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「臨月なんだから、重いものは持っちゃダメよ」
美弥子が食器棚にマグカップを置きながら言った。
「うん。ありがとうね、美弥子。それにこんなに素敵な部屋を貸してくれて」
「親が勝手に買ってくれただけだから。空き家にしているよりずっといいわよ」
「でも……なんだか悪くて」
美弥子が驚いたような顔をした。
「今のあなたは無職のままシングルマザーになろうとしているのよ? いくら慰謝料を貰ったからって、ほいほい使っていたらすぐに無くなっちゃう。だから今は甘えていなさいよ。それに、落ち着いたらうちで働いてもらうしね。社宅だと思ってちょうだい」
「……ありがとう、美弥子」
「それより今は元気な子供を産むことだけ考えて」
そう言った美弥子は、次の段ボール箱に手を掛けた。
「ポストのネームは貼っておいたよ」
美弥子の夫である斉藤賢治が入ってくる。
その手にはハンバーガー店の紙袋がぶら下がっており、揚げたてポテトの香りが漂っている。
「あら、早かったね。すぐにコーヒーを淹れるから」
美弥子がコーヒーサーバーにミネラルウォーターを入れた。
「はい、和音さんはこれ」
賢治が紙コップを袋から出す。
クラフト紙のガサゴソという安っぽい音が食欲を刺激した。
「あら、わざわざ買ってきてくれたの? ありがとう、賢治さん」
「いや、ついでがあったから。ラズベリーリーフの茶葉も一緒に買っておいたよ」
夫の気遣いに、美弥子は満足そうな笑みを浮かべた。
買ったばかりのダイニングセットに三人で座る。
「ああ……落ちつくわ」
テーブルもソファーも、鍋も食器も全てが新品だ。
賢治が掛けてくれたレースのカーテンが風に揺れている。
フィッシュバーガーを頬張りながら美弥子が独り言のように言った。
「これで正解よ、和音。今までよく頑張ったね」
二個目のハンバーガーに手を伸ばしながら、賢治が何度も頷いた。
「ありがとう」
和音は手に持った塩おにぎりを口にした。
ゆったりとした時間が流れる。
和音がはち切れそうな腹を摩ると、うねうねと動いた。
「あ……動いた」
「もう出たがっているのかしらね」
賢治が和音に聞く。
「名前は決めたの? 女の子なのでしょう?」
「うん。女の子だって。名前は……まだ迷っている」
実際に和音は決めあぐねていた。
少し温くなったラズベリーリーフティーを口に含んで、和音は窓の外へ視線を投げた。
「駅前なのに、夜は静かね」
さすが地元では有名な病院の一人娘だと和音は思った。
娘のためとはいえ、これほどのマンションをポンと買えるなんてどれほどの資産家なのだろうか。
「私には縁のない話ね」
出産して落ちついたら、すぐにでもここを出ようと和音は思っていた。
いくら親友とはいえ、甘え続けるわけにはいかないだろう。
「この街は出た方が良いのかな……でもそれもなんだか悔しいのよね」
今回の離婚については、全て冬也が悪い。
何の落ち度もない自分が、名義変更などの手間がかかるなど到底納得できない。
「だって銀行口座から何から、全部名義変更するなんて嫌だわ」
悪いのは男だったとしても、そういう手続きをする羽目になるのは女の方だ。
私は離婚したのですと言って回るようなものではないか。
結婚した時は嬉しかったこの作業が、離婚となるととんでもなく負担に思える。
「やっぱりよかったのよ……うん。そうよ」
和音は離婚後も山本を名乗る選択をしていた。
「名前かぁ……」
そう呟きながら和音はベランダへ出た。
つけっぱなしのテレビでは、ジョン・レノンの映像とともに「戦争は終わった」が流れている。
その美しい旋律を聞きながら、和音はニヤッと口角を上げた。
「ああ、そういうことか。あの名前は……」
冬也の部屋にはジョン・レノンとオノ・ヨーコのポスターが貼ってあったことを思い出す。
モノクロのキスシーンが和音の頭の中で鮮明な像を結んだ。
「こんな夫婦最高だよな……」
その時に冬也が言った言葉を口に出してみる。
「この子だってあなたの子よ?」
冬也は、あの子が生まれる前から名前を考えていたのだろうか。
そんな話題など、自分の前では口に出したこともないのに。
「あっちの方が楽しかったの?」
ぼろぼろと涙をこぼして、この足に縋りついた冬也の背中を思い出す。
「だったらなぜ泣いた? ねえ、冬也……なぜ?」
和音の足元に水滴が落ちた。
「悔しい……悔しいよ」
捨てたのが冬也なのか自分なのかなどどうでもいい。
しかし確実なことが一つあると和音は思った。
「私は……選ばれなかった」
まだ生まれていないこの子も同じだ。
「あなたも選んでもらえなかったね」
腹を摩ると、強い力で押し返された。
「同じ家に、同じ名前の娘はいらない……」
冬也から聞いた小夜子の話をふと思い出した。
「ははは……」
和音は一人で笑い続けた。




