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「うちの部署に派遣社員として来たんだ。打ち上げとかで何度か酒を飲んで……そのうちに……」
義父は何も言わず、ただ冬也を睨みつけていた。
改装したばかりのリビングには、微かに木の匂いが漂っている。
天井を檜にしたのは、やはり正解だったと和音は思った。
「週末に何度か……その……彼女の家に行ったりしていて……」
義父が初めて口を開いた。
「一年以上、毎週だと聞いたぞ」
冬也がチラッと和音を見た。
「あ……すみません」
「視察出張? 杜撰な噓をつくな!」
「はい……」
「それで、その安藤小夜子という女を妊娠させたのか」
「え? なぜ名前を」
また冬也が和音の顔を見る。
「だって病院でそう呼ばれていたでしょう? ご本人は井上小夜子と名乗られたけれど」
「あ……うん。そうだった」
「どういうことなの? あなた、二人の女性を?」
母親がヒステリックな声を出した。
「違うよ! 母さん、それは違う。あいつの名前は安藤小夜子だ。でも、世間的には井上小夜子と名乗っている。ちょっと事情があってね」
「事情とは何だ。言ってみろ」
有無を言わさない迫力だ。
「小夜子の母親が井上という男と再婚したんだ。小夜子は連れ子として井上家で暮らすようになったのだけれど、その井上家にはもう小夜子という娘がいたんだよ」
義父が初めてお茶に口をつけた。
「それで、家族の中で同姓同名の娘がいるというのは不都合だろう? だから小夜子とは養子縁組をしないことになったんだって」
「まあ……」
義母が小さく声を出した。
「別に依怙贔屓されたり、いじめたりされたわけじゃないけれど、コンプレックスっていうか……彼女はすごく気にしていた」
「それがお前の不貞と何の関係がある? 端的に話せ!」
冬也の肩がビクッと揺れた。
「それを泣きながら俺に言うんだ。なんだか可哀想になっちゃって……だったら井上って名乗ればいいじゃないかって言ったんだ。通称を使っている人なんて珍しくもないし、社内で使うのなら問題ないだろうって」
的を射ない話に義父がイライラしているのがわかる。
和音はそっと義父の茶碗にお茶を注ぎ足した。
「それで……そのうちに妊娠しちゃって……あのマンションでは、俺は単身赴任中の夫ってことになってる。小夜子は表札を井上にしているから、だったら俺も井上冬也でいいよって……」
義父が大きな息を吐き、義母は両手で顔を覆っていた。
「そのマンションはあなたが買ってあげたの?」
和音の声に、冬也が驚いた顔をする。
「あれは彼女の持ち家だよ」
「あら、お金持ちなのね」
冬也が眉を八の字にしながら言った。
「小夜子は養子縁組されていないから、父親の遺産は相続できなかったんだ。それを不憫に思った姉さんが……ああ、本物の井上小夜子さん。この人が、あのマンションを買って小夜子にくれたそうだ」
「姉妹仲は悪くなかったのね」
「うん、そう言ってた。でもその人はイギリス人と結婚して日本を出ちゃったから、小夜子は独りぼっちなんだよ」
和音がフッと息を吐いた。
「だから?」
「え?」
「だから何だというの?」
「いや……えっと……」
重たい空気が四人の肩に圧し掛かった。
それをそのまま取り込んだような声で義父が言う。
「お前、その子供をどうするつもりだ」
「……」
何も言わない冬也に変わって和音が答えた。
「認知すると約束していましたよ」
三人がぎょっとした顔を和音に向けた。
「病室がお隣だったので。きっと壁が薄いのでしょうね」
和音の顔は無表情のままだった。
「そうか、認知か」
「あ……いや、そうじゃなくて」
冬也が縋るような目で和音を見た。
和音は目も合わせなければ、口も挟まない。
「和音さんはどうしたい?」
「私は別れたいです。離婚を望みます」
「いやだ!」
冬也が膝立ちになる。
「お前には聞いていない!」
義父の声が響き渡った。
「だって……父さん、俺は和音を愛しているんだ。絶対に別れたくないよ……和音……許してよ。ねえ、お願いだから……和音が嫌なら認知も断るよ」
それには答えず、和音はゆっくりと丸くなった腹を擦った。
冬也はぼろぼろと涙を流している。
「その子はどうするんだ? 片親にするのか?」
「……仕方がないですよ。俺は和音の方が……」
冬也が言い終わる前に義父が和音に視線を向ける。
「しかし、戸籍上の父親はこいつだ。それは変えられんぞ」
「ええ、正直に言うと、この人の名がこの子の父親として戸籍に記載されるのは嫌だなって思います。でも、離婚しても出産までに別の方と再婚でもしない限り、法律上はこの人が父親になるのでしょう? そこはもう諦めました」
義父が小さく頷く。
「そのために再婚を急ぐなんて愚の骨頂だ。それに、山本家にも多少なりとも財産がある。嫌だという気持ちは理解できるが、その方がその子にとっても良いだろう」
「はい」
「気持ちは固いのだな?」
「ええ、もう十分苦しみましたし、泣きもしましたから」
「そうか……残念だが仕方がない」
義母が腰を浮かして和音を見た。
「私は……私はね。あなたがお嫁さんで本当に良かったって……そう思っていたの……もう本当にダメ? この子のことは私が責任をもって叩きなおすわ。認知なんてさせない。それでも……ダメなの?」
「お義母さん……ごめんなさい。もう……無理です」
リビングから音が消えた。




