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「やっと寝たわ。なんだかすごくテンションが高くて」
「そりゃそうだろう。俺たちだってそうだっただろう? 参観日って晴れ舞台みたいでさ」
賢治がポンと握り寿司を口に放り込んだ。
風呂上がりの昌浩が冷蔵庫から新しいビールを持って来た。
テーブルの上はすでに片付き、皿に移された寿司が所在無げだ。
「さあ、始めましょうか」
チーズケーキとコーヒーカップを自分の前に並べた美弥子がニヤッと笑う。
和音は小さな息を吐いて、湯飲みをギュッと握った。
「最初から順を追って言った方がいいよね?」
昌浩が手酌でビールをコップに注いだ。
「まずは教室に入ったところだね。あいつ、全く気づいていなかったし、同姓同名の子が同じクラスにいることさえ知らなかったみたいだよ」
三人三様の顔で昌浩を見ている。
コクンとビールを一口飲んで、昌浩は続けた。
「授業は算数だった。簡単な足し算だけだと思っていたら、たった半年くらいで引き算もするんだな。驚いたよ」
「へぇ……そうなんだ」
美弥子がコーヒーカップを持った。
「何人か当てられて、それぞれちゃんと正解を答えていたんだ。何人目かにあっちの洋子が当てられた。ちゃんと答えたよ。その時のあいつの顔は穏やかで、何というか……普通の父親? そんな顔だった」
賢治の喉がゴクッと鳴った。
「次に当てられたのが我らが洋子姫だ。黒板の前まで出て、そりゃスラスラと解いたよ。なんだか俺の方が緊張しちゃった」
誰も口を開かないが、三人とも前のめりだ。
昌浩はそれがおかしくて、クスッと笑った。
「それで?」
美弥子が容赦なく続きを催促する。
「学校ではあっちの子がようこ、洋子姫はようちゃんって呼ばれてる。どうやらくじ引きで決めたらしい」
「あっちが偽物なんだから、少しは遠慮するべきじゃない?」
美弥子の言葉に賢治が肩を竦めて見せた。
「だからくじ引きなんだよ」
まだ文句を言おうとする美弥子の肩に、賢治がそっと手を置いた。
「先生がさ『次はようちゃんにしようか。山本洋子さん、答えてください』って言った瞬間、俺はあいつを見た」
三人が数センチ顔を前に寄せる。
「なんだか不思議そうな顔をしてね。眉間に皺なんて寄せちゃってさ。先生の言い間違いか? って思ってたような顔だったね」
「それでも気づかなかったの?」
「うん。あいつは最後に教室に入ってきたから、洋子姫の顔は見ていない。どうやら同姓同名がいるって情報も聞いていなかったんじゃないかな」
賢治がホウッと息を吐いて、背もたれに体を預けた。
「会話の無い夫婦ってことか? それとも娘が言わないのか」
「入学式でわかったはずよ?」
和音の声に三人が顔を向けた。
「だって私もその時に知ったもの」
「ああ、そうだったわね。神の采配かって話をしたのだったわ」
美弥子が何度も頷いた。
「じゃあ言ってないだけか」
賢治が納得したような顔をした。
「洋子姫が見事に正解して、先生が褒めてた。まあ、当然だけれど洋子姫は自慢そうな顔で保護者達を見たんだ」
三人がまた前のめりになった。
「俺はあいつの顔を見た。めちゃくちゃ驚いた顔をしてさ、ブツブツと呟いたんだ」
「聞こえたの?」
「いや、聞こえてはいないけれど、間違いないよ。あいつは『かあさん』って呟いた」
ひゅっと息を飲む音がリビングに響く。
昌浩がまたビールを口に運んだ。
それを待つ間も惜しいとばかりに、賢治がビール瓶を手に持った。
「それで?」
賢治の手から昌浩のグラスに注がれる黄金色の液体が、無数の泡を発している。
それをぼんやり眺めながら、和音は言いようのない胸苦しさを覚えた。
「まあ、その後は淡々と授業が進んだよ。次の授業は音楽室に移動だった」
「音楽? へえ……」
賢治が続ける。
「あの学校はすごいな。小学生の音楽室なのに、ちゃんとひな壇になってるんだ」
「そうなの? さすがね」
美弥子が感嘆の声を上げた。
「子供たちが席に着いてから、保護者達は教室に入ったよ。左右の窓際に並ぶように言われてさぁ、俺はなんとかあいつが正面から見える位置を確保したんだ」
賢治が昌浩の肩をポンと叩いてサムズアップして見せる。
「それほど広くはないけれど、教壇の横にグランドピアノがあってさぁ。マジでいい学校だ」
まるで、そんなことはどうでも良いと言わんばかりに、美弥子が大きく息を吸った。
「子供たちが讃美歌? そんな感じの歌を歌ってさ。それをただ黙って聞いているだけ」
賢治が昌浩の前に寿司の皿を置く。
「まあ、食べながら話しなよ。クライマックスが近いようだし」
その声で、和音は息がつけたような気がした。
昌浩がふんふんと鼻歌で、子供たちが歌った讃美歌をなぞって聞かせる。
「ああ『牧人ひつじを』ね。確か……讃美歌の百三番じゃなかったかな」
美弥子が昌浩と一緒に歌い始めた。
「へぇ……美弥子さん、詳しいね」
「だって卒業生だもの。私はあそこに高校まで通ったわ」
「あ、なるほど」
昌浩がポンと手を打った。
「で? 続きは? あいつはどうしてたんだ?」
賢治が先を急かした。
「うん。ずっと洋子姫に釘付けさ。娘はチラチラと父親を見てたけれど、一度も目が合わなかったんじゃないかな」
「かわいそうに……」
そう呟いたのは和音だった。
「授業が終わって、保護者と一緒に帰るという段になってね。あいつが俺の近くに来たんだ」
「えっ!」
一度頷いてから昌浩が続ける。
「何も話しかけないから、勿論無視したよ。廊下で待っていたら洋子姫が駆けてきて、俺に抱きついたんだ。その時のあいつの顔ったらなかったね。目を見開いて呆然としちゃってさぁ」
堪らず賢治が酒を呷った。
「ねえ早く帰ろうって洋子姫が可愛らしい声で俺に言うんだ。あっちの洋子はモタモタしているのか、まだ教室の中だ」
美弥子の喉がごくりと鳴る。
「俺は洋子姫の頭を撫でた。あいつの顔を覗き見しながらね」
「良い性格してるわ。合格よ」
美弥子が昌浩に頷いて見せる。
「呆然自失ってああいうのを言うんだろうな。それで、俺はわざと洋子姫を囲い込むようにして顔を隠してやったんだ。何とかもう一度見ようとするあいつの前を通り過ぎた」
賢治がクスッと笑って、もう一度昌浩にビールを注ぎ足した。
「話しかけてきたら、何て言ってやろうかって思っていたのだけれど、丁度あっちの子が出てきてね。あいつは俺を追うこともできず、ただ突っ立ってたよ」
「やったわね。さすがよ、昌浩君」
頷いてから昌浩が続けた。
「どうやら気づいたみたいだよ、姉さん」
和音は小さく頷いた。




