下駄とも違うひどく硬質な音。

ゆめはしばらくそれが自分の枕元を行き来して鳴らす音に耳を傾けていた。

日の登る頃にはその音も止み、ゆめもその事をすっかり忘れてしまっていた。




その翌日、ゆめと「丸嬰」はまた共に「堕烏苑」へと出かけて行った。


「あ~、たぶん昼前には向こうに着くから弁当はいいよ。」

「丸嬰」は弁当の準備を始めていた「閼伽注」にそれだけいうと、さっさと茶屋から出て行ってしまっていた。


「本当にいいの?「丸嬰」!」

あたふたとゆめはその後を追いかける。

「いいんだよ。」

「丸嬰」はわずかに振り返り、されど歩きながらそれに答えていた。

ゆめはそっと、その「丸嬰」の隣りに並ぶ。

朝日はすでに温もりを帯びて、ゆめの周りを優しく包み込んでいる。

「いいって…お昼前なんて無理だよ。

昨日全然遅かったじゃない。」

「昨日は昨日だろ?

今日は今日さ。」

「え……?

だから昨日の事じゃない?」

「やれやれ……。

すっかり貪主(どんす)の宴ぼけしてるみたいだねぇ…。

良いかい?ゆめ。

冥獄は昨日と今日じゃ全然違う。

貪主の御殿みたいな何も変わらない所はまれなんだよ。」

「……わかんないよ。」

「だから、それは今からわかるよ。

きっと昼前には夫人の所に着ける。」

「ふぅん…。」


(…そんなの絶対無理だよ。)



ほとんど「丸嬰」の言葉を信じていなかったゆめであったが、結局「丸嬰」の言が正しかった事をほんの数刻のちに知る事となった。


「……わかったかい?」

「………うそ。」


ゆめは目を疑った。

すでに目の前にあの「客死(きゃくし)隧道(すいどう)」の入口が忽然と現われていた。

明らかに昨日より越えた丘の数は少なかった。

決して早足をしていた訳ではない。

しかし結果として目の前に隧道は口を開けていた。

「さっ…・…早く往こうか。」

「丸嬰」はしっかりとゆめの手を握り、静かな竹林の中へと下りていった。



「なんで……!?

絶対おかしいよ!!

昨日より全然歩ってないじゃん!」


「客死隧道」を下り終えると、ゆめは早速「丸嬰」に尋ねていた。

背中にうっすらと汗をかいている。

どうしようもない焦燥感を与える隧道は、やはり気分の良い所ではなかったが、下りは登りの時程苦しくない事をゆめは知った。

そして気配亡き死人のざわめきも、登りの時程気になるものではない事を知った。

どうしてだろうとゆめは疑問に思ったが、それよりも先程から疑問に感じていた事を「丸嬰」に尋ねていた。



「昨日言ったろ?

「道が呼んでる。」って……。

それが昨日より強くなったからね。

だから早いんだよ。」

「ぇ……でも、じゃあなんで強くなったの?」

「ゆめにもここと「(えにし)」が出来たからだよ。」

「えにし……・「くるり」とか「さき」とかと同じあれ?」

「そう……それさ。

お前は夫人に招かれた。

招かれて見て触れてそこのものを口にした。

だからもうしっかり縁が出来たんだよ。」

「丸嬰」は頭の後ろに手を組みながら純白の夜空に視線を向けた。

ゆめも異質な空に瞳を泳がせた。

紅玉の欠片を散りばめたかのような星空は美しかったが、尋常でないその景色は少しゆめに恐怖を与えた。


「冥獄はね、とにかく「縁」が物を言うんだよ。

ここはものすごく広い。

「縁」があればある程世界が広がる。

でも「縁」を得るのは、実は意外と大変なんだ。

この世界を条件無しで全部行き来してる奴は、たぶんほとんどいない。」

「……「丸嬰」は行けるの?」

「ゆめ」は白夜の闇から隣りを往く「丸嬰」に瞳を向けた。

「丸嬰」はこちらを見ていない。

野性の獣のような孤独の影がその幼い顔に広がりを見せている。


「……行けない。」

「行けないの?」

「「の?」ってお前、当たり前だろ?」

「…当たり前なの??」

「当たり前なんだよ。

はっきり言ってそんな奴、神様みたいなもんさ。」

「ふぅん。」

「そういう条件無しな奴を見た事はあるけどね。」

「あるの?!神様に??

どんな人だった??」

「……そうだね、何かすごい必死な奴だったねぇ…。」

「必死??」

「そう、どうしようもないって感じさ。

世の中何でも掴めるくせにそれが何にも見えてなくて、もう不安でたまらないって感じ。

あれはひどい惨めだったねぇ。」


気づけば目の前に古木の門がそびえていた。

両端からゆらゆらと鉄の柵が生えそろう。

「丸嬰」はよっと勢いをつけて門を蹴り登り、呼び鈴の紐に飛びついていた。

しかし昨日の様に透る鈴の音が響く事はなかった。

紐は何の抵抗も見せず、音も立てずに千切れていた。


「っとぁ……!」


「丸嬰」は千切れた紐を握ったまま地面に落下した。

しかし獣のようにくるりと宙で体勢を整えると、すとりと綺麗に地面に着地していた。


「大丈夫?「丸嬰」!」


ゆめはてってとしゃがんでいる「丸嬰」に近づいた。

ゆめが近づいてみると、不思議な事に「丸嬰」は千切れた紐をどこにも持ってはいなかった。


「あれ……今、紐は…・…?」

「な?

言ったとおりだろ?」

「え……?」

驚くゆめの前で「丸嬰」がすくりと立ち上がる。

「丸嬰」は軽く膝の辺りを払うと、尖った耳をわずかに動かしゆめを振り向いて呟いていた。


「昨日と今日はもう違うってさ。」


その言葉は、ゆめの心の知らない何かを深く傷つけた。


                 二



叫んでみても、「堕烏苑」から誰も出てくる事はなかった。

昨日も人気はなかったが、それ以上に気配がほとんど感じられなかった。


―――――何だろう……目の前に景色があるのに空みたいに真っ白に何も感じない。


「ゆめっ!こっちこっち!!」


ゆめがぼんやり古木の門を見つめていると、「丸嬰」が少し離れた所からゆめを呼ばわった。

見れば「丸嬰」が鉄の柵の中から、こちらに手招きしている。

幼女とはいえ、それは人を通す程の隙間は空いていなかった。

それにもかかわらず「丸嬰」はすでに中に入っている。


「えッ?「丸嬰」!いつの間に!!何処から入ったのよ?」


ゆめは「丸嬰」のいる柵の前まで移動した。

「丸嬰」はにやにやと笑っている。

それはいつものいたずらな笑みだった。


「勿論ここからさ。」


そういうや「丸嬰」はそのまま鉄の柵に顔を突き出した。


「ひゃっ?!………えぇ?!ちょっと何それ!!」


ゆめはその不気味な光景に目を見開き、後ずさりした。

「丸嬰」はそんなゆめの表情を眺めてにんまりしている。

「丸嬰」の突き出した顔は、鉄の柵にぶつかる事はなかった。

その顔はそのまま柵の外へと突きぬけ、まるで脳天から顎に鉄の棒が刺さっているかのような状態になっている。


「うそぉ…・・え~~気持ち悪い~~!

痛くないの?「丸嬰」。」

「痛くないよ。ほらッ!」

「えッ……やッ!!」

「丸嬰」はゆめの手を掴み、さっと柵の中へと引きずり込んでいた。

突如迫る鉄の柵に、ゆめは反射的に瞳を閉じていた。

明らかに柵を越えた位置に顔がある事はわかるのに、あるべき衝撃が訪れない。

ゆめはそっと瞳を開けていた。


「うわ……やだぁ~~何これ~~。」


痛みは全然なかった。

しかしゆめのちょうど胸元辺りに、鉄の棒が突き刺さっているかのように見える状態になっていた。

どうにも見た目が気持ち悪くてたまらないので、ゆめはそのまま柵の中へと体を押し込んでいた。

やはり痛みは感じなかった。

しかし振り返れば見るからに、冷たく硬そうな鉄の柵が並んでいる。

けれどゆめの体は柵の内側へと移動していた。


「どういう事?」

ゆめはすっと柵に手を伸ばしていた。

指先は空をさ迷うように、するりと鉄をすり抜けていく。

ゆめに見える世界は、世界として全く存在していなかった。


「これ偽物だったの?」

ゆめは隣りにたたずむ「丸嬰」に問いかけた。

「丸嬰」は鋭利な硝子の植え込みに視線を落とす。

植え込みに堕ちる白夜の闇が、「丸嬰」のその面ざしを仄暗く虚ろに照らしていた。


「昨日は一応本物だったよ。でも―――」

「「丸嬰」ッ!!」

「丸嬰」はゆめの目の前で、その鋭利な硝子の植え込みに拳を振るっていた。

その重く鋭い輝きに反して、「丸嬰」の小さな拳はするりと空を描いていた。



「今日は本物じゃないって事さ。」



鋭利な庭をゆめと「丸嬰」はまっすぐ進む。

草を踏みしめているはずなのに、まるで平坦な世界を歩くかのように何も伝わるものが無い。

少し離れた所に館へと続く石畳が堕烏の木の紐と共にうっすら見える。

けれどいつまでそちらを眺めていても、堕烏の木が立ちあがる事はなかった。


―――――見えてるのに存在しないのがこんなに怖いなんて……。


「「丸嬰」……何か怖い……。」

「だろうね……。」

「「丸嬰」は怖くないの?」

「別に?……結構慣れてるからね、」

「慣れてるの?」

「……夫人との付き合いは長いからね。」

「………これ、夫人のせいなの?」

「いや、ゆめのせいだよ。」

「丸嬰」の鋭く走らせた視線の厳しさにゆめはぴたりと足をとめた。


「私………?」


――――なんで……?私、何もしてない……。


「丸嬰」の瞳がぎらりと光る。

ゆめはこの瞳が嫌いだった。

極楽(ごくらく)貪主(どんす)」とはまた異なる、人ならぬものの放つ邪悪な眼差し。

「丸嬰」のそれは獰猛(どうもう)な獣のそれに、理性ある(よこしま)な者だけが持つ熱を帯びた残忍さがない交ぜになっていた。

つまり非常に達が悪い。


―――――絶対「丸嬰」…・…悪い事たくらんでる……。

     たぶん私がすごく嫌になる事考えてる…。


「ほら、往くよ。」


けれど「丸嬰」の冷めた声にゆめは抗う事が出来なかった。

「丸嬰」に差し出された手を躊躇(ちゅうちょ)なく、むしろ望むかのように強く握り返していた。

「丸嬰」が意地悪くにやりと笑う。


「……・…。」

ゆめは何も言い返す事が出来なかった。

何もない不安から救われる為に、ゆめは恐ろしいけれど確かに存在する「丸嬰」の手に(すが)る以外に術を見いだせなかったのだから。



         三


「夫人ッ!」

薄茶色の泥水のように曇った硝子格子の観音扉を開けると、夫人がそこにいた。

意外と長身な夫人が、すらりと柳の様にしなやかに佇んでいる。

その姿は昨日と変わらず神々しかった。

その傍らには、すっかり地面に叩きつけられた巨大な燭台が散らばっていた。


「夫人……これ、どうしたの?」

ゆめはおろおろと夫人に駆け寄った。

その後を、「丸嬰」がゆっくりとぺたぺた音を鳴らして近づいていく。

夫人は、やんわりと微笑んでいた。

しかしその顔には、何処となく悲しみがにじんでいる。

夫人は、足下の燭台にそっと指を指示していた。


「ッ………「鎖葉詩」ッ!」


夫人のその指の先には、「鎖葉詩」がいた。

髪を乱し、弱弱しく地面にはいつくばる「鎖葉詩」のその身体の半分が燭台の瓦礫(がれき)の中に埋もれている。


「あ~ぁ、守るだか何だとか言っといてざまぁないね。」

「「鎖葉詩」は私を守ってこうなったのです。」

「へぇっ!偉い偉い。」

「ゆめ、手伝って下さいませ。」

「うんッ……!」

せせら笑う「丸嬰」を無視して、夫人とゆめが「鎖葉詩」の救助に向かう。

ゆめは「鎖葉詩」に覆いかぶさる瓦礫の山に手を伸ばした。

しかしその手は空を切る。

何度も何度も手を伸ばしても空を切る。


「どうしてッ?何でッ??」

「ゆめ……それは。」

「う……ゆめ……お嬢様?」

「「鎖葉詩」ッ!」

ゆめは膝をつき、「鎖葉詩」の顔を覗き見た。

その上品に落ち着いた顔が弱弱しくゆめに向く。

その顔に眼鏡はない。きっと衝撃で何処かに飛ばされてしまったのだろう。

わずかに朱を走らせる(とび)色の瞳が直接ゆめを捉えている。


「「鎖葉詩」…・・。」


心に迫る思いにゆめは涙ぐんでいた。


「待ってて!今助けるからねッ!

もう大丈夫だからねッ!」


ゆめはまた瓦礫(がれき)に手を伸ばす。

しかしその手はやはり空を泳いだ。

その手をそっと別の手が優しく包み込む。

しっとりと柔らかい、慈愛に満ちた夫人の手だった。


「夫人ッ…・・う~~。」

「泣かないで、ゆめ。

貴女がいれば「鎖葉詩」はきっと助けられますから。」

「でも……でもッ…・・全然掴めなくてッ……。

これじゃ、これじゃ全然「鎖葉詩」がッ……。」

「大丈夫です。

さっ……一緒に「鎖葉詩」の手を握って下さいませ。」

「……はい…ッ…・・。」


「鎖葉詩」の投げ出された右手をゆめが、左手を夫人が両の手で握っていた。

「夫人……「鎖葉詩」を引っ張るの?」

「そうです。」

「……でもッ……それじゃあ「鎖葉詩」挟まってるのに痛いよ。

体が千切れちゃうよッ!」

ゆめは絶望的に広がる朱塗りの燭台の小山を見上げた。

それはゆめの体をはるかにしのぐ高さを見せていた。


「大丈夫。

この燭台は幻です。

決して触る事は出来なかったでしょう?

きちんとそれを想えば大丈夫。

ゆめの手が燭台をすり抜けた様に、「鎖葉詩」の体がすり抜ける事を思い描いて?」

「……うん……。」


「何か良い姿だねぇ…。

あんたが下男の手握って膝ついてるってのは。」

「「丸嬰」……後できちんと伺いますからね?」

「おっと……!」

「夫人?」

「大丈夫です。

さっ……同時にいきますよ?」


―――――大丈夫……大丈夫……「鎖葉詩」の体はすり抜けるんだ…。


ゆめはそれを必死に思い描いた。

大の男を引っ張るのは、とても力がいる。

夫人とゆめは少しずつゆっくりゆっくりと、「鎖葉詩」の体を引きずった。

しかしその重さは、ゆめが思い描いた通り、「鎖葉詩」の重さしかないように感じられた。

その証の様に、「鎖葉詩」の衣服は瓦礫に引っ張られる様子を見せず、徐々に姿を見せていく。


「はい、2人共お疲れ様ぁ~。」

すぐそばの床の上で胡坐をかいている「丸嬰」がぱちぱちと手を叩く。

ゆめは肩で息をしながら、「鎖葉詩」の足がきちんと瓦礫の中から出ている事を確認するとぺたりと座り込んでいた。

隣りで膝をついている夫人を見ると、全然疲れた様子はない。

まるで息を乱さず温かい眼差しで「鎖葉詩」を見つめていた。


「申し訳ございません、奥様。」

「いえ……貴方のせいではないわ、「鎖葉詩」。

立てますか?」

「いえ……足の感覚が全くありませんので…。」

「えッ!!」

「まぁ……困りましたねぇ。」

夫人はあまり困っている様子を見せず、顎先にわずか指先を当てて思案している。

その透き通る瞳が「丸嬰」へと流れていた。



「少し…悪さが過ぎましてよ、「丸嬰」。」

「あたしかい?あたし何もしてないじゃないかぁ。」

「何もしていないから悪いのでしょう?」

「………ふふん。」

「丸嬰」が鼻で笑う。その顔に全く罪悪感は浮かんでいなかった。

「相変わらず困った子ね、貴女は。」

そういうと夫人はゆめの方へと視線を流した。

ゆめはゆっくり息を整えながら、そんな夫人の瞳に答える。


「「丸嬰」が何も教えなかったのね。」

「夫人……?」

「あたしは言ったよ?

間違っても「鎖葉詩」の名前は向こうで言うんじゃないよってさぁ。」

「「丸嬰」、それは最低限の事でしょう?」

「ははん!」

「本当に……困った子…。」


――――「鎖葉詩」の名前は言うなって…・それがどうして……。


「夫人…・・私、何しちゃったの?」

「堕烏苑」のこの不穏、そして「鎖葉詩」のこの惨状、罪の在りかは見えなかったが、ゆめは何となく自分が致命的な罪を犯した事を理解した。

先程とは違う心の痛みからはらはらと涙がこぼれおちる。

それを抑える事は幼いゆめにはとても出来なかった。

しまいには、わぁわぁと声を上げて泣いていた。

夫人が困った顔をしてそんなゆめをそっと抱きしめ、その背を優しくなでさする。


「ゆめは何も悪くないわ。

ごめんなさい、昨日私がお話しておくべきだったわ。

「丸嬰」がここまで意地悪するとは思わなかったから。」

「あたしのせいかい?」

「貴女のせいです。」

夫人がにっこりと「丸嬰」に微笑む。

「丸嬰」が少し驚いた。が、すぐにちっと舌を鳴らしてそっぽを向いていた。

「はっきり言いやがったね…。」

「貴女がはっきり言わせたのでしょう?

自業自得です。」


――――すごいな……夫人。

    「丸嬰」を丸めこんでる。


激しく感情を溢れさせる自分とは別の、冷静な部分のゆめはそんな事をぼんやりと考えていた。

次第にゆめを支配する激情も夫人の腕の中の優しさに溶かされ、ゆめは落ち着きを取り戻し始めていた。


―――――すごく……落ち着く……。

     「とばねき」や「露歩き」の腕の中にいるみたい……。


ゆめはまどろみかけていた。

そんなゆめの頭上から、子守唄を口ずさむような優しい音色の夫人の声が降り注ぐ。


「ひどく驚かせてしまったわね。

ごめんなさい、ゆめ。

でも何も怖い事なんてないの。

ここは全て私の作った幻なのよ。」

「まぼろし……?」

「そう……幻。

私はね、ゆめ。

特別な天人の血を引く為に、特別な力があるの。」

「……・力?」

「そう……力。

無から有を創り出す力・

世界を創る力。」


――――それじゃまるで……夫人は……


「かみさま・・…?」


ゆめは涙に洗われた無垢の瞳を夫人に向けていた。

夫人はやはり穏やかに慈愛を見せて微笑んでいる。

その銀糸に輝く金髪がまるで後光のように美しい。

どう見てもそれは女神の姿であった。


「神様にはなれませんわ。

私は鬼子ですもの。」


夫人は、恥じらう乙女の様に微笑みかける。

そこに鬼の影はどこにも見えない。


どうしてこんなに神々しい人がこんな所にいるのか、ゆめには全く理解できなかった。


「その証に私の力は完璧ではないの。

無から有を創りだせてもそれは有限のもの。

この世界のように無限のものにはならないの。」

「ゆう…げん…?」

「難しいかしら?

そうね……ではこうしましょう…。

ゆめ、昨日戻られてからこの苑の事をあちらでお話しされたでしょう?」

「……はい。」

「この世界のものでしたら、お話している間も、そのものはきちんとそこに存在しています。

例えばゆめがお茶屋さんの事をお話しされている間も、お茶屋さんはきっとお茶屋さんとしてあちらにあるでしょう。」

「はい。」

「……けれどこの苑のものは全て存在している事が出来ないの。

ここ以外の別の世界でその言葉が語られるとその分だけここの世界のものが分かれていってしまうのよ。」

「分かれる……?」

「そう、分かれていってしまう。

ですから今この苑のものは見えるけれど形はないの。

あちらに言の葉がまだ残ってしまっているから。

「鎖葉詩」が立ち上がる事が出来ないのもそれと同じ事なのよ。」

「立てないのが……同じ……?」

「そう……そしてもしも「鎖葉詩」の名前、「真名(まことな)」をあちらで発していたら、「鎖葉詩」は完全にあちらに姿を現していたわ。」

「あ……・…。」


――――昨日の夜の変な音……。

    草履でも裸足でも下駄でもない不思議な音。

    あれは、もしかして………。


――――「鎖葉詩」の足……音・・…?



ゆめは夫人の腕の中で、地面に未だうつぶせに横たわる「鎖葉詩」の方を見た。

「鎖葉詩」は起き上がる事も出来ず、哀しげな瞳をゆめに向けている。

ゆめはその瞳の意味に気付いてしまった。


―――――詰まらない所でしょう?



―――――そうだ………昨日堕烏の木の所でちょうど「鎖葉詩」こんな目してた。

     この館は全部まやかしだって…詰まらない所だって……。

     でも…・…じゃあ……「鎖葉詩」は……・…



―――――「鎖葉詩」も……・まやかしなの?



ゆめは「鎖葉詩」をじっと見つめた。

その瞳の奥から感じる意思の光も、苦痛を走らせる面ざしも、とても幻のものには見えなかった。


「こんなに…・・こんなに苦しんでるのに…嘘なの?」

その一言に、誰も答えを返すものはいなかった。

ゆめはただただ「鎖葉詩」を見つめて涙と共に言葉をこぼした。


「こんなに…・痛そうで……苦しそうで……哀しそうで、それなのに嘘なの?」

ゆめは夫人の腕の中から「鎖葉詩」に向けて手を伸ばしていた。

「鎖葉詩」の指先にゆめの幼い指が重なる。

そう……重なりすぎる程に重なっていた。

ゆめの指先が冷たい地面を感じている。

「申し訳ございません……。」

「鎖葉詩」が深い影を見せて静かに目を閉じた。


「……ッ!

そんな……さっきまで触れたよォッ…・…!」

取り乱すゆめを夫人はそっと包んでいた。

優しく諭すようにゆめに囁く。

「それはゆめが先程まで「鎖葉詩」を幻だと思っていなかったから。

そして私も「鎖葉詩」に触れる事を望んでいたから。

「鎖葉詩」が別れている二つの世界の存在が、在る事を信じていたから触れる事が出来たの。

でも今はもう――――」

「そんなッ……じゃあ「鎖葉詩」はこれからずっと歩けないの?

見えてるのに?ここにいるんだよ??

なのにずっと触れないの?

苦しい顔してるの?

そんな……そんなの…・…」


―――――かわいそうだよ……・…。


「大丈夫よ、ゆめ。

あちらの言の葉がなくなれば「鎖葉詩」もこの苑も昨日の様に戻りますわ。」

「どうすれば……無くなるの?」

「それはあちらでこちらの事を話さなければいずれ……。」


―――――話さなければ……・…。

     そっか……ここの事を話しちゃいけなかったんだ。

     話しちゃったからこうなったんだ。


「う…・…わぁあああああああああああああん!!」

ゆめは夫人の腕の中で声も涙も枯れ果てるまで泣いた。



ゆめがまだ死を身近に感じるより数千年程前の事、ゆめは世界が不変でない事、そして儚い事の意味を深く知った。




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