40
慌ただしく正月が過ぎ去り、南から桜のニュースが届き始めた頃、斉藤建設事務所に新しいメンバーが入ってきた。
「紹介するよ。こちらは設計士の上田慎吾君だ」
スタッフ達の前に立った男が、照れたように頭をかいた。
「上田です。どうぞよろしくお願いします」
社長である賢治が上田の肩に手を置いた。
「今回のプロジェクトは社運を賭けているといっても過言じゃない。俺の恩師に相談したら、上田くんを推薦してくれたんだ。だから大手事務所から無理やり引っこ抜いてきた」
スタッフの温かい笑いが上田を包んだ。
「一生懸命頑張りますので、どうぞよろしくお願いします」
深々と頭を下げるその姿に、和音は新しい風を感じた。
持ち込んだ段ボール箱を机の上に置きながら上田慎吾が和音に声を掛ける。
「えっと……山本さんですよね? 今日からよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします。私は上田さんのアシスタントということですのね、何でも言いつけてくださいね」
「言いつけるなんてとんでもないですよ。まあ、お互いぼちぼち慣れていきましょう」
遠慮がちな会話をしている時、事務所のドアが元気よく開いた。
「ただいま帰りました」
洋子が大きな声で挨拶をする。
「やあ。洋子ちゃん、おかえり」
「今日も楽しかったかい?」
スタッフが口々に洋子を出迎えた。
「ああ、洋子ちゃん。おかえり」
社長室から賢治が顔を出した。
「パパ!」
洋子が嬉しそうな声を出した。
「パパ?」
慎吾の声に和音が答える。
「あれは私の娘です。うちは母子家庭なので、社長がパパって呼ばせてくれているの」
「ああ、そういうことか。驚きましたよ。斉藤先輩には子供がいないって教授から聞いていたから」
「ふふふ……」
洋子の後ろから美弥子が入ってきた。
「ママ!」
「洋子ちゃん早いんだもの。追いつくのが大変だったわ」
大きなお腹を抱えて肩で息をしている美弥子が和音に手を振った。
「和音、お疲れ様。今日は歓迎会なのでしょう? 洋子ちゃんは私が連れて帰るから」
「今日は欠席するつもりよ。あなたこそもう臨月なんだから無理しないで」
和音が心配そうに美弥子の側に立った。
「まだまだって感じよ。動きはするけれど、ぜんぜん気配が無いもの。それより今日から新しい人が入ったのでしょう?」
和音が慎吾を見た。
「あの方よ。上田慎吾さんっていうの。上田さん、こちらは斉藤美弥子さんよ。社長の奥様」
慎吾が美弥子に型通りの挨拶をした。
「こちらこそよろしくお願いします。夫の話だと、随分華やかな経歴をお持ちだとか? 想像していたより随分若いから驚いちゃった」
美弥子がニコニコと笑いながら慎吾に言った。
「華やかなんてとんでもないですよ。ただ運よく目立つ仕事の末端に名前を連ねていただけですから」
「ご謙遜ね。で? おいくつなの?」
美弥子の遠慮ない言葉に、慎吾が少し肩を引く。
「あ……僕は二十七歳です」
「あらぁ、やっぱり若いわね。私たちより七つも下だもの」
美弥子が和音の顔を見た。
和音が目を丸くしながら言う。
「二十七歳? その若さであのモールの設計を? 凄いわね」
「いや、偶々ですよ。僕は教授のプロジェクトの手伝いをしたってだけですから」
社長室から賢治が出てきた。
「美弥子、調子はどう?」
「うん、全然平気よ。だから今日は和音も連れて行って」
「そのつもりだけれど、和音ちゃんが頷かないんだ」
美弥子が和音に顔を向けた。
「たまには息抜きしなさいな。それに、あなたが上田さんのアシストなのでしょう? ちゃんとコミュニケーションとっておかなきゃ仕事に差し支えるわ」
「でも……」
洋子が賢治の手を握りながら言う。
「大丈夫だよ、お母さん。今日はママに宿題を見てもらうし、洋子はちゃんといい子にできるもん」
「そう? 本当に大丈夫?」
和音の言葉に洋子が大きく頷いた。
「じゃあ美弥子、お願いできる?」
「任せてちょうだい。今日はうちに泊めて、明日は賢治に送っていかせるわ」
洋子が美弥子の手を引いた。
「ママ、今日は何を作るの?」
美弥子が洋子の顔を見ながら肩を竦めた。
「今日はウーバしちゃおうか」
「え? 本当? 何でも良いの?」
「ええ、何でも好きなものを頼んでいいわ。きっとパパが払ってくれるから」
後ろで賢治が苦笑いをしている。
「じゃあ……洋子はエビグラタンにする」
「良いわね。じゃあ私はチキングラタンにしようかな。それとフライドポテトも」
「あっ! 洋子も!」
二人が顔を見合わせて悪戯っぽく笑った。
「じゃあね、お母さん。ちゃんとお風呂に入って寝なくちゃダメよ?」
「洋子ったら……」
賢治が和音に笑いかけた。
「決まりだな」
後ろで会話を聞いていたスタッフが、揶揄うように言う。
「そんなこと言っても、いつも社長が一番先に帰りたがるでしょう?」
賢治が振り向きながら言葉を返した。
「そりゃそうだよ。身重の奥さんを一人になんてできないさ」
「かわいい娘ちゃんも待ってるし?」
「うん、そうだ。もうすぐ宝物が二人になる」
和音は少し困ったような顔をしたが、肩を竦めるにとどめた。




