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「部長、社長がお呼びです」
マネージャーの声に冬也が顔を上げた。
「わかった。すぐに行くよ」
あれから一年が経ち、実の娘の顔を見ることもないまま、洋子の登校にだけは付き合っている。
小夜子との仲は相変わらずだが、冬也が和音を探さなくなってからは、随分と落ち着いてきた。
冬也は自分がしでかしたことの重大さを思い知ったあの参観日から、人が変わったように仕事に打ち込んでいた。
「ああ、来たか」
兄の夏彦がデスクに広げていた書類を閉じた。
「相変わらず良い景色だな」
「そうか? 見慣れると感動が無いな」
「感動か……そうかもしれないね」
「でもな、この環境を維持できていることには感謝しているよ。この平穏を手放さないための努力も欠かさない」
「……手放さない努力か。俺は怠ったんだろうな」
社長秘書がコーヒーを運んできた。
呼ぶまで来ないように指示をする兄の声を聴きながら、冬也は窓際へと歩いた。
「ねえ、兄さんは知っていたのだろう?」
「……洋子ちゃんのことか?」
「うん」
「ああ。知っていたよ」
「どうして何も言わなかった?」
夏彦がソファーに座ってコーヒーカップを手に取った。
「お前が決めることだと思った。でもな、もしお前が後悔するようなら手助けはするつもりだったよ」
「手助け?」
「うん。あまり深入りしないようにな」
「深入り……洋子に?」
「ああ。子供は魔性の生き物だ。無邪気な顔で心を鷲掴みにしてくる。そして必要なくなったらあっさりその手を離す酷い奴らさ」
「……」
冬也が自分の掌を見た。
「俺たちも……そうしてきたのかな」
「そりゃそうだろう。捨てたわけじゃないが、いつも戻るわけでもない」
「そうか。親って寂しいな」
「そうだな。でも、それを喜んでやれるのが親だ。だから俺はお前が中途半端な親になりそうなら止めるつもりだったよ」
「中途半端か……」
冬也がまた窓に視線を向けた。
元赤坂の緑が深い海のように見える。
「まあ座れよ。今日は時間があるんだ」
「珍しいね。社長に時間があるなんて」
「ははは。最近、経営企画部がピリッと仕事してるからな。任せられる範囲が増えたせいだろう」
「そりゃ光栄です」
夏彦がコーヒーを啜った。
甘さの中に苦さを含んだ香りが冬也の鼻腔に届く。
「腹は決まったのか?」
「……まだ少し迷いはあるよ。でも、洋子には何の罪もない」
「ああ、そうだな。どちらの洋子ちゃんにも何一つ罪は無いな」
「どちらの洋子か……そうだな」
「でもな、冬也。どちらも洋子だが、お前を頼りにしているのは一人だけだ。あちらの洋子は、もうお前の範疇には無い」
「うん。そのことは……理解したよ」
窓の向こうにヘリコプターが浮いて見える。
防音ガラスのせいで、外の音は聞こえなかった。
「責任は残る。それは当たり前だ。それだけは違えるなよ」
「もちろんだよ。それだけは必ず続ける」
「で? 奥さんとは?」
「奥さん? ああ、小夜子か。彼女も落ち着いているよ」
「相手の男が分かったのか? えらく真剣に探していたが」
「わかった。元うちの社員だよ。北海道支社から本社転勤してきた男だ」
「こいつだろ?」
夏彦がポンとテーブルに一枚の写真を置いた。
「あ……兄さん、これをどこで?」
写真に納まっているその男の耳を見たが、小さすぎて何もわからなかった。
「最近戻ってきたらしい」
「戻ってきたってどういうこと?」
夏彦が溜息を吐く。
「これは事件の捜査協力で提供された写真だ。詐欺を働いたらしいよ。退社後だからうちには関係ないが、警察から照会があってわかった」
「詐欺……捕まったの?」
「実刑を受けたそうだ」
「……」
冬也はふと木彫りのペーパーナイフを思い出した。
「ははは……思い出した。あれはこいつに貰ったんだった」
「え? お前、こいつと関わりがあったのか?」
「関わりっていうか、転勤してきた挨拶に土産を渡されただけさ。まだ引き出しに入っているよ」
「ふんっ、捨てちまえ」
「うん。それにしても犯罪者かぁ」
「ああ、犯罪者だ」
「絶対に知られちゃダメだな」
「知られるはずもないさ。これは誰にも言っていない。親父にもな」
「……ありがとう、兄さん」
夏彦が小さく頷いた。




