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「冬也さん……私……本当にあなたの子だと……」
冬也が真っ赤な目を小夜子に向ける。
「もう良いよ……それはもうどうでもいい」
そう言った冬也が大きく息を吐いた。
「でも! でも私は本当に」
「もう良いって言っているだろう!」
冬也の叫びがリビングの天井に吸い込まれていく。
「だけどな、お前のことは……」
「え?」
「いや……風呂は?」
「沸いています」
冬也は何も言わず立ち上がった。
その背中に手を伸ばそうとした小夜子の指先が揺れる。
「冬也さん……」
冬也は振り返らなかった。
バシャバシャと顔を洗い、冬也は鏡に映る自分の顔をまじまじと見た。
「和音……」
何をどう償おうと、過去は絶対に変えられないのだという事実に呆然とする。
「洋子……山本洋子……ははは!」
今自分が口にしたのはどちらの娘の名前だろうか。
「なぜ同じ名前にしたんだ?」
そう言った瞬間、自分は和音が産んだ娘の名を考えたことがあっただろうかと思った。
「考えていなかったわけじゃないさ。でも、それを言うタイミングが……」
言葉で自分を誤魔化そうとしたがうまくいかなかった。
そもそも小夜子が産んだ子供の名前など、出生届の話をされて初めて考えたのだ。
「考えたっていうより、思いついたが近いか」
学生時代からファンだったジョン・レノンが最後に愛した女の名前。
フッと浮かんだその名前を口にしただけだった。
「和音にはよく話をしていたよな」
ジョン・レノンがオノ・ヨーコと出会ったきっかけが、天井に書かれた小さな『YES』という文字だったと話した時の和音の顔が鮮明に浮かんだ。
「あの時お前は……なんと言ったのだったかな」
顔は思い出すが、その口が紡いだ音は思い出せない。
冬也はもう一度、勢いよく顔を洗った。
「あいつは誰だ?」
洋子が抱きついていったあの男。
自分と同じくらいだろうか……いや、少し若いか。
血のつながった娘がためらいもなく、その腹に顔を埋めていた男の姿が甦る。
「今日や昨日の関係じゃないよな」
だとしたら、和音はいつからあの男と……そう考えただけで胸がズンと重たくなった。
「まさか和音まで俺を裏切って? いや……そんなはずあるわけないか」
冬也は激しく頭を振った。
臨月の腹を抱え、別れを口にした和音の凛とした姿が鏡に浮かび上がる。
「何の前触れもなかったものな……和音。お前は俺を……愛していたのか?」
そう口にした瞬間、心の中で自分とは違う誰かの声がした。
『ではお前はどうなんだ? お前こそ妻を裏切り、家庭を壊した張本人じゃないか。お前は和音を愛していたのか? 和音を大切にしていたのか?』
冬也の目から涙が溢れだす。
「愛していたさ! 和音だけだ。小夜子は……ただ可哀想な女で……」
『可哀想な女? お前は小夜子の腹の子が自分の子だと信じていたのだろう? 滑稽な奴だ』
「子供が……子供が欲しかったんだよ。俺に似た顔をしている子供が、俺に抱きついてくる……そんな夢を……そんな夢を持って何が悪い!」
『悪くはないさ。でも現実はどうだ? 自分の娘はお前じゃない男が抱きしめているのだろう? しかもお前が愛してきたのは、お前に似るはずもない他人の子だ。笑わせてくれる』
「うるさい! うるさいうるさいうるさい! 洋子は俺の娘だ!」
『それってどっちの洋子のことだ?』
冬也は力いっぱい鏡を殴った。
大きな音をたてて洗面台が揺れる。
鏡は割れず、右手に鈍い痛みが残っただけだった。
「ははは……はははははっ」
冬也はその場に崩れ落ちた。




