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「いってらっしゃい」
「ああ、夕食は目黒で食ってから帰る」
「そう。それなら楽だわ」
洋子はそわそわしながら両親の会話が終わるのを待っている。
「じゃあ行こうか、洋子ちゃん」
「うん。いってきまぁす」
「いってらっしゃい」
ガチャリと閉まるドアの音を聞いた瞬間、小夜子の肩から力が抜けた。
あれほど好きだった男なのにと思ったが、何が原因なのかはわからない。
「まあ、一度浮気をした人って繰り返すっていうものね」
小夜子にとって冬也が初めての男というわけもなく、過去には何度か痛い思いもしている。
「冬也で何人目だっけ?」
自分の男遍歴を思い出しながら、小夜子は買い置きのカップ麺のフィルムを破った。
「まあ、そんなことどうでも良いか」
テレビのリモコンを手に取る。
「主婦向けの番組ってどこも同じね……」
今日は思ったことが全て口から出るなと思いながらも、なぜか止めることができなかった。
「そろそろ衣替えもしなきゃね」
今週に入ってもう何度もそう呟いたが、一向に動く気になれないままだ。
洋子の制服だけが冬物に変わり、冬也のスーツはまだ裏地の薄い秋物だった。
「あれほど好きだったのになぁ」
つい先ほど思い浮かんだ言葉をもう一度声に出す。
それを拾った鼓膜に、ツンとした鈍い痛みが走った。
「必死だったのよね」
冬也が泊った翌日の朝は、なんとか帰らないようにと、それはもう自分でも感心するほど甲斐甲斐しく世話を焼いたものだ。
「ははは。バカバカしいわ」
あの頃は生きていくのに必死だった。
住む場所は与えられたが、なにせ高級マンションだ。
管理費や修繕積立金といった名目で、普通の家賃ほどの額が引き落とされていく。
派遣社員の給料など、口座を素通りするだけだった。
「少し懐かしいかも。あの頃は若かったもわ」
小夜子が自嘲するような微笑みを浮かべた。
「みんな碌な奴じゃなかったけれど」
せっかく貯めたバイト代を、泣きつかれて貢いだこともある。
なけなしの十万円を渡した途端、姿を見せなくなった男もいた。
それを嘆いて飲んだ夜に声を掛けてきた男とは、半年以上も付き合ったがいつの間にか消えていた。
「あのマンションが悪かったのかもね」
ホテル代を惜しんで家にあげたのが運の尽きだったのかもしれない。
どの男も小夜子が金持ちだと誤解した。
「あの男が一番最低だったかも」
小夜子が派遣社員として、冬也の部署に配属されていた時、北海道から転勤してきた男だ。
半年ほどたったころだったか、歓送迎会があった。
渋谷駅前で解散した後、ホームまで追いかけてきて送ると言う。
可愛いだのきれいだのと、今まで言われたこともない言葉を並べ、あげく家に上がり込んだ。
そのくせ週に一度しか来なかった男。
「結婚したいって思ったのは、冬也以外ではあの人だけね」
小夜子はフッと息を吐いて窓の外を見た。
あの頃住んでいたマンションからの景色を思い出す。
「大きな神社があったのよね……結構気に入っていたんだけどな」
渋谷へとつながる道沿いの今のマンションは、便利ではあるが重厚感が無い。
昼間の高いビル群は鬱陶しいことこの上ないが、夜景はうっとりするほど素晴らしいのだけが取り柄だろうか。
「みんな今頃どうしているのかしらね」
つい最近まで、自分は勝ち組だと思っていた。
山本産業の会長の息子と結婚し、子供を授かり専業主婦になった。
妻を捨ててまで自分を選んだ夫に、小夜子の自己肯定感は満たされていたのだ。
「あの人、今頃は惨めに暮らしているのでしょうね。冬也を独占した罰よ。ザマアミロ」
そう言い捨てた唇に、晩秋の風は冷たすぎた。
「気を付けて行きなさいよ」
心配そうな顔をする母に手を振り、三人の子供を後部座席に座らせた。
「川口を使いなさい。お前では不安で仕方がない」
大丈夫だという冬也を無視して、父親は自分の運転手に車の鍵を委ねた。
「心配性だなぁ、相変わらず」
「お前だけなら何も言わんよ。大切な孫たちが乗るんだ」
「はいはい、じゃあ俺は飲んでもいいよな」
「好きにしろ。ただし羽目は外すなよ」
「仰せの通りに」
母親が孫たちに小遣いを渡している。
「俺には?」
「お兄ちゃんから貰ったでしょう?」
「ちぇっ」
バレていたかと肩を竦めて見せる冬也の袖を洋子が引いた。
「パパには私が奢ってあげるから」
後ろから運転手の川口の笑い声が聞こえた。
「いってきます。五時までには帰るよ」
助手席に乗り込み、冬也はシートベルトを締めた。
「お前たちもシートベルトをしなさい」
「はぁい」
カチャカチャと音がして、車がゆっくりと走り出した。
「川口さん、鴨川までってどのくらいかかるの?」
白い手袋をした川口が答える。
「そうですねぇ、順調なら一時間半もあれば着きますよ。ただ土曜ですからねぇ。二時間かなぁ」
「なんだ、近いものだね」
「ええ、日本はどんどん狭くなっていきますね」
後部座席ではしゃいでいた子供たちが、いつの間にか静かになっている。
「寝たのかな?」
体を捻って後ろを見ると、可愛い寝顔がみっつ並んでいた。
甥たちは祖母に似た顔をしている。
久々にゆっくりと見た洋子の寝顔に自分の血筋を探してみた。
「ははは……ないよな。そりゃ」
冬也の独り言を聞き流した川口が、大きくハンドルを切って東京湾アクアラインへと車を流し込んだ。




