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「そろそろのはずよね」
小夜子の出産はもう数日中だろう。
出産は曜日も時間も選ばない。
もし冬也が仕事中であれば、急な出張とでも言い訳するのだろうか。
それはそれで楽しみだと和音は思った。
そして翌日の水曜日、案の定と言うべきか、夜の八時近くに冬也から電話が入った。
「済まないが、少し問題が起きてね。今から札幌に飛ばなくてはいけない」
今から会社を出て羽田で乗れる札幌便があるのかと思ったが、口から出たのはまったく別の言葉だ。
「あら、それは大変ね。実は私も少し調子が悪いの……すごく心配だわ。代わってもらえないの?」
「え……そうなのか? でも……」
「お仕事だものね。いいわ、今のところ不安なだけだから。お仕事頑張ってね」
「ああ……ごめんね」
よほど急いでいるのだろう。
冬也は言い訳らしいことも口にせず、そそくさと電話を切った。
「破水でもしたのかしら。さぞ心配な事でしょうねぇ」
和音はゆっくりと美弥子に電話をかけた。
「たった今、冬也から電話があったよ」
「あら、今夜なのね? 朝方になるかしら。まあ、明日の昼頃に行けば間違いないわ」
「そうね、悪いけれどお願いできる?」
「勿論よ。任せておいて」
電話を置いた和音は、ゆっくりと着替えをバッグに詰め始めた。
そして翌日。
タクシーを降りた和音の前に、笑顔の美弥子が立った。
「個室に入っているわ。予定通りに隣の部屋を確保してあるから」
「ありがとう。頼りにしているわ」
待合室で二人は待機した。
自分よりも落ち着かない様子の美弥子に、和音はクスッと笑いを漏らす。
昨日のスーツを着たままの冬也が、疲れた顔で現れた。
「あら、冬也さんじゃない」
美弥子がすかさず声を掛ける。
のろのろと振り返った冬也が和音の姿を捉えた。
「どうしたの? どこか具合が悪いの?」
美弥子がわざとらしいほど心配そうな声を出した。
「あ……いや……えっと。部下を……君は? なぜ和音が……」
「ああ、私? 和音から電話があって。なんだかお腹が張るらしくて不安なんだって。でもあなたは札幌だっていうから、私が連れてきたの。もう戻ったの? 最終で飛んで、仕事をこなして? それで始発で戻って部下の送迎? すごいバイタリティね」
冬也は唇を震わせながら、美弥子を見たまま固まっていた。
その時、受付から声がかかった。
「安藤さん。安藤小夜子さんのご家族の方」
冬也の肩がビクッと震えた。
受付の女性が待合室をきょろきょろしている。
通りかかった看護師が冬也に声を掛けた。
「井上さん。呼んでいますよ。それにしても安産で良かったですね。奥様も赤ちゃんも順調ですよ」
ギシギシと音をさせるような動きで冬也が看護師を見た。
和音はお腹を抱えたまま顔も上げない。
美弥子が小さく頷いて見せると、その看護師が和音に声を掛けた。
「山本さん。山本和音さん」
動かない冬也に変わって美弥子が和音の肩を抱いた。
「大丈夫? 和音。歩ける?」
和音は俯いたまま何も言わなかった。
看護師が美弥子の反対側から和音を支えた。
「ゆっくりでいいですよ」
三人が冬也の横を歩く。
やっと冬也の口が動いた。
声だけが和音の後を追う。
「部下が……急に産気づいたと連絡があって……急いで戻ってきたんだ。それだけだ。それだけなんだよ」
一度も振り返らず和音たちは診察室へと消えた。
「井上さん? 入院の手続きをお願いします」
冬也に気づいた受付スタッフが声を出した。
のろのろとペンをとる冬也の頭の中は真っ白だった。




