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和音は予定通り一週間ほど入院した。
その間、冬也は毎日通って来たが、和音は眠ったふりをし続けている。
和音の部屋を出た冬也が、隣室のドアを開ける音がしても、和音は目を開けることさえしない。
二人の会話など、もう何の興味もなかったが、枕元の壁を伝って嫌でも聞こえてきた。
そして小夜子の退院の日。
美弥子の話しでは、冬也が迎えに来ているらしい。
「想像通りってことね」
和音も退院の準備をはじめた。
ベッドに腰かけていると美弥子が顔を出した。
「来たわ。今エントランスを出るところ。こちらのタクシーも待機させているから」
「ありがとう、美弥子」
ハンドバッグを持って立ち上がった和音は、大きくなったお腹を摩りながらゆっくりと病室を出た。
車寄せに見覚えのある車が停まっている。
「ははは! 何というか、甲斐甲斐しいわねぇ」
美弥子の声に顔を上げると、冬也が赤子を抱く小夜子を抱えるようにして車のドアを開けていた。
「和音、こっちよ」
美弥子がわざと声を大きくした。
冬也の肩がビクッと揺れ、ゆっくりと振り返る。
大きな腹を抱えた和音が、エントランスから出てきた。
「和音……」
気づいていない振りをする和音の横で、美弥子が驚いた顔をした。
「あら、冬也さん。会社に電話したけれど、出張中だって……」
「あ……いや、先方の都合で中止になって。時間が空いたから部下の退院に付き合っているんだ」
「まあ、お優しい上司ですこと。奥様はたった一人で退院しているっていうのにね」
美弥子の皮肉に冬也の顔が歪む。
「知らなかったのだから仕方がないだろう? 言ってくれれば迎えに来たさ」
冬也に美弥子が言い返した。
「だから連絡したって言っているでしょう? まあ、病院にいたのなら電源を切っているのは仕方がないけれどね」
「それは……」
「美弥子、早く帰りたいわ」
和音の声に冬也が顔を向けた。
「彼女を送ったらすぐに帰るから」
返事もせずに和音と美弥子を乗せたタクシーが走り去った。
「冬也さん? 奥さんだったの?」
後部座席から小夜子が聞いた。
「ああ、今日退院したみたいだ。マジで最悪だよ」
小夜子の腕の中で眠っている赤子がくしゅんとくしゃみをした。
冬也が慌てて運転席に乗り込む。
「送ったらすぐに帰らなくちゃいけない」
「ええ、わかったわ。でも当分は毎日顔を見せてくれるのでしょう?」
「ああ。もちろんだよ。食べるものは持って行くから」
冬也がアクセルを踏み込んだ。
その車は、結婚祝いだと言って冬也の両親が買い与えたベンツで、ナンバープレートは二人の結婚記念日という熱の入ったものだ。
「ただいま。和音、大丈夫か?」
「あら、早かったのね。井上さんは大丈夫なの?」
「……あのな、和音。彼女は天涯孤独の身で可哀想な境遇なんだよ。だから僕が迎えに行ったんだ」
「まあ! それは大変でしょうね。親も兄弟も親しい友人も、誰一人いないなんて」
「そ……そうなんだよ。だから、変な誤解はしないでくれよ?」
和音は数秒冬也の顔を見た後で、引き出しから一枚の紙を冬也の前に置いた。
「サインしてちょうだい」
それを見た冬也が目を剝いた。
「どういう意味だ!」
「どうもこうもないわよ。私たち離婚しましょう」
「なぜ!」
「妊婦の私よりも、部下を優先するあなたに絶望したからよ」
「だから! それは説明したじゃないか!」
「ええ、そうなのでしょう。でもあなたは一度も私の通院に付き添わなかった。入院する日も来なかった。退院する時も同じ。でもあの人にはどう? 看護師さんから聞いたけれど、優しい旦那さまで有名なのですって? 毎回寄り添って通院して、出産の日も一晩中待合室で祈ってたって? あなたが不貞をしていようがいまいが関係ないわ。とにかくあなたはもう信用できない」
「待ってくれ。ちゃんと説明させてくれよ」
和音がソファーに座る。
「良いわよ。聞くだけ聞いてあげましょうか」
ホッとした顔で和音の隣に座ろうとする冬也に、和音が対面の椅子を指さした。
「彼女とは本当になんでもない。天涯孤独の身で、未婚の母になってしまう彼女が不憫で……だから僕がいろいろと世話を焼いていたんだ。彼女も僕を頼ってしまって、助けを求めてくるようになった。そんな彼女を振り解けず、君ならきっと理解してくれるって思ってしまって……申し訳なかった」
「ああ、そう」
「え? それだけ?」
「他に何か?」
「あ……いや。だから離婚なんてせずに……ほら、もうすぐ僕たちの子供も生まれてくるじゃないか」
「ええ、そうね」
「その子を片親にするの?」
「そうなるわね」
「かわいそうだよ」
和音が顔を上げる。
「ではあの人の子は?」
「え? だって……それは」
「認知するのでしょう?」
冬也の顔色が変わった。
「私の病室がどこだったか忘れたの?」
冬也が拳を握り締める。
「彼女の子には名前を貸してやるだけだ」
「クズね」
「え?」
そう吐き捨てた和音の顔を驚いた顔で見る冬也。
「妻の私が知らないところで、この子に姉を作ろうとしてたってことでしょう? しかも同い年の」
「……」
「まあ、もう関係ないわ。私たちは別れるのだから。認知といわず、すぐにでも結婚してあげたら? お義父さんもお義母さんもきっと喜んで下さるわよ。あれだけ孫を欲しがっていたのだもの。まあ、あなたの言うことが本当なら、山本家の血は引いていないってことになるけれどね」
「……待ってくれ和音。ちゃんと話し合おう。離婚は嫌だよ。絶対に別れたくない」
和音が立ち上がった。
「後は弁護士と話してください」
リビングを出ようとする和音の腕を引く冬也。
「待ってよ! まだ話は終わっていない! 愛してるんだ!」
「あら、まだ話すことがあるの? 冗談はいいから早くしてくれないかしら。井上冬也さん?」
「あ……」
冬也の指が緩んだ。
すかさず冬也を振り解き、自室へと戻った和音は部屋に鍵をかけた。
「鍵付きにしてもらって本当に良かったわ」
そして和音はヘッドホンで耳を覆い、サン=サーンスの動物の謝肉祭をかける。
第七曲の『水族館』で、少しボリュームをあげて目を閉じた。




