第三章 第二節 二~三
二
「じゃあ行ってくるね。」
ゆめは朝食を終えて身支度を整えると、早速「堕烏苑」へと旅立った。
「え?あ、何処へ?」
「堯湖」が何やら騒いでいるが、とりあえず無視してゆめは往く。
変わらない田園風景が目の前に広がる。
本当にそこは変わらない。
誰も手入れをしている訳ではないのに、茂る草むらの高さは全く変わる事がなかった。
何処かから流れてくる温かい風に皆同じように揺られて波を見せている。
まるでどれも全く同じものであるかのように。
生き物の気配と音はあるのに、ゆめはこれまで一度も生き物の姿をそこで見た事が無かった。
ゆめが成長したからであろうか?
いや、きっとそれだけの事ではないのだろう。
「客死隧道」の入口は数個の丘を越えた所で目の前に開いていた。
極めて静かな、何もない気配に満ちた蒼の道。
ゆめはいつものように足を踏み入れていた。
――――――――え。
ゆめは一瞬突風を感じた。
しかし周りの景色にその証は見られない。
ゆめにのみそれは起きた。
わずかに両脚が後ろへ下がる。
まるで異物を排除しようとするかのように…。
それだけだった。
ゆめがしばらく様子を見てみてもそれ以上そこに何か変化は起きそうにない。
ゆめは不思議に感じたがとりあえず道を下り始めた。
茶屋からここまでの道に比べて、やけにそれは長く感じた。
実際これまでの下りより幾分長い。
全く出口の光が前方に見られない。
足元を流れていく不揃いの石畳に生した苔の濃淡。
次第に濃緑と葉の奏でる音の中に溶けていくような感覚。
ゆめは不安を感じた。
懐かしい焦りと恐怖に心と身体が満たされていく。
―――――――足元の石だけを見て歩くんだ。
初めて訪れた時「丸嬰」が言った言葉。
あまりに終わりを見せない道程にゆめは禁忌を破りかけていた。
思わず今来た道を見上げようと意志を持ったその時。
そこに一つの遺志を感じた。
幾つも歪に溢れる不自然な静けさ、その中で唯一「個」を持つものの存在。
それは明らかに自分に向けられている。
それがゆめに何を遺そうとしているのか定かではない。
けれどゆめは言い知れぬ恐怖に包まれた。
生きたまま棺に納められたかのような絶望感。
「ッ………!」
ゆめは一目散に駆け下りた。
後ろを振り返る余裕などそこにはなかった。
自分のすぐ後ろは全て死に満たされている、そんな恐怖に囚われた。
気づけばゆめは隧道を抜け、きちんと敷き詰められた石畳の上を疾走していた。
息をしていたのかも忘れるほどに、己を見失っていた。
次第に減速し、とぼとぼと歩きそのままぺたりと座り込む。
石畳の冷たさが、熱を持った身体と心に心地良い。
ふと見上げた先の異色の星空は、得物を狙う獣の瞳のように冴え冴えと赤くゆめを捕えていた。
「お待ちしておりました。ゆめお嬢様。」
数千年時を経ても変わらず艶に満ちた「鎖葉詩」が佇んでいた。
髪型、服装、容姿、初めて会った時と寸分たがわぬ「鎖葉詩」の姿。
けれど時を経て訪れる度、ゆめはそれを新鮮な思いで見つめていた。
昔は遠く見上げる先に垣間見ていた「鎖葉詩」の面ざしも、次第に近づきより鮮明に見えるようになってきている。
紡がれる言の葉も、ゆめの成長と共に広がりを見せていた。
ゆめの変化は自然世界の変化に繋がっていた。
「また少し変わられましたね。」
堕烏の並木道を通りながら、隣りを行く「鎖葉詩」が頬笑みを湛えて呟く。
「どんどん綺麗になられていく。」
そう呟く「鎖葉詩」の周りを堕烏の羽が彩る。
黒の花弁は「鎖葉詩」の落ち着きある美しさを際立たせていた。
「そう……かな。」
ゆめは謙遜した。
しかしゆめ自身も少しそうではないかと感じていた。
鏡を見なくても思い描ける己の顔。
今も化粧は鏡も見ずに済ましている。
けれど鏡を見て化粧をし綺麗になった自分を確かめる事が好きになっていた。
希望に満ち明るく華のある自分の顔。
勿論御殿の歌姫や舞姫、「さき」には及ばない美しさではあったけれど、自分の中で今最高の自分の姿でいられる事にゆめは喜びを感じていた。
その喜びはさらにゆめの生きた美しさを光らせる。
ゆめはそこに生きている事を実感していた。
「もうすぐ可愛いらしいとお呼び出来なくなりそうですね。
少し残念です。」
「……そしたらなんて呼んでくれる?」
「鎖葉詩」は館の扉をそっと押し開けた。
久々のゆめの訪問に扉の鯉達も喜びを見せ、沢山の飛沫を散らして鮮やかな水玉を木枠に鳴らして歓迎している。
いたずらな瞳を見せるゆめに「鎖葉詩」は柔らかく頬笑みを見せた。
「それは勿論――――」
「御美しいですよ。」
さらりと快く女性を讃える事の出来る「鎖葉詩」。
「露歩き」には見られない、明らかに愛を向ける「霆燕」ともまた異なる男性質。
ゆめはこの心くすぐられるような会話を交わす事が好きだった。
例え、「鎖葉詩」が偽りの存在だとしても…・…。
――――――それでも、この気持ちは本物だから。
心のこの気持ちは私の中に今在って。
とてもそれが嬉しいから…。
「有難う、「鎖葉詩」。」
ゆめも柔らかく微笑んで「鎖葉詩」に返していた。
昔のようにただ色のある言葉に慌ててしまう事のない、大人の淑やかさをゆめも身につけつつあった。
三
「いらっしゃい、ゆめ。」
そう言って椅子を離れゆめに近付いてくる夫人。
夫人も変わらず清らかな神々しさに満ちていた。
落ち着きのある面ざしも、その中で瞳の輝きだけが少女のように純粋である事も何も変わりなくそこに在る。
そっと蝶の羽のような優雅さをもってゆめを包み込む夫人の腕。
以前はちょうどお腹の辺りに顔が来ていたのに、今は胸の辺りに顔が当たる。
温かく柔らかいその内側からは、とくとくと落ち着いた命音が刻まれていた。
「また少し大きくなられたようね、ゆめ。」
「はい、でもまだ夫人のようにはなれないみたい。」
「良いのですよ、このようにならなくても。
私は女性にしては背が高い方ですし。」
「え~、でも格好良いよ。
そうすれば―――」
ゆめは口元に手を添える。
それを見た夫人が少しかがみ、ゆめに耳を寄せてその呟きを聞いた。
――――――私が接吻してあげるかしてあげないか決める事が出来るでしょ?
それを聞いた夫人は「まぁ」と声を上げて綺麗に微笑む。
「それはとても格好良い事ですわね。」
「何がですか?一体。」
ゆめの真意の読めなかった「鎖葉詩」が二人に問いかける。
ゆめと夫人は顔を見合わせてくすくすと笑い合った。
「秘密。」
それを受け「鎖葉詩」がわからないと言った顔をするのを見て、またゆめと夫人はくすくすと笑い合った。
「ゆめ、とても綺麗になられたわね。
先程の御言葉もありますし…。
素敵な恋をされたのかしら?」
「うん、少しだけ。」
ゆめは「霆燕」との別れの時を思い浮かべた。
触れる冷たさに温かく震えた心、それは確かな優しい恋の思い出だった。
ゆめの表情に穏やかなものが浮かぶ。
そんなゆめを夫人は夢みるような瞳でしっとりと見つめていた。
ちなみにここはゆめが初めて訪れた折通された屋敷の中庭の小さな庵。
「鎖葉詩」は茶器の準備をしにここを離れていた。
「夫人はどんな恋をしたの?」
「私、ですか?」
夫人が少女のような驚きを見せて、己の頬に片手を当てた。
よく夫人が見せる可愛らしい仕草である。
「した、というか……今もしていますわ。」
少し桃色を頬に灯した夫人がゆめを見つめる。
「ずっとずっと、想い待っているの。」
少し困ったように微笑む夫人。
けれど幸福色の温かい空気を醸す夫人。
ゆめにはそれがわかっていた。
夫人が、悲しんでいる事を。
夫人は例え悲しくてもそれを雰囲気で醸す事が出来なかった。
それが夫人の不幸だったのかもしれない。
思えば夫人は現在未亡人である。
未亡人になる為には、夫を亡くさなければならない。
そこには恋を知った程度のゆめには到底理解する事の出来ない、何かしらの悲劇があったのかもしれない。
「あ…・…。」
「謝らないで、ゆめ。
それでも私は幸せなのですから。」
「ずっとこうして、恋をしていられるのですから。」
そう言って夢見る瞳で、ゆめの瞳に答える夫人はとても美しく、その心は穏やかなように見えた。
温かいだけではない、嬉しいだけではない、辛い事も、苦しい事も、悲しい事も、全てを含めて愛は幸福だと言える夫人。
―――――――夫人のような強くて綺麗な人になりたいな。
ゆめは確かにそう思った。
そしてもっと恋をしたいと思った。
自分を強く、そしていつまでも美しく在れるような素敵な恋を…。
その日の帰り道。
「客死隧道」にやはりゆめは一つの遺志を感じていた。
けれど夫人と言の葉を交わし、強くありたいという想いと幸福に満たされたゆめの意志に、いつの間にかそれは色を失い消えていた。




