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「和音さん。今日は早く帰れそうだね」
いつから苗字呼びでなくなったのかなど、本人たちでさえ気づいていない。
斉藤建築事務所の現場最前線を担う慎吾と和音には、戦友という呼び名が一番似合っていた。
「ええ。やっと掃除ができそうだわ」
「ははは! 俺なんてもうずっとしてないから気にもならないよ」
「一人暮らしなの?」
「うん。地方出身者だからね」
「どこ?」
和音が散らばった書類を揃えながら、何気なく聞いた。
「広島。知ってる? どこにあるのか」
「さすがに知っているわよ。平和記念公園だっけ? あと宮島も」
「よく知っているねぇ。そう、その二つは世界遺産だ。まあ、正確に言うと、平和記念公園の中にある原爆ドームだけどね」
「そうなの? 娘の修学旅行先が広島なのよ。と言っても、まだ三年も先のことだけれどね」
慎吾が目を丸くした。
「洋子ちゃんって小学生だよね? それで東京から広島? さすが都会は違うねぇ。俺なんて隣の山口県でさぁ。関門トンネルの中にある県境で写真撮ったのが思い出かな」
「ははは! 私も同じようなものよ。私は千葉だから、日光に行ったわね」
慎吾が納得したように何度も頷いた。
「私立は違うってことかぁ。でも費用とか大変じゃない?」
掃除の話から随分飛躍したなと思いながら、和音は頷いた。
「そうね。あの学校はお金持ちが多いから一括払いって人もいるけれど、私のような庶民は積み立てよ。三年生になってから始まるのよ」
「まあ、普通はそんなもんだよ。洋子ちゃんは三年生になったの? じゃあ今年から?」
「まだ二年生。だから来年からね」
「じゃあもっと頑張って働かなきゃだね」
「うん」
慎吾が空調の電源を切った。
「照明も切るよ」
「わかった」
和音が事務所を出ると同時に、慎吾が照明のスイッチを押した。
交代するように点いた防犯照明の赤が、ガラスに滲んで見える。
「お疲れさまでした」
「うん、和音さんもおつかれさん」
風が少し生暖かい。
「じゃあ気を付けてね」
慎吾の声に頷いて、和音は駅の方向へ足を向けた。
新ビルに入居する店舗との打ち合わせもほぼ纏まり、後は内装デザインの詳細まで漕ぎつけた。
洋子には寂しい思いをさせてしまったが、美弥子のフォローで仕事を続けることができている。
「宿題ちゃんとしているかしら。美弥子も大変だろうに」
慎吾の歓迎会から数日後、美弥子は無事に男児を出産した。
陣痛が始まって十時間近くかかった難産だったが、当の美弥子はつるんとした顔で笑っていた。
大慌てで駆けつけた賢治の方が大変で、和音と洋子は二人掛かりで励ましたものだ。
「ふふふ、もう半年も経つのね」
プロジェクトのスタートと出産が重なり、賢治も和音も目が回るほどの忙しさを経験した。
「でも、そのお陰で洋子がしっかり者になったわ」
新生児は純一と名づけられ、すくすくと育っている。
洋子は姉になったのだと勝手に自覚し、率先して純一の面倒をみようとしているらしい。
「今があるのも、本当に二人のお陰ね」
待望の子供が生まれた賢治と美弥子だったが、以前と変わらない態度で洋子に接してくれている。
「ありがたいわ」
この角を曲がれば駅前というところで、和音は後ろから呼び止められた。
「和音さん! 待って」
慎吾の声だ。
「どうしたの? 忘れ物?」
「違うよ。追ってきたんだ」
和音が不思議そうな顔で慎吾を見た。
「今から洋子ちゃんのお迎えでしょう? ご飯は?」
「今日は早いからまだ食べていないと思うわ」
「和音さんが作るの?」
「そうね。いつも美弥子に頼ってばかりだから、今日は私が作ろうかなって思ってる」
慎吾がニヤッと笑った。
「俺も行っていい?」
「え?」
「先輩の家でしょ? 俺もついて行こうかなって」
和音の返事など聞く気もないとばかりに、慎吾が賢治に電話をかけた。
「あれ? 出ない。まだ現場にいるのかな」
「現場?」
「うん。たぶん業者と一緒にいるんだと思う。あそこは電波が繋がりにくいでしょ? 俺が呼んでくるよ。だからごはん作っておいて」
「え? 慎吾君?」
「じゃあ、頼むね。俺はカレーライスが好きだ」
踵を返して走り去る慎吾の背中が踊るように跳ねている。
「……了解」
和音はそう呟いてから歩き出した。




